トウチク
夜の静寂が支配する中、テオは背の低い草が一面に敷き詰められたなだらかな平野を一人歩いていた。踏み出すたびに夜露に濡れた草葉が微かな音を立て、冴え渡る月明かりが、どこまでも続く平原のうねりを青白く浮かび上がらせている。
その平野を登りきった先、空の底が抜けたかのように、無数の星々が瞬く見晴らしの良い丘の上。
冷たい夜風が吹き抜けるその場所で、真鍮でできた巨大で複雑な観測儀を覗き込むアシュプルがいた。
「こんばんは、トウチクさん!」暗闇の中から現れたテオが、いつものように無邪気な声をかける。
「ああ、テオか。」
トウチクは観測儀から目を離さず、静かに応えた。
「今日も星を見ているの?良く見える?」
「ヴィラレライトの空は澄んでいるから、いつでも星は良く見えるよ。……見れば見るほど、完璧な空だ。星々の瞬きも、季節ごとの運行も、きっと美しい数式で表せるはずだ。私はその数式から、この世界の設計図を逆算したいんだ。」
「確かに、毎日必ずお日様が昇るもんね!」
テオが無邪気に同調すると、トウチクは嬉しそうに振り返った。
「テオ!君は本質を突いているぞ。」
「じゃあ、お日様にも設計図があるんだね!」
テオが目を輝かせて尋ねた直後、ふいに彼の声のトーンが平坦になった。
「お日様は、お日様だよ。」
まるで自分の発言を自分で打ち消すような奇妙な反復。だが、トウチクがそれに違和感を覚える前に、テオはいつもの屈託のない笑顔に戻っていた。
「トウチクさん、また面白い話を聞かせてね!」
テオはパタパタと手を振って歩き出すと、小脇に抱えたノートを開いた。
インクの滲まない真っ白なページに、丸っこい文字が綴られる。
『トウチク、星を見る』
だが、ノートを閉じて丘を下り始めたテオの足取りは、次第に奇妙なものへと変わっていった。歩いては立ち止まり、夜空を見上げては、虚空に向かってひとりごとを呟く。
「星は、誰かが作ったの?」
「星は、星だよ。」
テオは誰に向けるでもなくそう言い放つと、ふらりと一歩、足を踏み出した。
「ヴィラレライトも、誰かが作ったの?」
「ヴィラレライトは、ヴィラレライトだよ。」
テオの体は糸の切れた操り人形のようにぐらりと傾き、そのまま丘の斜面を、あてもなくふらふらと歩き始めた。
「アシュプルは、どこから来るの?」
「アシュプルは、アシュプルだね!」
月明かりの下、焦点の定まらない瞳で夜の闇を歩きながら、テオは反復を繰り返す。
「じゃあ隣人も、どこかから来たの?」
「隣人は……隣人は……」
朦朧とするテオの足取りが致命的に鈍り始めたその時。
森の暗がりから、ランタンの灯りを揺らして丘を登ってくる人影があった。マツの小屋から出てきたニシキギだった。
「……テオ?こんな夜更けに、どうしたんだ。」
異様な足取りで近づいてくるテオに歩み寄り、ニシキギがその小さな肩に手を触れる。
テオがゆっくりと顔を上げる。その瞳に、もはや無邪気な子供の光はなかった。
「……ニシキギ。」
いつもの無邪気さが抜け落ちたその声に、ニシキギは背筋が凍るのを感じた。
「ニシキギは……ニシキギだよね。」
それが、最後の言葉だった。
テオの身体からふっつりと力が抜け、そのまま前のめりに崩れ落ちる。
「テオ!」
間一髪でその体を抱きとめたニシキギは、意識を失ったように動かないテオをしっかりと抱え直し、星明かりの下、世界の中央にそびえる巨大な塔を目指して駆け出した。




