笑顔が好きだった 【コミカライズ進行中】
ティーラとアルマンドは幼馴染みで婚約者であった。
ティーラは子爵家の一人娘で15歳。17歳の伯爵家の三男であるアルマンドが婿入りの予定であった。
太陽のような金髪で、快活に笑うアルマンドがティーラは好きだった。子どもの頃に家で決められた婚約者であっても、季節が必ず巡るように、アルマンドと必ず結婚して寄り添って人生をおくれるものだとティーラは信じていた。貴族の娘なのに好きな人と結婚できる幸運が嬉しかったのだ。
子爵家と伯爵家の領地は隣り合わせで、両家の関係は良好。派閥の問題もなかった。何よりも幼い頃からずっといっしょで仲がよいティーラとアルマンドの姿に、子爵家と伯爵家は最上の良縁だと婚約を結んだのであるが。
アルマンドは社交界に出るようになってから変わってしまった。
社交界は刺激的で、何もかもが新鮮な体験であった。新たな人間関係と誘惑の多い選択肢にアルマンドは夢中になったのである。
そして。
「不幸だな」
「政略でもないのにもう婚約をしているなんて」
と言う社交界で知り合った友人たちの言葉には妬みが根底にあった。アルマンドの友人は貴族家の次男以下が多い。婿入り先が決定していて、安楽な将来が約束されているアルマンドに対しての嫉妬をしたのである。しかしアルマンドは若く経験不足で、友人たちの言葉の裏を読み取る察知力がなかった。
婚約者がいる故に独身時代を謳歌できないことを憐れまれて、アルマンドがティーラと徐々に距離をおいてしまったのである。
まだ人生を縛られたくない。
自分で選んだ婚約者ではない。
アルマンドの言い訳には、若者特有の責任を持たない反発感も含まれていた。
しかもアルマンドは恋をしてしまった。
アルマンドと同じ年の華やかな伯爵令嬢であった。
婚約者の義務としてエスコートをしても、パーティー会場に入った途端にティーラを放置して伯爵令嬢の元にアルマンドは向かった。
ティーラも友人たちの集まりに行くことができればよかったのだが、友人たちの同情の眼差しを受けることが嫌だった。
アルマンドの友人たちがティーラを面白がって、くすくすと笑うことも惨めであった。
結局ティーラは目立たない壁側の隅でひっそりと立ち、アルマンドが伯爵令嬢と楽しげに会話する姿を眺める回数が増えていった。恥ずかしくて、情けなくて。それでもティーラは天を仰いでまっすぐに咲く花菖蒲のように凛と顔を上げていた。ティーラにも貴族としての矜持がある。項垂れて弱さを見せてしまえば、たちまち社交界で悪質な噂の的にされて餌食となってしまうことを察していたからだ。
そんなティーラの近くで、常に銀髪の青年が立つようになった。挨拶はない、会話もない。毎回、婚約者のいるティーラに相応しい距離をとって礼儀正しく立っているだけである。それでも青年の高い身分が周囲への睨みとなり、タチの悪いからかいをティーラにする者はいなくなった。
さりげなくティーラは青年をチラ見する。
細身だがしなやかな体躯に高価な衣装を纏い、麗しい顔立ちに月光の滴のごとき銀色の髪にサファイアのような青い双眸。
冷え冷えとした視線で周囲をなぎ払っているが、青年に声をかけたそうな人々の目線が徘徊するみたいに彷徨っていた。
どうして青年が側にいてくれるのか、ティーラにはわからない。
だが。
青年の存在はティーラの呼吸を楽にした。青年とは視線を交わすことすらなかったが、ティーラは竦んでいた肩の力を抜くことができたのである。
パーティー会場の片隅で、ティーラは思考を巡らした。目の前ではアルマンドが伯爵令嬢と踊っている。先日の茶会ではアルマンドの隣に伯爵令嬢が座った。ティーラの嘆きや苦しみさえも、アルマンドと伯爵令嬢には背徳という甘い蜜に変化するのだろう。
ティーラは、踊るアルマンドと伯爵令嬢を見据えた。アルマンドと伯爵令嬢は胸元を揃いのブローチで飾っている。
もうアルマンドの特別は違う人なのだ、とティーラは思った。
ゆっくりと。
階段をおりるように。
ティーラの恋心がアルマンドから離れて沈んでいく、その反比例をするように。
青年は、一人ぼっちのティーラにとって小さな灯となっていったのであった。
やがて、水面下で伯爵家と子爵家の話し合いが繰り返されるようになった頃。
「アルマンド様、お願いです。婚約者としての節度を考えてくださいませ」
幾度訴えてもアルマンドは聞いてくれない。ティーラの諌める声に耳を傾けてくれないアルマンドであるが、この日もティーラは注意を促した。
しかし何度も伯爵家からも子爵家からも態度を咎められていたアルマンドは、ティーラの忠告が煩わしかった。
「うるさい! 結婚もしていないのに妻気取りか!? いちいち僕に口出しをするな!」
怒鳴られて青褪めるティーラに苛立ったアルマンドは、つい勢いで口走ってしまった。
「本当に鬱陶しい。婚約を破棄しよう、僕には好きな人がいるんだ。いいよね、ティーラ」
本心ではなかった。
恋に浮かれていたが、伯爵家にはアルマンドに与えられる予備の爵位はないのだ。ティーラと結婚できなければアルマンドは平民になるしかない。恋人の伯爵令嬢は次女で、アルマンド同様に爵位のある者と結婚できなければ将来は平民である。
だからアルマンドはティーラと結婚するつもりだった。
ティーラの愛情の上で胡座をかいた狡い打算だ。
青春を楽しむ期間限定の恋のはずであったのに、両親から口やかましく注意された不満が募って、大人しいティーラを捌け口にしたのである。
ティーラが身を強張らせた。涙が滲む。ティーラはレースのハンカチを持っていた。アルマンドからの今年の誕生日プレゼントである。平民が使うみたいな木綿の安物のハンカチだと両親が激怒した品であった。膝の上で握りしめたハンカチにギュッと皺が寄る。
うるさく言う罰だ、とアルマンドの溜飲がさがった。
アルマンドは知っていた。ティーラから愛されていることを。自信があったのだ。だからティーラが婚約破棄を望まない、とアルマンドは思っていたのである。
場所は子爵家の応接室であった。
子爵家の使用人たちもアルマンドの従者も部屋には控えていた。すぐさま子爵家の使用人の一人が部屋から消えた。
複数の足音が響く。
慌ただしく子爵夫妻が応接室に入室してきて、唇を噛みしめて涙があふれるのを堪えたティーラが椅子から立ちあがった。
「婚約破棄、承知しました」
もう抑えられなかった。
胸の中で雪のように静かに積もっていたものが言葉になる。
「アルマンド様が好きです。笑顔が好きでした。でも、嫌いです。私を蔑ろにして、子爵家の体面を軽んじるアルマンド様の行動は屈辱でした。それに結婚前から浮気をする方は、結婚後も信用ができません。余計な家督争いの騒動となってはたまりません」
「え? ティーラ、本気で言っているのか!?」
アルマンドが身を乗りだした。額に汗を浮かべて叫ぶ。
「ティーラは僕のことが好きなんだろう!?」
「私は貴族の娘です。貴族の結婚の意味を了承しています。私は子爵家が大事です、その子爵家に未来の火種は必要ありません」
ティーラが毅然とした態度で言葉を綴る。
握りしめたハンカチのレースに爪先が食い込んだ。
「アルマンド様は順番を間違えました。婚約中に恋人をつくることは私への蔑視であり、子爵家の名誉や立場を軽視することです。それによって婚姻における信頼を失くしました。貴族にとって命綱にもなる信用を自身の手で切ったのです」
一歩、ティーラが足を踏み出した。
思い出が蘇る。
花畑で花冠を作ってくれた。茨と霞草の花と葉を茎でつなぎ合わせた花冠を頭にのせたティーラに、照れたみたいな笑顔のアルマンドの頬が赤かった。
二人でダンスの練習をした。上手に踊れないティーラに、大丈夫だよリードするから、と明るく笑ってくれた。
馬に乗せてくれた。馬の速さに興奮して楽しくて、お互いの笑い声が青い空高くに響いた。
二歩目で、ティーラは俯きそうになる頭を上げた。皺が寄りグシャリとなったハンカチを侍女に渡す。
いつもアルマンドといっしょだった。
花々が色鮮やかに綴られて咲く春も。
風がキラキラと煌めいて唄う夏も。
月が星宿る夜空に澄む秋も。
雪が音を吸い込みながら舞う冬も。
いつも、いつも、アルマンドと。
三歩目で、ティーラは美しく姿勢を正した。
好きだった。
愛していたのだ。
けれどもパーティーの壁で立っていた長い間に、心の整理は片付いていた。優しく濁し、場を収める時間は終わったのである。もはや言い訳の余白すら認めることはできない。
アルマンドは裏切った。
幼い頃にお互いを見ることはできても、ティーラとアルマンドは同じ方向を見ることはできなかったのだ。
「アルマンド様、まだ優しい人が周りにいるうちに踏み止まってくださいませ。貴族は墜ちてからでは遅いのです」
「ティーラ?」
「アルマンド様がご自身で選んだのです。私とアルマンド様の道は分かれてしまいましたが、末永い幸せをお祈り申しております」
顎を引いて背筋を伸ばしたティーラが、貴族の令嬢の顔をして優雅な足取りで応接室から出て行く。
「ティーラ、待ってくれ……っ!」
アルマンドが呼んでも、ティーラは振り返りもしない。
茫然とするアルマンドに子爵が冷たく言った。
「正式な手続きは後日になるが、とりあえず君の署名を婚約破棄書に書いてもらいたい。君が希望して、ティーラが納得した。さぁ、今すぐに署名を」
子爵は、後ろに立つ秘書から受け取った書類をアルマンドに差し出した。
両親はティーラに、耐えろとも支えろとも言わなかった。むしろアルマンドに対して怒りを露わにした。婿入りの分際で浮気なぞ許さん、と怒髪天であったのだ。
すでに子爵家では、婚約破棄の準備段階であったのである。
アルマンドは拒否したかった。だが、拒絶できる状況ではなかった。ショックで血が凍る。顔面が蒼白になった。
「婚約破棄は君からの申し出だ。否やはあるまい」
子爵の鋭い視光がアルマンドを射抜く。逃げ道を塞ぐ厳しい視線だった。
「あ、あれは……」
「あれは何だと言うのだ? 常々君の態度を諭してきたが、改められることはなかった。伯爵家とは相談して、婚約解消の条件を話し合っている途中だったのだ。伯爵家からは若気の至り故に猶予を与えてほしいと懇願されて、なかなか条件が進まなかったが……。解消ではなく破棄になってしまったがね」
アルマンドは自覚していなかったが、崖っぷちだったのだ。その崖から愚かにも自分で飛びおりたのである。
後悔しても遅い。
自業自得である。
ティーラを粗末に扱い、伯爵令嬢を優先した。全部、自分で選択したことだ。
口を開いても反論は喉元で固まり、砂のように零れて言葉にならない。何も言えなかった。
やむなくペンを持つ。
アルマンドの手が震えた。
震えを抑えるためにガリッとペン先が紙を掘る。
書きたくなかった。署名が歪む。
書類には。
醜くねじれたアルマンドの名前が記されたのであった。
それからはあっという間だった。
婚約はアルマンド有責で破棄されて、破棄料として伯爵家はアルマンドの個人資産の全額を渡すことになったのだ。
アルマンドの容姿は端正であるが。
伯爵家という家柄があっても、資産もなく浮気の経歴があるアルマンドを婿に望む無謀な貴族家は現れなかった。恋人の伯爵令嬢も逃げてしまい、親しくしていた友人たちも残る者はいなかった。
「これからどうするつもりだ?」
父親に尋ねられてもアルマンドには返答できない。
王宮の文官になる才はなく、武官になる腕もない。家から譲られる個人財産もなくなった。
子爵家では賢いティーラと、代々の代官や執事に助けてもらうつもりだったのだ。
答えられないアルマンドに父親は重い溜め息を吐いた。
「伯爵領の片隅に下級役人の席を用意した。貧しくとも平民としては食べていけるだろう。これは父親としての情だ。領地の役人が嫌ならば自力で生きていけばいい。ただしその場合は、後々の憂いとならぬように伯爵家から完全に籍を抹消する。せっかく用意した婚約を壊したのだ。二度とティーラ嬢と会うことも許さん、それは伯爵家に泥を塗る行為に繋がる。伯爵家の当主として判断するならば、当主に逆らったおまえは落馬による事故死となるぞ」
「……ありがとうございます、役人になります」
父親に縋りつくしかない。アルマンドの進む道は泥と草が交ざったみたいな細い道しかなかった。
半年後。
アルマンドは王宮夜会に出席していた。
明日、領地へと出立するアルマンドに父親の最後の温情であった。
さざ波のように多くの貴族が夜会会場でざわめいていたが、アルマンドの視界に映っていたのはティーラであった。
近づきたかったが、父親に刺された釘が歯止めとなってアルマンドは足を動かすことができなかった。
ティーラは銀髪の青年と談笑していた。
新しい婚約者である侯爵家のギリアスである。銀髪のギリアスと黒髪のティーラが並ぶと、まるで玲瓏な月と夜空のように仲睦まじく似合っていた。
「まぁ、ギリアス様ったら」
くふくふとティーラが笑う。
「本当だよ、ティーラの笑顔に一目惚れしたんだよ。ティーラに意識して欲しくて側にいたんだ。虫除けにもなるし。アルマンド殿が浮気中だったから婚約破棄になるかも、と神に祈っていたんだ」
「一目惚れ?」
びっくりとティーラが目を見開く。
「初めてティーラを見たのはデビュタントの時だった。ティーラはアルマンド殿と笑いあっていた。その笑顔が、蝶々が飛び立ってしまいそうな花びらのスイートピーみたいに可愛くて。次に見た時は、ティーラはパーティー会場の壁の花だった。一人で立っていた。その姿が、寒い冬の風に虐められても凛と立つ冬薔薇みたいに美しくて。胸が痛くなって、恋におちたことを自覚したんだよ」
ティーラの頬が花色に染まる。
「……ギリアス様、嬉しいです」
「僕も嬉しいよ。こうしてティーラの婚約者になれて」
幸せそうに微笑むティーラの姿に、アルマンドは耳鳴りがした。グラグラと目眩がする。
ティーラの笑顔を見たのが久しぶりだったからだ。
昔は毎日笑っていたのに、社交界では笑わなくなった。だんだんと悲しげな表情となり、萎れた花のような痛々しい目をするようになったのだ。
ずっといっしょにいた。
幼馴染みだった。
婚約者だったのだ。
子どもの頃からずっと。
隣でティーラは笑っていた。
恋人との熱情を恋だと思っていた。が、恋だったのだろうか? 恋人が去ってもつらくはなかった。ティーラと婚約破棄した後は心臓に穴が開いたみたいに苦しかったのに。
本当に……。
本当に好きだったのは……。
……ティーラであった……。
ティーラの笑顔を見て、気づいてしまった。
ティーラの笑顔が好きだったのだ。
ティーラとギリアスは、アルマンドに気がつきもしない。
「ティーラ、月が綺麗だよ。ベランダで見ようよ?」
「はい、ギリアス様。月が綺麗ですね。素敵ですわ、ベランダに行きましょう」
「あちらのベランダにはテーブルと椅子が設置されているよ」
「ギリアス様、飲み物とお菓子を給仕に持ってきてもらいませんか?」
「いいね、そうしよう。でも、どうしよう。可愛いティーラの隣に座りたいけど正面から愛しいティーラを見つめたい。悩んでしまうよ」
「もう、ギリアス様ったら」
指の隙間を埋めるようにティーラとギリアスが指を絡めて手を繋ぐ。
寄り添ってベランダに向かうティーラとギリアスの後ろ姿を、アルマンドが胸をおさえて見送った。
『アルマンド様、お月さまがピカピカです』
まん丸の満月を指差して幼いティーラがにこにこと笑う。蜂蜜入りのホットミルクにサクサクのクッキー。まだ夜の時間をともに過ごすことが許されていた年齢の頃、二人でお菓子をつまみながら夜空を仰いだ。
ティーラが笑って、アルマンドも笑って。
とても幸福だったのに。
一番近くにいてくれたから、それが当たり前になってしまっていた。
「ティーラ、ティーラ、ティーラ……」
名前を呼べば、アルマンドの中に氷の礫のような冷たい悔悟が喉から滑りおちる。全身が寒くて痛い。
アルマンドは両手で顔を覆って膝をついた。
後悔という言葉の意味を、アルマンドは心の奥底から理解する。
世界が崩壊したかのように視界から色彩が消滅した。絶望に引きずり込まれる。
その夜からアルマンドの眠れぬ地獄の夜が始まったのであった。
ティーラ
笑顔が好きだったけど、今はギリアスの優しい笑顔が好き!
ギリアス
笑顔が好きだった、忘れられなかった。これは運命の出会い
アルマンド
笑顔が好きだった、これからもずっと
おまけの子爵、勝利の笑顔
「何!? 小僧が婚約破棄を宣言しただと! 伯爵家が拒否して婚約解消が進んでいなかったのに、これは大チャ〜ンス!!」
ドドドドドドッ!
「書類を忘れるな! 走れ、走れーーっ!!」
読んでいただき、ありがとうございました。
【お知らせ】
「婚約破棄された令嬢が「私は、お飾りの妻ですよね?」と言ったら、恐ろしい笑顔の新しい婚約者に100キロの純金ドレスをプレゼントされてしまいました」が一迅社様よりコミカライズして配信中。
漫画は、いなる先生です。
短編のコミカライズなので1話と短いですが、コリーヌが清らかで可憐なカスミソウみたいに可愛いです。
「ララティーナの婚約」がマグカン様にて連載配信中。
1話の短編の方ではなく、書籍の方の連載コミカライズです。5回目配信は、ヴァドクリフが家族に前世を打ち明ける感動シーンです。
漫画は、カ加羽先生です。
どうぞよろしくお願いいたします。




