第5話 種にご褒美を
脳に、熱湯を流し込まれた気分だった。
全身がうめき声を上げ、心の小悪魔が囁く。
限界でしょ。早く楽になろうよ。君はもう頑張ったから。
迷いなく屈し、テーブルに倒れ込んだ。
「もう……むり……っ!」
「恵巳さん……」
つむじに注がれる、視線。真夏の紫外線みたいで、痛い。
「この問題、中一の範囲ですよ……?」
「やめてっ! 言わないでっ! 現実を直視したくないっ!!!」
大体、カリキュラムが変わってるしっ!
歴史も改変されてるじゃん!
いい国作ろう鎌倉幕府でしょ!? いい箱ってナニ!?
サヘランなんとかって、聞いたこともない! 最初の人類ってアからはじまってたよね!?
私の学生時代とは、別物すぎる……。
「ナギサちゃん、覚えておいて……! 大人は、子供時代の自分を忘れるの。仕事だと、計算なんて全部パソコンがやってくれるし、必要なことは、すべて手順書に書いてある。学校の勉強なんて、役に立たないんだよ」
「あの……時間が勿体ないので、手を動かしませんか?」
「……ぐぬぬ」
お嬢様の嘆きに突き動かされ、渋々とペンを持つ。
余命3年の少女に時間の重さを説かれたら、勝てない。
文字の羅列とにらめっこ。
結局、10分で集中力が切れて、再び音を上げた。
「ねえ、志望校のレベル、もっと下げない?」
「うーん。もうちょっと頑張ってみませんか? 偏差値55なので、難しくないですよ」
「……いや、平均より上じゃん。エリートだって。なんでこだわるの?」
「制服がかわいいですし、治安が良好です」
「そこ、大事?」
淀みない会話をしながらも、ナギサちゃんの手は解答欄を埋めていく。
「高校生活を満喫する上で、必須事項です。妥協はしません」
「……自信、ないなぁ」
「大丈夫ですよ。あたしがちゃんと教えますから」
「私の頭、覚えが悪いよ?」
「教え甲斐があっていいですね」
「プラス思考だなぁ。ほんと、うらやましい」
「恵巳さんに対してだけ、ですよ」
ふと、彼女と目が合った。真っすぐな、瞳。ポジティブな感情が、肌に突き刺さる。反応に困って、口元でしか笑えなかった。
「せっかくなら、ご褒美を用意しますよ?」
私の耳が、ピクリと跳ねた。
「どういうの?」
「恵巳さんが決めていいですよ。あたしに出来ることなら、なんでも」
「……なんでも。へぇ、なんでも」
「もちろん、志望校に合格したら、ですからね?」
『なんでもいい』。
普段は、面倒な6文字だ。
だけど、麗しい唇から発せられた場合は、特別。
種が弾けたような衝撃が、脳天を突き抜けた。
まるで餌を貪る犬のように、勉強へ取り掛かる。
文字を目で追いかけ、ペンを走らせ、脳に叩き込む。
最初は、酷かった。
過去問は三分の一も解けず、大苦戦。
英語は特に苦手だ。眠気に襲われつつも、単語帳をめくった。
わからない部分は、ナギサちゃんに質問するしかない。最初は尻込みしていた。
バカにされて、失望されるんじゃないかって。
結局は、杞憂で終わり。お嬢様の頬は、いつも緩んでいた。
紅葉狩り。
ハロウィンに、クリスマス。
正月に舞い降りた、初雪。
目まぐるしく、時間が過ぎていく。
ついに訪れた、受験当日。
会場に入ると、絵本が、私の脳裏に浮かんだ。
『みにくいアヒルの子』。
周囲は、中学生ばかり。
天地がひっくり返っても、アラサーは浮く。
受験番号を確認し、席に座ると、緊張で指が震えた。
不安の声ばかりが、頭の中で響く。
名前を書き忘れたら。
解答欄を間違えたら。
勉強範囲が間違っていたら。
今年だけ難しくなっていたら。
開始時間が迫り、筆記用具を広げる。ふと、気づいた。1枚の付箋が、混ざっている。
いつの間に?
頭を傾けながら、取り出した。
『ふぁいとっ!』
ナギサちゃんからの、メッセージ。ゆるゆるなウサギが、旗を振っている。
「……うん、ふぁいとっ」
深呼吸を、繰り返す。
肩の力が抜け、視野が広がった。
試験管の合図とともに、問題冊子を開く。
問題は、難しくない。迷わない。解ける。
何十回と腕時計の針を確認しながら、鉛筆を走らせていく。
自分の書き文字に吐き気がするほど、答えも、名前も、入念にチェックした。
もうすぐ、終了時間。
一瞬、黒い思考がよぎる。
名前を、消してみたい。
落ちたら、彼女、どんな顔をするかな?
でも、ダメだよね。
わざと裏切るなんて、しちゃいけない。
決めたんだもん。
一緒に死ぬって。
きっと、ストレスでおかしくなっているだけ。
冷静になろう。
試験終了の合図が響いた。
氏名欄を埋めたかは、覚えていない。
ナギサちゃんにも、告げられなかった。
そして迎えた、合格発表当日。
若々しい中学生たちが抱き合い、塾講師が叫び、冬空に熱を帯びていく。
人生の分岐点。
受験番号を片手に、数字を追いかける。
「あ……恵巳さん」
「……うん」
結果は、合格。
はしゃぐナギサちゃんの横で、安堵の息を吐いた。
「ねえ、約束、覚えてる?」
「はい。何をご所望ですか?」
「その、ね」
「……はい」
試験時より強張った顔を動かし、願いを紡ぐ。
「プリクラ……一緒に撮ってほしいんだ」
「え、それだけ、ですか……?」
ちょっと、困惑しないで……。
「私、プリクラ、誰かと撮ったことないから……」
「そう、なんですね。恵巳さんのハジメテなんですか」
「……お恥ずかしい話で」
「でも、お願いにしては弱いですね。頼まれれば、いつでもオーケーするのに……」
「え、そうなの?」
「はい」
「で、でも、私にとっては、憧れだったし……」
「ふふふ。恵巳さんって、本当にかわいいですね。じゃあ、『なんでも』の約束は残しておきますね」
次の日。
私のスマホに、貼られていた。
『私たち、一緒に死にます』
ポップな色調の書き文字が添えられた、ツーショット。
部屋のコルクボードにも、30枚以上飾られている。
美肌。目の拡大。瞳の光沢。激盛れした、ナギサちゃん。やっぱり、美少女はありのままが一番だ。
横には、ノリノリでポーズをとるアラサー女性。薄目で見やると、顔がかゆくなった。
ふと、フラッシュバックする。
以前の、アオハル。
思い出したくない過去は、緊張と空振りばかりだった。
高校デビューも、友達付き合いも、恋愛も、全部ゴミ。
でも、大丈夫。今の私は、マシになっているはず。
拳を握り、唾を呑んだ。
今度こそ、失敗したくないなぁ。




