マツ
いくつものなだらかな丘陵地帯を越えると、開けた視界のはるか前方に、天を突くような巨大な樹木が姿を現した。その常軌を逸した質量は、周囲の風景の縮尺を狂わせるほどにそびえ立っている。
「見えたよ!あの大きな木の根元にあるのが、マツさんの小屋だ。」
テオが指差す先には、うねるような巨大な根の隙間に寄り添うように建てられた、丸太組みの質素な小屋があった。
ニシキギは早まる鼓動を抑えながら丘を下り、二人はその重厚な扉の前に立った。
「こんにちは、マツさん!元気にしてた?」
テオが勢いよく扉を開けると、ほのかに木の香りが漂う静かな室内で、一人の初老のアシュプルが暖炉の火の番をしていた。
「やあ、テオ。今日も元気そうだな。……私は相変わらずさ。」
マツは穏やかな声で応えながら振り返り、ふとテオの背後に立つニシキギの存在に気づいて目を細めた。
「見かけない顔だが……新しいお仲間かい?」
「初めまして。ニシキギです。」
ニシキギは一歩前に出て、静かに、だが確かな緊張を孕んだ声で告げた。
「実は、人を探しているんです。道中で出会ったツルバミという男から、あなたを訪ねるといいと言われました。……アオキという名前に、心当たりはないだろうか?」
その名前が発せられた瞬間、マツの動きがピタリと止まった。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが、薄暗い室内に響く。マツはしばらくの間、完全に無言のまま、何か遠い記憶の底を探り当てるような深い瞳でニシキギをじっと見つめ続けていた。
やがて、彼は深く息を吐き出し、ゆっくりと口を開いた。
「……そうか。君も、登ってきたのか。」
その言葉の響きには、ヴィラレライトの住人らしからぬ、どこか冷たい質感が混じっていた。
「私がアオキだよ。今はマツと名乗っているがね。」
その言葉の余韻が暖炉の火の音に溶け込み、二人の間に重い沈黙が落ちた。
「アオキさんは、マツさんのことだったんだね!探していた人に会えてよかったね、ニシキギさん!」
無邪気な声が唐突に空気を打ち破り、テオが嬉しそうに手を叩く。
しかし、ニシキギは信じられないものを見るような目で目の前の男を見つめ、ひどく掠れた声で問いかけた。
「アオキ……いや、ここではマツか。あなたは一体、いつこっちに……?」
「百年、あるいは二百年前だったか。もう数えるのをやめてしまったからな。ニシキギ、ここではあまり意味のない質問だよ。」
マツは静かに首を振り、暖炉の炎へ視線を落とした。
ニシキギは目を見開いたまま、次の言葉を返すことができなかった。
「ヴィラレライトから見ると、塔の外は時間が止まっているようなものだからな。」
マツは諭すように続けた。
「君はまだ、あの頃のままの君なんだな。」
「二人は、塔の外で知り合いだったの?」
話の文脈を拾い上げたテオが、小首を傾げて無邪気に尋ねる。
「あれ?マツさん、それは変だよ。ここが塔の外だし、それにニシキギさんは塔を降りてきたんだよ?」
誰の応答も待つことなく、テオは言葉を続けた。その表情や声のトーンはいつもの無邪気なままだが、どこか瞳の焦点が合っていないように見える。
「そうか。ヴィラレライトはヴィラレライトだもんね。」
ふいにテオの視点がピタリと定まり、いつもの屈託のない笑顔で再び尋ねた。
「二人は、ヴィラレライトの外で知り合いだったの?」
その一連の奇妙な言動を、ニシキギはただ不思議そうに見つめていた。
だが、マツは一切気にした様子もなく、穏やかな態度で答えた。
「そうなんだ。私たちは古い知人でね。ニシキギをここまで案内してくれてありがとう、テオ。」
マツが穏やかな声でそう告げると、テオは花が咲いたような笑顔を見せた。
「役に立てて嬉しいよ、マツさん!ニシキギさんも、他に会いたい人や、やりたいことが見つかったら、いつでも教えてね!」
暖炉の前で彫像のように立ち尽くすニシキギの姿をゆっくりと見つめ、マツは労わるような、あるいはすべてを悟りきったような声で語りかけた。
「……色々と聞きたいこともあるだろう。今日は、この小屋に泊まっていくといい。」
「……」
ニシキギは深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと長く吐き出した。
ようやく全身の硬直が解けたように、ニシキギは暖炉のそばの木製の椅子に重く腰を下ろした。
そして、どこか吹っ切れたような、自嘲気味な笑みを口元に浮かべる。
「ああ、そうさせてもらおう。……二百年分、何があったのか、たっぷりと問いただすとするよ。」
その言葉に、マツは静かに目尻を下げた。
「三百年でも付き合おう。」
永遠の時間を生きるアシュプル特有の、底知れぬ余裕と優しさがそこにあった。
「じゃあ、僕は行くね!」
二人のやり取りを見届けたテオが、重厚な木の扉に手をかける。
「またね!マツさん、ニシキギさん!」
振り返り、パタパタと大きく手を振って、テオは軽やかな足取りで深い森の方へと歩き出していった。
重い扉が閉まり、静寂が戻った巨大樹の根元。パチリ、と暖炉の薪が爆ぜる音に混じって、やがて小屋の中からは、時の流れから完全に切り離されたような、二人の静かな談笑が漏れ聞こえ始めた。




