第30話 枯れ葉の山は腐り落ちる
19本の青薔薇が並ぶ光景を、みつめる。
ナギサちゃんが、記憶を失った数。
あと1本、咲いたら、消えてしまうんだ。私と記憶を共有した、兎本ナギサが。
「……うん。笑顔、作れてる」
何度も、鏡の前で確認した。
表情筋を完璧にコントロールして、穏やかな表情が作れている。
大丈夫だよ、私。
「……おはよう、ございます」
突然、寝ぼすけな声が聞こえた。
振り返ると、パジャマ姿のナギサちゃんが、目を擦っている。
ゆっくりと開いていく、真珠貝のような瞼。
私を見つめる瞳は、ブラックパールにも負けない艶やかさだ。
「うん。おはよう」
背伸びをする姿を、目に焼き付ける。
一生、忘れないように。
「ナギサちゃん、今日もかわいい」
「どうしたんですか? 今日の恵巳さん、ちょっとおかしいですよ?」
「ねえ、私たち、出会ってどれくらい経ったっけ?」
突然の質問に、目を丸くするお嬢様。私の喉から、低い音が鳴った。
「え、まだ2週間ぐらいです、よね……?」
「そう、だよね」
冷房をつけていないのに、腕が、震える。痩せた体に抱きついても、匂いすら感じられなかった。
「えっと、どうしたの、ですか?」
「ごめんね。全部、話すから……。もう、ちょっとだけ……」
「ふふふ。恵巳さんは、甘えん坊ですね」
落ち着いてから、私は告げた。
ナギサちゃんは記憶喪失であること。
1日で1か月、思い出が消えること。
最初は不審がられたけど、誕生日プレゼントを見せると、頷いてくれた。
「それでね。今日が、最後なの」
「あたし、忘れるんですか? 恵巳さんのこと」
「不思議だよね」
「……イヤ、ですよ」
私も同じ気持ち。
だけど、避ける方法がない。
「とりあえず、朝ごはんを食べませんか?」
「……作ってくれるの?」
「腕によりをかけて作りますよ」
ナギサちゃんが立ち上がろうとして、膝をつく。
しかし、次の瞬間、細い体がフラついた。
「大丈夫?」
腕を掴んで支えると、
「ありがとうございます」
「あたしの体、痩せてますね」
「そうだね。青薔薇病、進んだから」
「本当に、あたし、記憶喪失なんですね……」
味噌汁に、焼き鮭、サラダ。
口に含んで、箸を持つ手が緩んだ。
「ねえ、ナギサちゃん」
「あれ、口に合いませんでしたか?」
「ううん。とってもおいしいんだけど……」
「では、一体?」
「私の舌に合わせて、味を変えてた?」
彼女は困り眉を浮かべながら、みそ汁を持ち上げた。
「兎本ナギサだったら、絶対に調整しますね。相手の様子を見ながら」
「……そっか」
「ああ、悔しいです。昨日のあたしだったら、もっと恵巳さんにあったお味噌汁を作れたんですね」
「ううん。ありがとう。ナギサちゃんの味、すごく、いい」
「本当ですか?」
「うん。すっごく沁みる。ごちそうさま」
「……お粗末様です」
食器を片付け、雑談する。
内容は、過去の話ばかり。いや、ナギサちゃんにとっては、未来だ。
受験。
入学式。
誕生日パーティーに、プール。
夏休みの、監禁生活。
文化祭の話では、声がしきりに詰まった。
最後に、誕生日。
「ふふふ」
渇いた喉を緑茶で潤わせていると、笑い声が鼓膜をくすぐった。
「どうしたの?」
「あたし、今、すごく楽しいです」
「そう、なんだ」
「必死な恵巳さん、かわいいです」
あ、私、からかわれてる?
「……ナギサちゃんって、意地悪だよね」
「本心ですよ。あーあ。今日が終わって欲しくないですねー」
ひとしきり笑いあった後。
30分以上、一緒に、フォトブックを眺めた。
「薄くなってますね」
腕をまくりながら、お嬢様が呟く。
体中に描かれた想い出は、日々消えている。
油性マーカーでも、限界だ。
「……どうしようもない、かな」
「もう一度、書いてくれませんか? なぞるだけでもいいので」
「え、今日一日、使い切っちゃうよ?」
「それでも、必要なことだと思うんです」
「……そっか」
ナギサちゃんのお願いを、断れる訳がない。
お互いに服を脱ぎ、マーカーを滑らせていく。
指が、震える。
何度も、視界がにじんだ。
でも、言葉もかわさず、夕食も忘れ、作業を続ける。
私たちに許された、唯一の、抵抗。
完成した頃には、日を跨いでいた。
出来栄えを確認する前に、ナギサちゃんが横たわる。
「……すみません。眠く……なって」
ああ。
そっか。
もう、なんだ。
「膝枕、する?」
「いいん、ですか?」
「もちろんだよ」
脚の上に感じる、頭部の重み。絹のような髪を撫でると、指先が痺れた。
「ナギサちゃん。お休み」
「あたし……」
瞳が、まどろんでいく。
「出会った時のこと……覚えて……いますか? 恵巳さんにとっては、1年以上前のこと……なんですよね?」
「忘れるわけ、ない。ずっと脳に焼き付いてる」
「ふふふ。嬉しい……です」
「……うん」
「もう……好きに……死ねよ」
ナギサちゃんに告げた、私の言葉。
「あたし……恵巳さんに言われて……すごく驚いて……自分の殻が壊れて……嬉しかった……です」
「……うん」
「だから……明日のあたしにも……言ってあげて……ください……ね」
「……うん。約束する」
「あぁ……。恵巳……さん。あたしのおはな、ばた……け……」
葬式のように、静かだった。
何か、劇的な現象は起きていない。
ただ、少女がひとり眠り、頭部から青薔薇が、咲いただけ。
20本目。
最後の、思い出。
「……ナギサちゃん」
ふと、足音が聞こえた。数が多い。10人はいる。
軍隊の行進みたいに激しく踏み鳴らしていたけど、玄関の前で、止まった。
チャイムは鳴らない。
「ごめんね。私、もう、耐えられないんだ……」
一歩一歩が、遠い。
足の感覚がなくて、壁を伝うように進んでいく。
ドアチェーンを外して、玄関を開ける。
扉の先には、ナギサちゃんママと、知らない男たち。
「ご苦労様」
表情は、わからない。
聞こえる声も、ぐにゃぐにゃ。
頭、壊れちゃった。
「もう、娘には近づかないでね。次に顔を見た時は、容赦しないから」
気づいた時には、ナギサちゃんの姿は、消えていた。
私以外、誰もいない。
「ねえ」
返事は、どこ?
「…………いっしょに、しのう、ね」
あの子がいた布団に、顔をうずめる。
ぬくもりは、ない。
彼女の体は、冷たかったから。
「……私だけの、ナギサちゃん」
もう、叶わない、願い。
目を見開いたまま、瞼が、動かなかった。
瞳が痛くて、痒くて、熱い。いつになったら、私の眼球、壊れるのかな。
ああ。
死にたいなぁ。
明日から、私の青薔薇が枯れた世界が、待ってる。




