表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第1話 ハンドクリームから零れる赤い蜜

 視界が、青薔薇色に、染まる。

 谷底と交わった、儚げな花。共有する時間が増えるたび、私の心は悟る。


 青薔薇と添い遂げるためだけに、この命は生まれてきたんだ。


 ひとりのために息を吸い、心臓を高鳴らせ、髪を揺らす。

 たった一言で目がくらみ、舌が躍る日々。

 人生の春は、幾度(いくど)も巡る。


 最初の青春は、惨めだった。小便臭いだけの、恋愛未満。心に、トゲだらけの穴が開いた。


 今回も、間違いだらけ。人間失格の、さらに先だ。

 私も彼女も、冬を超えられない。

 蓄えるぬくもりを失くし、凍死するだけだ。


 でも、十分だよね。

 私には、過ぎた幸せ。


 せめて咀嚼(そしゃく)して、反芻(はんすう)して、味わいつくそう。


 花弁よりも柔らかい、二度目のアオハルを。






 無邪気な言葉が、鼓膜から離れない。

 高校生時代。想い人から叩きつけられた、容赦のない評価。

 何度も何度も、脳内で木霊(こだま)する。しかし、悩む暇はない。今は一刻を争う。頭を振り、邪魔な思考を外へ追いやった。 


 ひとりっきりのオフィス。

 私の顔を照らす照明は、モニターの灯りだけだ。

 使い込みすぎてささくれ立った指先は、強行軍に疲れ果てた軍人みたいに、ヨタヨタとキーボードを叩いていく。


 進行中の作業は、歩くよりも単純だ。


 書類に合わせてデータを打ち込み、整理する。それだけ。

 日常的な作業だし、普段通りなら、心を無にして成し遂げられる。


 しかし、今は時間がない。


 終電まで30分。

 駅までは10分。

 タイムリミットは、のこり20分。


 終電を逃したら、最後。

 ネカフェに泊まる夜が待っている。

 それだけは、嫌だ。奥歯を噛みしめ、悲鳴を上げた。

 

 暗いオフィスで均一に光る、液晶画面。凝視していると、否応なく思い出す。

 肌が裏返るようにおぞましい、深夜の個室を。



 1週間前。

 私の精神も肉体も、限界だった。

 細胞のひとつひとつに疲労感が充満し、全身が紙粘土へ変性したように、動かない。

 歯ぎしりの音をたてながら、ごろ寝をしていた。


 周囲が寝静まった頃。

 ふと、腰に違和感を覚えた。

 ブランケットがズレたのだろうか。自分の中で仮説を立て、無視を決め込んだ。


 しかし、時間が経つほど、感覚の輪郭が浮かびあがる。


 ザラザラとした、感触。乾燥した指先だ。

 腰の表面を、撫でまわし、潜り込んでくる。

 まるで、干からびかけたミミズみたいに。 

 

 瞬間。


 意識が覚醒し、熱湯のような血液が、全身に流れ込んだ。

 がむしゃらに飛び上がり、スマホを鈍器のように構え、にらみつける。


 犯人は、逃げずに座っていた。

 徐々に夜目が利き出し、暗闇から人影が浮かぶ。

 正体は、店のエプロンを掛けた、中年男性だった。

 髪の毛は皮脂が目立ち、酸っぱい体臭が漂っている。たるんだ頬を見るだけでも、身の毛がよだつ。


 20秒程、膠着(こうちゃく)状態が続いた。弱気が外面に出ないように、心の中で念じ続ける。早く出て行って、どこかに消えて、と。

 しかし、現実への影響力はなかった。


 再び、手が迫る。

 体が勝手に動き、強く払った。


 彼の表情は、強く印象に残っている。

 叱られた子供みたいに、寂しげだったのだ。

 

 丸まった後姿を見送っても、夜が明けても、私の粟立った肌は、戻らなかった。


 指の感触は、まだ許容できる。

 問題は、不可解さだ。

 この体は、はっきりと、美しくない。顔立ちも平凡以下だ。

 色白が七難を隠しているだけで、魅力のかけらもない。

 男性店員は、人の形をした汚物を前に、なぜ欲情できたのか。不気味で、末恐(すえおそ)ろしい。


 彼は、今も勤務している。


 さっさと、家に帰りたい。一人住まいは冷たいけど、安全だ。

 玄関で靴を脱いだら、最初に何をしようか。

 シャワーで汗を流して、アイスを食べながらチューハイを飲みたい。ペット動画を眺めるのもいい。頭を空っぽにして、気ままに寝落ちする。


 だけど、不可能だ。帰宅は許されない。


 今日中が締め切りの、会議資料。

 上司の命令と評価こそが、最優先。私の意思は無価値だ。


 引っ越し前。夕食の度に、父親から怒鳴られていた。

 死ぬほど嫌なことがあっても、退職は避けろ。お前が生きていける場所は、今の会社しかない。お前が出来る、唯一の親孝行だ。



「……ちっ」



 右のまぶたが、ピクリと動いた。ストレスによる発作だ。

 最初はわずかな動きだったけど、まるで大地震のように、徐々に痙攣(けいれん)が激しくなっていく。

 最初は、意識の外に追いやろうとした。けれど、ピクピクと動く視界の鬱陶しさに、我慢の限界に達する。


 モニターから目を離し、深呼吸を繰り返す。

 自然と肩のこわばりが和らぎ、次は肩甲骨を回した。


 最も深刻な不調は、眼精疲労だ。


 目の周囲を、指先で押していく。コリコリと硬い箇所は、念入りに。

 次は、顔全体をほぐす。筋肉のこわばりがとれ、まぶたは静かになった。


 でも、まだ足りない。

 中途半端では、すぐに再発するかも。パフォーマンスを維持するためには、必要なことだ。自分に言い訳をしながら、マッサージを繰り返す。

 筋肉がほぐれるたび、内から体が温まり、呼吸が軽やかに変化した。



「……ふぅ」



 一息つき、モニターに向き直る。タタタとキーボードを叩きはじめると、すぐに気づいた。

 指が軽い。

 視界がクリアだ。

 先ほどまでとは段違いな、作業効率。


 今の調子なら、間に合う。


 意気揚々と、モニターの端を確認する。デジタル表示の、時刻。目に入り、息を呑んだ。



「……え? おかしくない?」



 マッサージにかけた時間は、1分か、2分ぐらいでは……。

 額にあぶら汗が滲み、呼吸が止まる。


 意識が飛んでいたのか、それとも体内時計が壊れたのか。原因は、わからない。


 コンピュータは、私よりも正確だ。

 突きつけられる、現在の日本標準時間。終電は、最寄り駅を過ぎている。



「死ねよ」



 いつも、こう(・・)だ。

 時間は待たないし、私はどんくさい。


 深呼吸を繰り返すと、聞こえた。

 けたたましい笑い声。


 周囲を見渡しても、人影はない。オフィスが広がっているだけだ。

 ふと、掛け時計に目が留まり、直感した。犯人は、彼だ。


 道化師のような声が、再び聞こえる。


 カチ、カチ、カチ。勝ち。時計の勝ち。


 ほら、僕の予想通りになったじゃないか。

 鳥海(とりうみ) 恵巳(めぐみ)。君は間に合わなかった。


 理不尽だったよね。

 あのお(つぼね)

 見たこともない資料を持ち出して『今日までにやってと言ったでしょ』って。

 自分は仕事がデキて、社員はすべて無能だと思っている。


 こんなところ、会社じゃない。

 もう、資料なんて放り出しちゃおうよ。


 え、一日中、怒られるって?


 仕方ないじゃん。

 君は忘れてたんだもん。

 きっと、言われた事実も、忘却していたんだ。


 君は、あのお局より、無能なんだ。


 有名な女子大を卒業した彼女は、高校中退の君なんかより、ずっとモノを知っていて、思慮(しりょ)深い。そうに決まっている(・・・・・・・・・)


 みんな、口に出さないだけ。

 恵巳だって、わかっているだろ? 


 どんくさい恵巳。

 中退の恵巳。

 32歳なのに、平社員の、恵巳ちゃん。



「…………」



 切り替えないと。

 時計の言葉は無視。

 過ぎたことは仕方ないでしょ。

 悩んでいる時間は、無駄。行動しないと、何も解決しない。

 通勤中に流し読みした、『デキる女の条件百選』にも記されていた。


 デスクの引き出しを開け、中をまさぐる。

 指先に柔らかい物体が触れ、取り出した。

 上品な薄桃色の、ハンドクリームだ。

 フタを開けるだけで漂う、バラの香り。胸が軽くなって、温かいため息が漏れる。

 私のお気に入り。やさぐれた心を癒してくれる、魔法のアイテム。



「……ぁ」



 絞り出そうとした瞬間、気付いた。


 中身が、残っていない。



「ちっ」



 舌を鳴らし、八つ当たり衝動を抑える。

 まだ、諦めには早い。容器を切り開けば、1回分はかき集められるはずだ。


 ハサミは産休中の後輩に貸したままだ。カッターを取り出し、スライダーを動かしていく。

 カチ、カチ、カチと。時計に合わせて、自然とリズムを刻んだ。


 刃が、中指ほどの長さまで伸びる。

 脳裏にサスペンスドラマが浮かび、生唾を呑む。カッターは刃物だ。私の手に、凶器が収まっている。


 がさつにチューブを持ち、切っ先を突き立て、力を込めた。

 柔らかい物体を裂く感触が、伝わる。

 しかし、中身がでない。小首を傾げながら、より深く刺し込む。



「あれ、なんか痛いんだけど……?」



 何度も瞬きを繰り返し、目を丸くした。

 出てきたハンドクリームが、ゆるい。公園の水飲み場みたいに、あふれ出ている。


 ハッと気づいた時には、手遅れだった。


 私がカットしていた物体は、ハンドクリームのチューブだけじゃない。

 自分の手首もまとめて、切り裂いていた。


 太い血管を破ったのか、血の流れが、とめどない。

 生温かい液体がスーツを伝い、タイツの繊維を流れ、床へと広がっていく。

 ねばりつくような、鉄の匂い。

 体が凍り、両耳の穴がつながったような、けたたましい耳鳴りが響く。



「……あっそ……はは……」



 膝を折ると、下半身が濡れそぼり、フラッシュバックした。

 高校生時代の一幕。

 雑談の合間に、無邪気に飛んできた、言葉。



――恵巳って、生きるのがホント下手だよねー。



 頬が引きつって、涙が出ない。

 体が脱力感で満たされて、重力に負けた。


 ホント。

 全部、どうでもイイ。


 パワハラ上司も、クソ店員も。私の体も、心も。告白を受け入れなかった、あの子も……。


 ねえ。

 お願いだから、さ。


 全部、ハンドクリームになって、私を救ってよ…………。


この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません

また、自死を肯定するものでもありません


本作は、カクヨムで公開中の作品を改稿し、アップしております。

毎日1~2話ほど、14時10分前後に投稿予定です。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ