第8話 花蜜に浸かる
子供は使えず、大人にだけ許された力がある。
緊張で固まった表情を携え、キッチンへ進む。
泥棒のように、そっと冷蔵庫を開けて、一本だけ取り出す。
銀色の缶を。
握ると、冷たさが手のひらに広がり、喉が鳴った。
プルタブを引き上げると、アルコールとホップの香りが、空気に広がる。
麦酒は、のど越しが命だ。
黄金色の液体を、ホースのように流し込む。
最後の一滴まで体に納め、瞼を閉じた。
心臓が、脈打つ。
血管の一本一本から熱が湧き上がり、頭の中で、金網が溶けていく。
晩飯のカレイは、煮崩れていた。
普段だったら、完璧な仕上がりにこだわっていたはず。
お嬢様に、視線を移した。
エプロンのリボンを揺らしながら、皿を吹いている。
普段の彼女ならば、鼻歌を口ずさむはず。だけど、今日は食器と水の音しか聞こえない。
「先に、入ってるから」
「……はい」
エプロンの肩紐が、ピクリと揺れた。
「私らしくない?」
「……はい」
なぜ、大胆な行動に出たのか、私自身も理解できない。
気付いたら、舌が回っていた。
「ナギサちゃんが、悪いんだから」
脱衣所で、服を脱ぐ。
いつもは、適当に洗濯カゴに放り込む。今日は落ち着かなくて、丁寧に畳んだ。
お風呂の量は、少なめ。
ひとりで入っても、胸すら浸からない。
湯気がたちこめているのに、喉が渇く。
1分後、耳に入った。脱衣所のドアを開ける音。
すりガラス越しに、色彩だけが感じ取れる。
衣擦れ音が鼓膜を揺らすたび、増えていく、肌色。
蠱惑的な光景を、映写機のように、みつめた。
「入りますよ」
「……うん」
折り戸が、開いた。
15歳の、美少女。一糸まとわぬ姿が、目の前に……。
だけど、直視できない。
私の視線は、汚物だ。まっさらな雪原に足跡を刻むような、無粋な真似はしたくない。
「失礼、します」
少女ひとり分の重みが、体にのしかかる。
彼女の肌が触れた瞬間、とっさに自分の口を押さえた。
息が、吃驚が、漏れそう。まるで飢えたナメクジみたいに、若い肌が吸いつく。
半年同居しても、彼女の肢体には、慣れない。
「……恵巳さんの体、あったかいです」
「あ、え……?」
「ずっと、くっついていたいです」
「さ、先にお風呂、入ってたから、かな……?」
「あたしの体が冷たいのかもしれません」
「……ナギサちゃん、緑の痣、広がってきたね」
「……はい」
出会った当時は前腕までだったけど、今は肩まで伸びてる。
目を閉じて、念じた。今の私は酔っぱらってる。無敵だ。怖いことはない。
「ごめんね。我儘に付き合わせちゃって」
「いえ。あたしも、入りたいと思っていたので……」
「私、嫉妬してる、と思う」
腕の中で、華奢な体が震えた。
「ナギサちゃん、楽しそうに、クラスのみんなと話してた」
「嫌……だったんですか?」
素直に、頷く。
「それに、遠い気がする。ナギサちゃんって、壁を作るよね」
「えっと、それは……」
言葉を待つ。
焦らず、じっくりと。
「あたし、きっと、中身がないんです。遠くに感じるのは、そのせいで……」
嘘。
私の知るナギサちゃんは、おしとやかなだけで、感情は豊かだ。
「あたし、ずっと、パパとママの言う通りに、生きてきたんです」
「……うん」
「親の期待に応えないといけない。失敗したら、一晩中、詰められました。そのせいでしょうか。あたし、相手に調子を合わせてしまうんです。相手が明るかったら、陽気に。暗かったら、物静かに」
「そんな感じだよね」
「時々、自分が、わからなくなるんです。本当の自分って、ありのままのあたしって、どうやって見つければいいんでしょう……」
そっか。
強いな、ナギサちゃんは。
私なんか、自分の内側なんて考えたくなくて、逃げてる。
「ねえ、ナギサちゃん」
「はい」
「私のこと、罵倒してほしい」
「え? えっ!?」
「いつも褒めてしか、くれないから」
大人びた少女が、私の言葉に困惑してる。おもしろい。
「……恵巳さんに、悪い所なんてないですよ?」
「絞り出して。悪いところ、いっぱい」
「な、なんでですか……?」
「もっと、仲良くなるためだよ」
「いや、聞いたことありませんよ!?」
「私、ちょっとおかしいから。ナギサちゃんも知ってるでしょ?」
一瞬の間。否定しない。
「……嫌いになりませんか?」
「大丈夫。むしろ好きになるから」
聞こえた。覚悟を含んだ、深呼吸の音。
私は、パンケーキを待つような心持ちで、耳を澄ます。
「バカっ! へんたいっ! 頭おかしいですよっ!!」
明らかに、叫び慣れてない声。
お腹の底から出ていないけど、必死さだけが、にじんでいる。
「……ありがとう、ね」
ああ。鼓膜をホルマリン漬けにしたい気分。
幸福と湯船に浸っていると、ふと、気付く。
左肩のつぼみが膨らみ、青薔薇が咲いていた。
「あたしのお願いも、聞いてくれませんか?」
「なに?」
「肩の青薔薇、食べてください」
「……うん」
私の唇が、きめ細かい肌へと迫る。
むせかえるような、甘い香り。私の鼻を包み込んだ。
薔薇の香りじゃない。ナギサちゃんの体から、漏れ出ている。
「いくね」
「……はい」
花弁を、唇でつまみ、口の中へ運ぶ。
咀嚼音が、お風呂場に響くたび、水面が淡く揺れた。
「おいしい、ですか?」
「塩味のぬれ煎餅みたい」
「ぺっ、してもいいですよ」
「やだ。私が食べたい」
「いつも、手料理も残さず食べてくれますよね」
「だって、あと2年半しかないから」
あと何回、食べられるかわからない。
私のためだけの、ご馳走。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした」
無言の時間が、続く。
もう、のぼせそう。手のひらがしわくちゃだ。
でもまだ、言葉を尽くしきれていない。
「私が一緒に死ぬのは、ナギサちゃんだけだから」
「はい」
「あなたの死に様を、他の誰にも見られたくない。私だけが、見ていたい」
「あたしも、同じ、ですよ」
お嬢様の赤らんだ顔を見つめていると、ふと、浮かんだ。
私が理想とする、誕生日プレゼントの形。
4月10日。
ナギサちゃんの誕生日。
カラオケボックスに、クラスのみんなが集まった。けれど、ツンツンくんだけが、いない。
プレゼントした品物は、七輪と炭。
次の日。ホッケを焼いた。
まるで少女の柔肌みたいに、真っ白な魚肉。
後を引くような塩気に、日本酒が進んだ。
部屋が、侵されていく。
見えない。触れない。匂いもない。
でも、いる。
視界が、歪んだ。
まるで大男に直接握りしめられているように、脳が痛い。
「あは、あはははっ!」
笑い声と一緒に、体の奥底から、ヘドロが湧き出た。
すっぱい匂いが充満して、むせかえる。
「すっごい、これ……!」
心臓が、ドラムロールみたいに高鳴ってる!
全身が熱い。叫んでる。
ああ。
空気に溶けてる。
サイコーのキブン!
「ナギサちゃん……」
「……はぁ」
おいしそう。
白い肌。
爪の間まで、愛らしい。
「ふ、ふふふ。くすぐったいです」
「ナギサちゃん、すっごく、いい顔」
「めぐみさんも……」
徐々に、混ざっていく。
味も。
匂いも。
感触も。
なんだ。
全部私なら、いつ死んだって——。
目を覚ますと、5本の青薔薇が、咲いていた。
私の体は、ナギサちゃんの腕に抱かれている。
起こさないように脱出し、窓を開けた途端、部屋に入り込む。
新鮮な空気と、湿った土の匂いが。
まゆげしか揺らせないそよ風に、目を細め、酔いしれた。
春の陽気は過ぎ去り、季節は移る。
理性と倫理観を溶かす、夏の日差し。
人生で最も歪な3か月間が、はじまる。
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して……して……っ!




