第9話 若葉の水かきで泳ぐ
桜の季節が過ぎ、セーラー服にも着慣れてきた頃。
アサガオの花弁が開きはじめる。
交換日記は順調に続き、2冊目へと繰り越された。
正直、毎晩の楽しみだ。ペンの色が増えて、筆箱に収まらなくなった。寝る前に几帳面な書き文字を読まないと、落ち着かない。
しかし最近、お嬢様の筆跡から、元気を感じない。
制汗スプレーも溶けそうな日照りのせいだろうか。
今日は、プール開きだ。
体育の先生は、気前がいい。
高校初めてのプールだからと、自由時間に設定してくれた。
もちろん、全員、紺色のスクール水着。
アラサーの私も例外ではない。
水面を見るのすら恐怖を感じる。青春の1ページがブルセラショップに塗りつぶされてしまう。
私の役目は、端っこで静かに座る陰キャだ。
首を回すと、目がマグロのごとく泳ぐ。
まるで、桃源郷。
青い空の元、シミのない若い肌が、きらめいている。
ああ。
死ぬなら、今みたいな場所がいい。
「恵巳さん」
「うわっ!」
突然、声を掛けられ、素っ頓狂な声を発する。
顔を上げると、見慣れた頬が膨らんでいた。
「恵巳さん、隣、いいですか?」
「友達とは、もういいの?」
「はい。最近は、恵巳さんのとこに行かないのって、心配してくれます」
「……なんか公認になってる?」
「ふふふ。みんな、自己紹介のこと、覚えているんですよ」
私の肩に寄りかかりながら、腰を下ろす、ナギサちゃん。
否が応にも、感じてしまう。
紺のナイロン繊維とは対照的な、麗しい肌。
水滴がプールサイドに落ちる音と、塩素の香り。
日照りが厳しく、脳細胞がジリジリと焼けていく。
「それよりも、恵巳さん。あたしのこと見てなかったですよね?」
「そ、そんなことはないけど……」
「あたしの目、見てください」
無意識に、大好きなスクール水着を追いかけていただけだし。
指定している学校が悪い。
「……恵巳さん」
「はいっ」
まるで吊り天井みたいに、ナギサちゃんの顔が、迫ってくる。
黒い瞳に映った、私の間抜け顔と目が合った。
「恵巳さん、見ていてください」
消毒シャワーみたいに冷たい声だった。
返事の暇もなく、ナギサちゃんは、プールに飛び込む。
20メートルの、往復コース。
彼女は、泳ぎ出した。
流麗なクロール。
太陽光を反射した水しぶきが、煌めく。
目が、乾いた。痛くて、痒い。
でも、瞼は開いたままだ。
動作のひとつひとつが、肉体美の別側面を見せ、周囲の生唾を奪い去っていく。
そっか。
世界は、額縁だ。
森羅万象は、ナギサちゃんを美しく彩るために、存在してる。
炭酸の泡みたいに、何度もフラッシュバックする、甘美な光景。
直視する太陽よりも、鮮烈だった。
「どうでしたか?」
お嬢様の表情は、勝ち誇っていた。
滴る水すらも、心をかき乱す。
「ふふふ。大丈夫ですか?」
「あっ、ご、ごめん」
必死に返事をすると、喉も口内も、乾き切っていた。
「キレイだった。すごく……」
「ありがとう、ございます。もう、他の人は見えませんか?」
「……うん」
どうしよう。
私、ナギサちゃんの吐息だけで、壊れるかも。
「恵巳さんの泳ぎも見てみたいです」
「ねえ、知ってる? 人間は、泳げるようにできていないの」
「ふふふ。そうですか」
軽くあしらわれた。敗北した気分。
まあ、ナギサちゃんになら、いくら負けてもいっか。
「残りの時間、泳ぐ練習をしませんか?」
「えー。別に困らないし」
「あたしが教えたいだけ、なんです」
「なんで?」
「ふたりっきりになれますから。頭の中も含めて」
そっか。コーチングって、近づけるシチュエーションなんだ。
お互いに、相手だけをみつめる作業。
本当の意味で、ふたりっきりになれる、魔法のひと時だ。
「そっか」
「はい」
「……よろしく、お願いします」
「はいっ!」
善は急げ。手取り足取り、ご教授される。
最初はバタ足も不揃いで悔しかったけど、ナギサちゃんにはコーチの才能があった。
ひとつひとつ丁寧に、動作を修正していく。
上達すると、自分のように喜んでくれた。尊い。出会ってくれて、ありがとう。
甘酸っぱい時間は、いつも一瞬で過ぎる。
チャイムの音。
急いで着替えないと、次の授業に間に合わない。
駆け足で更衣室へ駆け込んでいく、クラスメイトたち。続こうと歩き出した瞬間、手を引かれた。
「あの、ちょっとおかしなお願いなんですけど、聞いてくれますか?」
「なに? 急がないと――」
「水着に着替えてから、ずっと考えていたんです」
恥ずかしそうに顔を赤らめる、少女の顔。目に映り、息を呑む。
純粋な乙女にしか見えないのに、ラベルを無くしたペットボトルみたいに危うい。
「あなたの手で、私をプールに沈めて、ください?」
濡れた毛先から落ちた、水玉。
もう誰も残っていない、プールサイド。
口の中が、塩辛さで染まる。
食べ物が通るとは思えない、耽美な細首を凝視しながら、私の身が震えた。




