第2話 青薔薇が芽吹く
血の池で迎えた、出勤時間。
周囲から向けられた笑顔は、たとえ3回転生しても、忘れない。愛玩動物の皮を貼った切り絵みたいで、気色がわるかった。
私の手には、鉄分入りの乳酸飲料。作り笑いを浮かべたお局に、手渡された。
恵巳さんの作ったデータは間違いだらけだったけど、お疲れ様って。
向けられた瞳を思い出し、首をさする。
「……死ぬのも迷惑、か」
脚を上げるのも億劫で、駅前のベンチに倒れ込む。スーツスカートがめくれたけど、興味もない。
ボーッと、人の流れをみつめる。
意味はない。脳に刺激が欲しいだけだ。
わずか5分間でも、十人十色の人間が通り過ぎていった。
電話しながら、競歩のように急ぐサラリーマン。
笑顔で、中身のない会話を繰り返す女子高生。
追いかけっこに励む、男の子。
なんのこともない、日常の営みたち。
私だけが、異物だ。
血で濡れたスーツを目撃すると、誰もがギョッとし、歩調を早めていく。
当然だ。
私でも、絶対に無視をする。
気づけば、7時間ほど、眺めていた。
日が傾きだし、長い影が並んでいる。
ふと、騒々しい声が聞こえて、目玉を回す。瞳に映った光景は、親子の姿。
明らかに、買い物帰りだ。母親がマイバッグを提げ、娘は必死に手伝おうとしている。
微笑ましい、一幕。
観察するだけでも、感傷に浸ってしまう。
私にも、純粋な時期があったのだろうか、と。
「……お母さん」
声が聞きたい。少しでも話せば、気が楽になるかも。
30分以上かけて、スマホを手に持った。唇を震わせながら、呼び出し音を鳴らす。
繋がるまで、時間はかからなかった。
『こんな時間にどうしたの? 仕事は?』
突き放すような、第一声。いつも通りだ。
「ちょっと、つらいことがあって」
『……はぁ。知ってるでしょ? こっちは大変なのよ』
「そうだね」
1か月前に知らされたけど、現実味がない。
お父さんが、神経の病気にかかって、歩けなくなった。
寝たきりの介護状態で、定年を前に退職。
高校生で下の世話をしているのだから、弟も大変だ。
「調子はどう?」
『今は落ち着いてるわ。まったく、最近は言葉もたどたどしくなって、聞き取るのも一苦労』
「大変、だね」
『先は長くないんだから、あんたもさっさと会いに来なさい』
お父さんの顔が、瞼の裏に浮かんだ。
痩せこけた顔と、ハシビロコウのように鋭い目つき。
体つきは貧相だけど、ビンタは鋭かった。頬をさすると、私の口が言葉を絞り出す。
「会いたがってるの?」
『親なんだから、当然でしょ』
「……そうだといいな」
父と娘。いい思い出なんて、ひとつもない。
『がんばりなさいよ、恵巳。倒れたら面倒みれないんだから。健康に生きてもらわないと』
「うん。わかってる」
健康に、生きる。難しい。
「ねえ、お母さん」
『何?』
「…………」
言いたい。
助けて。もう、死にたい、って。
でも、本当に、いいの?
無視されたら?
罵詈雑言が返ってくるかも。
唇が乾き、ひび割れ、血がにじんだ。
「……なんでもない」
『言いたいことがあるなら、言いなさい。気持ち悪い』
気持ち悪い、か。
心配じゃなくて、悪態。
そっか。
「お父さんの誕生日、いつだっけ?」
『8月27日。先週ね』
今年は過ぎてたんだ。
「来年、祝いたいな」
『そんなこと言わないで、早く帰って来なさい。後悔しないようにね』
「……うん」
通話が切れて、響く、ツーツー音。まばたきも忘れ、通話履歴を消した。
「お腹、空いたな」
体を起こし、なめくじのように、歩き出す。
人混みに流されているのに、置いていかれる。周囲の歩調が、速すぎる。追いつけず、一度立ち止まった。人影が消えてから、再び帰路を進む。
普段の10倍も遠く感じながらも、ようやくマンションにたどり着いた。
私の部屋は1階にある。
電球の切れかけた廊下を進み、顔をしかめた。
「……なんなの、本当に」
玄関の前に、人が座っていたのだ。
膝に顔をうずめた、女の子。
制服の校章を見るに、知らない少女だ。
月季女学院。全国的に有名な、お嬢様学校だ。
格式高いし、学費は高額。修学旅行は、海外の高級ホテルに泊まると聞く。
生徒は、社長や官僚の娘ばかりで、蝶よ花よと育てられる。
生きる世界が違う、貴人。
思わず、勢いよく床を踏みつけた。
なんで、私の邪魔をするの? むかつく。
「ねえ、どいて」
私の声に、自分で驚いた。
砂を食べたみたいに、ザラザラしている。
「誰、あんた」
女生徒が、顔を上げる。
彼女の瞳は、電気の通わないテレビみたいに、虚ろだった。にらみ顔も迫力がない。
だけど、私の全神経が、立ちすくんだ。造花よりも整った、顔立ち。学生離れした大人っぽさに、髪一本一本に宿った、美の意識。
脚線美なんて、芸術の域だ。彼女の脚を支えるために地面が誕生したのだと、直感するほどに。
「私は、この部屋の主。君のせいで入れないんだけど」
「なんで、血……?」
美少女の目は、私のスーツを見つめていた。
「ここ、切ったから」
手首を指さすと、若々しい唇から、ひゅっと短い息が漏れた。
「どんな気分だった?」
「なんで、そんなこと聞くの?」
「……知りたい、から」
「答えたら、どいてくれる?」
「……はい」
唾を呑み、喉をわずかに潤し、舌を回す。
「最悪だった。でも、ちょっと楽しかったかな」
「ナニソレ。意味わかんない」
「血がついてる私を見て、避けていく人たちの姿が、バカみたいで面白かった」
「……おばさん、変わってる」
おばさん、かよ。
初対面の相手に、失礼でしょ。
「もう十分? さっさとどいて」
無理やりにでも動かそうと覚悟を決めた、瞬間。鼻水をすする音が、響いた。
「ねえ、なんで人って、死んじゃうのかな。なんで、死ぬって、こんなに悲しいのかな?」
床が、ポツポツと濡れていく。
呆然としたあと、私の犬歯が下唇を噛んだ。
え、なんで、私の目の前で、涙を流せるの?
さっき、リスカしたって言ったよね。
それなのに、なんで、この少女は、泣いてるの……?
金持ちの家に生まれて、何不自由なく育って、色恋に困らないほどに秀麗。
私なんかより、よっぽど生きやすいでしょ。
人生イージーモードじゃん。
泣くとか、甘えてるんじゃないの?
あなたの身に何があったのかは、知らない。
だけど、ふざけるな。
「もう、好きに、しねよ」
すかしっぺみたいに、自然と出ていた。
私の乾ききった口から、残酷な言葉が。
「……あ」
やってしまった。私は最低だ。でも、こいつも悪い。
駆け足で、ドアノブに手を掛ける。
鍵を取り出し、回した。
部屋に逃げて、イヤホンで耳を塞ぎながら、眠ろう。
朝になれば、きっと忘れる。
「あのっ、すみません!」
ドアが、閉まらない。
足を掛けられたと気付いて、背筋が凍った。
突き飛ばそうと体を回すと、彼女の顔が、瞳に映る。
「3年後、あたしと一緒に、あの世へ行ってくれませんか?」
目が、動かなかった。
麗しい顔も、涙で腫れるんだ。
あどけない感想を浮かべながら、彼女の表情が、網膜に焼き付いていく。
失恋と初恋を混ぜ込んだみたいに危うく、妖艶。
脳が揺れ、鼻腔の奥底から、よみがえってくる。
チョークと、制汗スプレーの、香り。
壊れた青春の象徴と、面影が、重なる。
視線も、呼吸も、奪われた。
仕立てがよくて、きめ細かい、制服の布地。
袖から伸びる手は、一切のシミがなく、飴細工のようになめらかだ。
しかし、完璧ではない。
イバラのようなアザが、皮膚の表面に浮かんでいた。
ふと、気づく。瑞々しい薬指の付け根が、つぼみのように膨らみだしていた。
引き伸ばされた時間感覚の中。
世界が、艶やかな青色に染まる。
頭の中で、神秘的なクラシック旋律が流れはじめた。ドビュッシー作曲『月の光』。
私の細胞すべてが、幻想に満ちた光景を見届けたいと、叫ぶ。
大理石のような肌を貫き、一輪の青薔薇が、咲いた。




