第1話 ハンドクリームから零れる赤い蜜
視界が、青薔薇色に、染まる。
谷底と交わった、儚げな花。共有する時間が増えるたび、私の心は悟る。
青薔薇と添い遂げるためだけに、この命は生まれてきたんだ。
ひとりのために息を吸い、心臓を高鳴らせ、髪を揺らす。
たった一言で目がくらみ、舌が躍る日々。
人生の春は、幾度も巡る。
最初の青春は、惨めだった。小便臭いだけの、恋愛未満。心に、トゲだらけの穴が開いた。
今回も、間違いだらけ。人間失格の、さらに先だ。
私も彼女も、冬を超えられない。
蓄えるぬくもりを失くし、凍死するだけだ。
でも、十分だよね。
私には、過ぎた幸せ。
せめて咀嚼して、反芻して、味わいつくそう。
花弁よりも柔らかい、二度目のアオハルを。
無邪気な言葉が、鼓膜から離れない。
高校生時代。想い人から叩きつけられた、容赦のない評価。
何度も何度も、脳内で木霊する。しかし、悩む暇はない。今は一刻を争う。頭を振り、邪魔な思考を外へ追いやった。
ひとりっきりのオフィス。
私の顔を照らす照明は、モニターの灯りだけだ。
使い込みすぎてささくれ立った指先は、強行軍に疲れ果てた軍人みたいに、ヨタヨタとキーボードを叩いていく。
進行中の作業は、歩くよりも単純だ。
書類に合わせてデータを打ち込み、整理する。それだけ。
日常的な作業だし、普段通りなら、心を無にして成し遂げられる。
しかし、今は時間がない。
終電まで30分。
駅までは10分。
タイムリミットは、のこり20分。
終電を逃したら、最後。
ネカフェに泊まる夜が待っている。
それだけは、嫌だ。奥歯を噛みしめ、悲鳴を上げた。
暗いオフィスで均一に光る、液晶画面。凝視していると、否応なく思い出す。
肌が裏返るようにおぞましい、深夜の個室を。
1週間前。
私の精神も肉体も、限界だった。
細胞のひとつひとつに疲労感が充満し、全身が紙粘土へ変性したように、動かない。
歯ぎしりの音をたてながら、ごろ寝をしていた。
周囲が寝静まった頃。
ふと、腰に違和感を覚えた。
ブランケットがズレたのだろうか。自分の中で仮説を立て、無視を決め込んだ。
しかし、時間が経つほど、感覚の輪郭が浮かびあがる。
ザラザラとした、感触。乾燥した指先だ。
腰の表面を、撫でまわし、潜り込んでくる。
まるで、干からびかけたミミズみたいに。
瞬間。
意識が覚醒し、熱湯のような血液が、全身に流れ込んだ。
がむしゃらに飛び上がり、スマホを鈍器のように構え、にらみつける。
犯人は、逃げずに座っていた。
徐々に夜目が利き出し、暗闇から人影が浮かぶ。
正体は、店のエプロンを掛けた、中年男性だった。
髪の毛は皮脂が目立ち、酸っぱい体臭が漂っている。たるんだ頬を見るだけでも、身の毛がよだつ。
20秒程、膠着状態が続いた。弱気が外面に出ないように、心の中で念じ続ける。早く出て行って、どこかに消えて、と。
しかし、現実への影響力はなかった。
再び、手が迫る。
体が勝手に動き、強く払った。
彼の表情は、強く印象に残っている。
叱られた子供みたいに、寂しげだったのだ。
丸まった後姿を見送っても、夜が明けても、私の粟立った肌は、戻らなかった。
指の感触は、まだ許容できる。
問題は、不可解さだ。
この体は、はっきりと、美しくない。顔立ちも平凡以下だ。
色白が七難を隠しているだけで、魅力のかけらもない。
男性店員は、人の形をした汚物を前に、なぜ欲情できたのか。不気味で、末恐ろしい。
彼は、今も勤務している。
さっさと、家に帰りたい。一人住まいは冷たいけど、安全だ。
玄関で靴を脱いだら、最初に何をしようか。
シャワーで汗を流して、アイスを食べながらチューハイを飲みたい。ペット動画を眺めるのもいい。頭を空っぽにして、気ままに寝落ちする。
だけど、不可能だ。帰宅は許されない。
今日中が締め切りの、会議資料。
上司の命令と評価こそが、最優先。私の意思は無価値だ。
引っ越し前。夕食の度に、父親から怒鳴られていた。
死ぬほど嫌なことがあっても、退職は避けろ。お前が生きていける場所は、今の会社しかない。お前が出来る、唯一の親孝行だ。
「……ちっ」
右のまぶたが、ピクリと動いた。ストレスによる発作だ。
最初はわずかな動きだったけど、まるで大地震のように、徐々に痙攣が激しくなっていく。
最初は、意識の外に追いやろうとした。けれど、ピクピクと動く視界の鬱陶しさに、我慢の限界に達する。
モニターから目を離し、深呼吸を繰り返す。
自然と肩のこわばりが和らぎ、次は肩甲骨を回した。
最も深刻な不調は、眼精疲労だ。
目の周囲を、指先で押していく。コリコリと硬い箇所は、念入りに。
次は、顔全体をほぐす。筋肉のこわばりがとれ、まぶたは静かになった。
でも、まだ足りない。
中途半端では、すぐに再発するかも。パフォーマンスを維持するためには、必要なことだ。自分に言い訳をしながら、マッサージを繰り返す。
筋肉がほぐれるたび、内から体が温まり、呼吸が軽やかに変化した。
「……ふぅ」
一息つき、モニターに向き直る。タタタとキーボードを叩きはじめると、すぐに気づいた。
指が軽い。
視界がクリアだ。
先ほどまでとは段違いな、作業効率。
今の調子なら、間に合う。
意気揚々と、モニターの端を確認する。デジタル表示の、時刻。目に入り、息を呑んだ。
「……え? おかしくない?」
マッサージにかけた時間は、1分か、2分ぐらいでは……。
額にあぶら汗が滲み、呼吸が止まる。
意識が飛んでいたのか、それとも体内時計が壊れたのか。原因は、わからない。
コンピュータは、私よりも正確だ。
突きつけられる、現在の日本標準時間。終電は、最寄り駅を過ぎている。
「死ねよ」
いつも、こうだ。
時間は待たないし、私はどんくさい。
深呼吸を繰り返すと、聞こえた。
けたたましい笑い声。
周囲を見渡しても、人影はない。オフィスが広がっているだけだ。
ふと、掛け時計に目が留まり、直感した。犯人は、彼だ。
道化師のような声が、再び聞こえる。
カチ、カチ、カチ。勝ち。時計の勝ち。
ほら、僕の予想通りになったじゃないか。
鳥海 恵巳。君は間に合わなかった。
理不尽だったよね。
あのお局。
見たこともない資料を持ち出して『今日までにやってと言ったでしょ』って。
自分は仕事がデキて、社員はすべて無能だと思っている。
こんなところ、会社じゃない。
もう、資料なんて放り出しちゃおうよ。
え、一日中、怒られるって?
仕方ないじゃん。
君は忘れてたんだもん。
きっと、言われた事実も、忘却していたんだ。
君は、あのお局より、無能なんだ。
有名な女子大を卒業した彼女は、高校中退の君なんかより、ずっとモノを知っていて、思慮深い。そうに決まっている。
みんな、口に出さないだけ。
恵巳だって、わかっているだろ?
どんくさい恵巳。
中退の恵巳。
32歳なのに、平社員の、恵巳ちゃん。
「…………」
切り替えないと。
時計の言葉は無視。
過ぎたことは仕方ないでしょ。
悩んでいる時間は、無駄。行動しないと、何も解決しない。
通勤中に流し読みした、『デキる女の条件百選』にも記されていた。
デスクの引き出しを開け、中をまさぐる。
指先に柔らかい物体が触れ、取り出した。
上品な薄桃色の、ハンドクリームだ。
フタを開けるだけで漂う、バラの香り。胸が軽くなって、温かいため息が漏れる。
私のお気に入り。やさぐれた心を癒してくれる、魔法のアイテム。
「……ぁ」
絞り出そうとした瞬間、気付いた。
中身が、残っていない。
「ちっ」
舌を鳴らし、八つ当たり衝動を抑える。
まだ、諦めには早い。容器を切り開けば、1回分はかき集められるはずだ。
ハサミは産休中の後輩に貸したままだ。カッターを取り出し、スライダーを動かしていく。
カチ、カチ、カチと。時計に合わせて、自然とリズムを刻んだ。
刃が、中指ほどの長さまで伸びる。
脳裏にサスペンスドラマが浮かび、生唾を呑む。カッターは刃物だ。私の手に、凶器が収まっている。
がさつにチューブを持ち、切っ先を突き立て、力を込めた。
柔らかい物体を裂く感触が、伝わる。
しかし、中身がでない。小首を傾げながら、より深く刺し込む。
「あれ、なんか痛いんだけど……?」
何度も瞬きを繰り返し、目を丸くした。
出てきたハンドクリームが、ゆるい。公園の水飲み場みたいに、あふれ出ている。
ハッと気づいた時には、手遅れだった。
私がカットしていた物体は、ハンドクリームのチューブだけじゃない。
自分の手首もまとめて、切り裂いていた。
太い血管を破ったのか、血の流れが、とめどない。
生温かい液体がスーツを伝い、タイツの繊維を流れ、床へと広がっていく。
ねばりつくような、鉄の匂い。
体が凍り、両耳の穴がつながったような、けたたましい耳鳴りが響く。
「……あっそ……はは……」
膝を折ると、下半身が濡れそぼり、フラッシュバックした。
高校生時代の一幕。
雑談の合間に、無邪気に飛んできた、言葉。
――恵巳って、生きるのがホント下手だよねー。
頬が引きつって、涙が出ない。
体が脱力感で満たされて、重力に負けた。
ホント。
全部、どうでもイイ。
パワハラ上司も、クソ店員も。私の体も、心も。告白を受け入れなかった、あの子も……。
ねえ。
お願いだから、さ。
全部、ハンドクリームになって、私を救ってよ…………。
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
また、自死を肯定するものでもありません
本作は、カクヨムで公開中の作品を改稿し、アップしております。
毎日1~2話ほど、14時10分前後に投稿予定です。




