ハルニレ
巨大樹の根元でニシキギと別れた後、テオは一人で深い森を抜け、荒涼とした岩山の中腹へとやってきた。
急峻な崖にへばりつくように建てられた、古びた石造りの小屋。それが、今日のテオの目的地だった。
「こんにちは、ハルニレさん!元気にしてた?」
重い木の扉を押し開けると、床中に羊皮紙や石板が散乱する薄暗い室内で、白髪の男が羽ペンを走らせていた。
「おお、テオか。やあ、よく来てくれたね。」
ハルニレはペンを置き、磁器のように白くなめらかな顔に嬉しそうな笑みを浮かべて振り返った。人里離れた辺鄙な場所で世捨て人のような暮らしをしている彼だが、決して他者との交流を嫌っているわけではない。
「今日は何のお勉強をしてるの?」
「自己参照的変数集合と観測者代数だよ。」
ハルニレは楽しげに、散乱した石板の一つを指差した。そこには、常人には理解不能な複雑な数式がびっしりと書き込まれている。
「じこさんしょうてき……?それは、何に役立つの?」
テオが小首を傾げると、ハルニレは目を細め、静かに答えた。
「私や君が何者なのか、それが分かるかもしれないんだ。」
「僕は、隣人だよ。」
テオは胸を張り、一切の迷いなく答える。
「それはそうだ。では、隣人とは何かな?」
「隣人は、隣人だよ!」テオの無邪気な同語反復に、ハルニレは愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「そうだね。まったく、君の言う通りだ。……もしこの数式に答えが出たら、一番に聞いてくれるかい?」
「うん!もちろんだよ!」
テオは満面の笑みで頷いた。そして、ふと思いついたように、屈託のない声で尋ねた。
「ところで、ハルニレさんには本当の名前はあるの?」
その瞬間、小屋の中の空気が微かに変わった。
ハルニレの笑顔が消え、鋭い観察者の瞳がテオを射抜く。
「……君の特殊性は、その役割だけではないのか?」
ハルニレは自問するように、低く呟いた。
「あれ?」
ハルニレの沈黙を前に、テオは数秒だけ視線を虚空に泳がせた。
そしてパチリと瞬きをすると、いつもの無邪気な笑顔に戻って言い放った。
「ハルニレさんは、ハルニレさんだね!」
「……ああ、そうだ。私はハルニレだ」
ハルニレは静かに頷き、再び机に向かい、しばらく無言のまま石板を見つめていた。
テオは「またね!」と手を振って小屋を去る。
テオは小脇に抱えたノートを開いた。
インクの滲まない真っ白なページに、丸っこい文字が綴られる。
『ハルニレは、ハルニレ』




