第32話 イバラを絞め上げる若葉
お父さんは、終末医療病院の一室で、待っている。
うめき声だけが響く、無機質な廊下。
突然、掃除機のような音が聞こえて、一室をのぞく。
中では、看護師が老人の鼻に、管を出し入れしていた。皺だらけの体が、もがき、暴れる光景。鮮烈に映って、喉が鳴った。
「タンを吸引してるだけ。詰まって死んじゃうから。ほら、あんまり見るものじゃないから」
お父さんの病室は、ナースステーションの隣だった。
「お父さーん、恵巳を連れて来たわよー」
開けっ放しのドアを通ると、6人の大部屋が広がっていた。
お母さんの後に続いて、仕切りのカーテンをくぐる。
「あ、すみません。もう少しで終わりますので―」
「いえー。いつもありがとうございます。ほら、恵巳も挨拶しなさい」
一体、何、やってるんだろう。
ううん。
わかるよ。リハビリだ。
でも、おかしくない?
どうして、私より若い男に、大人しく従ってるの?
お前はもっと、暴力的だろ。
でも、仕方ないのか。
体、枝みたいに細い。
管も通ってるし、指一本すら自由に動かせていないじゃん。
はは。
そっか。
もう、怖いお父さんは、どこにもいないんだ。
私の手は、自然と握りこぶしを作っていた。
「それでは、失礼します」
「いつもありがとうございます」
10分ほどで終わり、リハビリ士は隣の病人へと向かった。
「ほら、お姉ちゃんが来たのよ。スマホばっかり弄らないの」
あ、弟、いたんだ。
私の目も見ないまま、出ていっちゃった。当たり前だよね。薄情者に優しい人間が、異常だ。
「ほら、恵巳。ベッドの横に行って」
「私、ここでいいから」
「何言ってるの。もっと近くじゃないと、顔が見えないでしょ」
無気力な瞳と、視線が合う。
まるで墓場の丸石みたいに静かで、暗い。
「お父さん、わかる? 恵巳が来てくれたのよー」
お母さんの声掛けに、自分の耳を疑った。
まるで、幼児に語りかけるような、口調。
過去の彼は、亭主関白だった。
妻には常に後ろを歩かせ、家事も育児も、すべて伴侶任せ。
「ひさし、ぶり」
脳裏に、暴力的な父の姿が、蘇った。
役立たず。ブス。能無し。
鼓膜が何度も思い出し、反芻する。
「あ、ごめんなさい。先生が呼んでるみたいだから。お父さんと話してて」
そそくさと廊下へ出る、お母さんの足音。
私の瞳は、痩せこけた頬骨を見つめたまま、動かない。
顔の筋肉が衰え切っている。
皮がたるみ、目もまともに開けられていない。
口が、わずかに動いた。
空気は震えていない。
なのに、不思議と、聞こえた。
——俺を、殺せ。
瞳の揺らめきが、物語っている。
目の前にいる人間は、私と同じ、死にたがりだ。
「ははっ」
乾いた笑いが、あふれ出た。
岩のような頬を撫でると、頭の中がドス黒くなっていく。
「ねえ、知ってるでしょ? 私、お父さんのこと、嫌いなんだよ?」
返事は、ない。
静かに、視線を交わすだけ。
ああ。
ずっと、やりたかった。
手を、首筋に、這わせる。
喉仏に触れる、指ざわり。
押すだけでも、壊れてしまいそうだ。
「愛せないなら、子供を作るなよ」
全体重を乗せながら、指に、力を込める。
父親の体は、暴れない。
まるで、木を掴んでいるみたいだ。
でも、ちょうどいい。
このまま、最高にきもちいいとこ、いこっかな……。
ふと、蘇った。
夏の日差し。
プールサイドの、尖った感触。
スク水姿の、ナギサちゃん。
水の中で、人魚みたいな首を、絞めあげて――
あれ?
私の手は、醜い首を絞めるために、あるの……?
ふっ、私の体から、力が抜けた。
「……ダメ。できない……」
全身が、震える。
鳥肌が立ち、毛穴が開く。
指先がしびれて、感覚が虚ろだ。
ああ。
私の手は、ナギサちゃんと触れ合うために、あるんだ。
でも、ゴミに触れて、汚しちゃった。
——役立たずの、親不孝者。
恨み節が聞こえて、ベッドの脚を殴る。
「お前なんて、骨と皮だけの死にぞこないだろ……」
お父さんからの反応は、ない。
ただ、瞼を閉じていた。
次の日。
彼は、鉢で飼われた金魚みたいに、ひっそりと死んだ。




