第31話 咲いた後は、萎れるだけ
人差し指をかすかに動かすだけで、チューハイ缶が、床を転がった。
喉が、痛い。息を吸うと、自然にせきがあふれ出た。
真夏の更衣室みたいに、淀んだ空気。
腐臭が鼻をつき、虫が這うようなかゆみが、肌を常に刺激している。
瞼を開く動作すら、億劫。
上体を起こすだけでも、分針がひと回りした。
「……きょうも、いき、てる……わたし」
自分の着ているパジャマに、鼻を近づける。
雑巾に、おしっこと酢をかけたみたいな刺激臭だ。
でも、穴も開いていないし、まだ着られるよね。
「ナギサ、ちゃん。おはよう」
20本の青薔薇を前に、微笑む。
返事は、ない。
もう、どうでもいいの。
ゴミだらけのリビングを渡り、キッチンへ向かう。
ゼリー飲料を取り出し、胃袋へと流し込む。空容器は、放り投げた。
「……はぁ。何やってるん、だろう。私」
気分転換に、テレビでも眺めよう。
リモコンは、行方不明だ。本体のボタンを押し、電源を点ける。
画面に表示された映像は、ナギサちゃんの顔だった。
「……はは」
私が撮ったホームビデオじゃない。
全国の電波に乗った、特別番組だ。
私だけの青薔薇は、時の人となった。
青薔薇病。
見目麗しい、女子高生。
毎日、記憶喪失する現象。
すべての要素が、大衆の心を打った。
薄幸の女子高校生を取り上げるメディアは、テレビだけではない。
動画投稿サイトでは毎日、経過が投稿されている。
記憶を失い、幼い人格へと変化していく姿を、ドラマチックに。
絵を描いている黒幕は、ナギサちゃんのママだ。
娘を利用し、知名度を向上させている。
父親が役員を務める保険会社も、好調。アナウンサーが報じていた。
「……気持ち、わる」
テレビを消し、スマホを持つ。だけど、バッテリーが切れていた。
充電器は、壊れてる。
「……はぁ」
意味もなく、枕元に置いていた包丁を、握る。
手料理を作るため、毎日ナギサちゃんが握っていた、調理器具。
刃の腹を、手首に当てる。
ああ。ナギサちゃん、殺してくれるの……?
心臓の鼓動が穏やかに変わり、心が落ち着いていく。
「そう、だよね」
深呼吸をすると、気だるさが、わずかにほぐれた。
「ちょっとぐらいは外に出ないとね」
シャワーを浴び、Tシャツに着替えると、頭が冴えはじめる。
「よし、いこう」
外に出ると、空気が別物だった。
澄んでいるのに、まずい。
人目を避けながら、行く当てのない、散歩をする。
しかし、引きこもり生活が祟った。
10分も経たないうちに、ふくらはぎが張り、息が上がる。
顔を上げると、目の前に校門が佇んでいた。
ナギサちゃんと通っていた、高校だ。
休みかな。生徒の姿はない。
「……なつかしい」
侵入し、彼女の名前を呼びながら、見て回る。
教室。プール。体育館。
思い出の場所たち。
気晴らしには、ならなかった。
寂しさで、お腹が痛くなるだけ。
「帰ろう……」
歩く足が、錆びたブリキの人形みたいに、重い。
そうだよね。
もう、帰る場所はない。
賃貸契約を結んだ部屋があるだけ。
周囲の人に、追い抜かれる。
私が1歩踏み出す合間に、サラリーマンは3歩進む。主婦は、6歩。小学生は、10歩。
アパートが視界に入った頃には、日が沈んでいた。
「……今日も、終わり、か……」
共有スペースを抜け、部屋の前につくと、足が止まった。
誰かが、座っている。
「……ナギサ、ちゃん?」
眼球が、思い出していく
1年半前の、景色を。
女子中学生を拾った、あの日。
手を、伸ばす。
口角が、上がる。
青薔薇が、視界の端々に、咲き誇った。
ああ。
私、やっぱり――
「あなた、こんな時間まで何をしてたの……?」
声。
全然、若くない。
ナギサちゃんと、似通ってない。
でも、耳に覚えがある。
女性が立ち上がると、理解する。
「……お母、さん?」
口の奥底から、自然と、言葉が出た。
「電話にも出ないから……」
私の記憶にある母親は、恰幅がいい。
今の姿は、病人みたいに、細かった。
まるで足元が抜けたみたいに、血の気が引いていく。
「ねえ。あなた、何してるの? 会社に電話したら、とっくに退職したって」
「…………」
「まあ、いいわ」
舌の根を掴まれたみたいに、声が、出ない。
肩を掴まれて、感じる。
お母さんの、力の無さ。バナナをつぶせないぐらい、弱々しい。
「ねえ、前から言ってたでしょう? お父さん、神経の病気だって」
頷けない。
「もう、話せないし、寝たきり。あの人、延命治療はイヤだって言ってたから……。最小限にしてて……」
全身から水分が抜けていく感覚に、襲われた。
「昨日、先生に言われたの。覚悟しておいてくださいって……。ねえ。だから、会いにきなさい……」
やめて。
もう、放っておいてよ。
弱い私を産んだ張本人のくせに、泣くなよ。
私の口角が、勝手に引きつっていった。




