第42話 萎れて、枯れて
くるぶしが、海水に浸かっている。
顔を上げると、スポットライトのようにまばゆい朝日。
真上は肩が緩むような晴天だけど、遠くの空には、暗い雨雲が浮かんでいる。
荒々しく吹きすさぶ風に、肌にまとわりつく、湿った空気。
嵐の香りが漂う。
「冷たいですね」
「まだ、朝だからね」
潮風が沁みて、左腕を見遣る。
手首からにじみ出る、朱色の体液。鍾乳洞に落ちる雫のように滴り、煌めく海面を汚していく。
もし窒息に失敗しても、失血死が待っている。
「崖があったらよかったんだけど」
海面に衝突した瞬間に気絶して、溺死まで一直線。最も楽だ。
「いいじゃないですか。ゆっくりと息絶えるのも」
「そうだね。楽しまないと」
ついに、なんだ。
吐く息すら甘くて、心臓が痺れる。
「もう、やり残したこと、ないよね」
「大丈夫なはずですよ。日記も置いてきました」
3冊の日記は、砂浜に放置してある。
ナギサちゃんの要望だ。最初は一緒に持って行くつもりだったけど、こだわりがあるわけじゃない。素直に従うだけだ。
でも、死んだ後、どうなるんだろう。
誰かに見つかって、読まれる? それとも、波に流されるかな?
まあ、いいや。あっちに行けば、無関係だし。
「じゃあ、いこうか」
「はい」
お互いに額をこすり合わせ、指を絡ませるように、手を握り合う。
「お嬢様。一曲、いかがですか?」
「えっと……突然、どうしたんですか?」
「なんだか、気分になっちゃって」
「いいですよ。楽しんじゃいましょう」
まるで舞踏会で踊る貴族みたいに、手を取り合う。
水しぶきを上げ、ステップを刻み、回り、海岸の奥へと進んでいく。
くるぶし。
ふくらはぎ。
ひざに、ふともも。
下半身が浸かっても、止まらない。
「ふふふ」
「あはははははは!」
笑い声を混じり合わせながら、1歩進む。
次の瞬間だった。
足元が消え、視界が回転し、水面をすり抜ける。海の中へ、投げ出された。
あ。
突然のことで、潮水を飲み込んだみたい。
わかっちゃう。
肺が液体で満たされていく、感覚。
――ナギサちゃん。
ふいに腕の力が緩み、彼女の体が、離れていく。
不思議なことに、私の体が、先に沈む。
手を伸ばしても、届かない。見上げる光景に、魂を奪われた。
枯れ木のように細い、体。
次々とつぼみを生み、青い花びらを広げていく。
皮膚から離れた薔薇は、色を海水に奪われていき、漂白されていく。
77本。
数えなくとも、直感した。
すべての花びらが、ナギサちゃんの周囲を漂っている。
まるで、御使いの羽みたいに。
――私を、連れてってくれるの?
もう、全身の感覚がない。
ただただ必死に、手を伸ばす。
ああ、わかる。
私の体、眠ろうとしてんだね。
苦しいけど、怖くないや。
昼寝みたい。
あれ?
指先が、あったかい。
ナギサちゃんの顔、微笑んでる。
よかった。
あはは。
ねえ。
最期だから、言っていいよね。
ナギサちゃんとの2年間で、はじめて人生を楽しいって思えたの。
だから、きっとね。
鳥海恵巳は、一時だけでも、幸せでした。
バイバイ。
愛してる。
そして。
鳥海恵巳という生き物は。
暗くて心地いい微睡を、昇っていった。
次回、最終回です




