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雪解けと旅立ち

1年生の冬。


環は、自宅のPC前でカタカタとコードを書いていた手を止め、ふぅーっと大きく息を吐いた。


「……疲れた。論理ロジックが渋滞してる。」


彼女の脳は常時、膨大な計算とシミュレーションを行っている。

科学には常に「正解」がある。 は必ずであり、プログラムは書かれた通りにしか動かない。

それは心地よいが、時として息苦しい。


「……休憩する。」


環はPCのモニターを消し、本棚から一冊の文庫本を取り出した。


それは、夏目漱石の『こころ』だった。



環は、窓際のクッションに深く沈み込み、ページを開いた。


活字を追う彼女の瞳から、険しい「解析モード」の光が消え、穏やかな「鑑賞モード」へと切り替わる。


(……先生(登場人物)の行動は、合理的ではない。)


(なぜ、そこで遺書を書く? なぜ、もっと早くKに打ち明けなかった?)


科学的に見れば、登場人物たちの行動は「エラー」だらけだ。

効率が悪い。

判断が遅い。

感情という不確定変数に振り回されている。


だが、環はページをめくりながら、うっとりと呟いた。

「……回答こたえがない。……それが、いい。」


計算しても解が出ない。

読者によって解釈が無限に分岐する。


この「曖昧さ(Fuzzy)」こそが、彼女にとって最高の脳の保養だった。

ガチガチの論理回路を解きほぐし、あえて「割り切れない余り」の美しさに浸る時間。



登校日。

環は休み時間のたびに、校内の図書室に入り浸るようになった。


「あら、桜庭さん。また来たの?」


学校司書の先生は、環の来室を歓迎した。


一学期には「不気味な子」と思われた環だが、本を読んでいる時だけは、信じられないほど静かで、模範的な「文学少女」に見えたからだ。


窓際席。

木漏れ日の中で、分厚いハードカバーを読む美少女(中身はマッドサイエンティスト)。


その姿は絵画のように美しく、上級生の男子たちが「あの子、なんか雰囲気あって可愛くね?」と赤面して通り過ぎるほどだった。


しかし、彼女が読んでいるのは『かいけつゾロリ』ではない。

太宰治の『人間失格』や、カフカの『変身』、ドストエフスキーの『罪と罰』だ。


「……罪の定義が哲学的。キリスト教的な贖罪と、法的な処罰の乖離かいりが興味深い。」


ポツリと漏らす感想が重すぎる点を除けば、彼女は完璧な文学少女だった。



ある日、研究室にて。

加賀見が、休憩中の環に声をかけた。


「環ちゃん、最近小説ばかり読んでるな。科学書はいいのか?」


「……科学書は、データだから。小説は、アート。」


環は、読んでいた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を閉じて言った。


「カムパネルラは、なぜ死んだのか。自己犠牲か、事故か、それともジョバンニの幻想か。」


「……さあな。作者も死んじまったし、正解は闇の中だ。」


「そう。だから面白い。」


環は目を輝かせた。


「今の私のAIでも、文章は生成できる。文法的に完璧な、論理的な文章は。」


「でも、こういう『行間』は書けない。読み手に委ねる空白は、人間のバグ(不完全さ)からしか生まれない。」


彼女は、人間という非合理的なシステムが生み出す「文学」というバグを、心から愛していた。


「そんなに好きなら、お前も小説書いてみろよ。」


加賀見の何気ない一言で、環は「やってみる」とペンを取った。



数日後。 環が書いた短編小説『ある探偵の午後』が完成した。



【 あらすじ 】 ある屋敷で殺人事件が発生。 探偵が登場する。 探偵は、現場の血痕の飛散角度と、死体の硬直度、そして部屋の空気抵抗係数から、0.5秒で犯人を特定する。 犯人は「完全犯罪のはずだ!」と叫ぶが、探偵は10ページにわたり、物理学的見地から犯行の矛盾点を数式付きで論破する。 犯人はぐうの音も出ずに自首し、探偵は定時で帰宅して紅茶を飲む。



「……つまらん。」


読んだ加賀見は、正直に感想を述べた。


「起承転結の『転』がない。葛藤もない。ただの『捜査資料』だこれ。」


「うっ……。」

環はショックを受けた。

「論理的に完璧なミステリーなのに……。」


「人間ドラマってのは、もっとこう、ドロドロしてて非合理なもんなんだよ!」



それ以来、環は「書く」ことは諦め、「読む」ことに専念した。


家に帰ると、PCの電源を入れる前に、必ず30分間の読書タイムを取る。


カミュの不条理に悩み、漱石の胃痛に共感し、乱歩の怪奇にゾクゾクする。


「お父さん、お母さん。……人間は、不可解で、面倒くさい。」


夕食時、本を片手にしみじみと語る娘。


「そ、そうだな……。」


「(1年生の感想じゃないわね……)」


科学で世界を解き明かす環にとって、決して解き明かせない「人の心」が詰まった文学は、永遠に飽きることのない最高のパズルであり、乾いた心に潤いを与えるオアシスとなっていった。


彼女が将来、冷徹な科学者でありながら、妙に人間臭い決断を下したり、詩的な表現で部下を煙に巻いたりするようになるのは、この時期の読書体験(文学少女モード)が大きく影響しているのだった。


________________________________________


小学2年生になった環は、加賀見の研究室で、眉間に皺を寄せて分厚いファイルを読んでいた。


「おい環、何を読んでる? 論文か?」


加賀見が覗き込むと、それは『RFC(Request for Comments)』の仕様書だった。

インターネットの通信規約プロトコルを定めた、極めて無味乾燥な技術文書だ。


「……インターネットの構造解析。」


環はページをめくらず、画面上のパケットログを凝視しながら答えた。


「Webサイトを見るのは飽きた。……今は、データがどうやって海底ケーブルを通り、ルーターを経由して、このPCに届くのか。その『血管』の流れを見てる。」


「血管、ねえ。TCP/IPは枯れた技術だぞ?」


「……枯れてるからこそ、穴がある。」


環の目が妖しく光った。


「世界中のコンピューターは、お互いを信用しすぎてる。……『合言葉』さえ合えば、誰でも通してしまう。」



環にとって、セキュリティシステムとは「鍵のかかったドア」ではなく、「解き方の書いてあるパズル」に過ぎなかった。


ある日、環は大学のメインサーバーの管理者権限(Root)を取得する遊びをしていた。



カチャ、カチャ、ッターン。



「……はい、侵入完了。」


所要時間、30秒。


「お、おい! バレるぞ!」


「大丈夫。ログは改竄した。……今の私は、学長のIDでログインしてることになってる。」


彼女の指先一つで、大学の全学生の成績データも、研究費の口座情報も、思いのままだった。


しかし、彼女は数字を1ビットも書き換えなかった。


「……つまらない。」


環はログアウトした。


「この大学のセキュリティは、ザル(穴だらけ)すぎる。……もっと堅牢な城を攻めたい。」


彼女が求めていたのは破壊工作ではなく、自分の知能が通用する「最高難易度の迷宮」だった。


当時、神戸には、世界最速を競うスーパーコンピューターが稼働準備に入っていた。

国の威信をかけた、鉄壁の要塞である。


「……先生。今のシミュレーション、うちのPCじゃ100年かかる。」


「そりゃそうだ。量子化学計算だぞ。」


「……借りてくる。」


「あ? どこから?」


「神戸から。」


彼女は、神戸のスーパーコンピューターの外部接続ポートの脆弱性と、メンテナンス業者のVPN回線の隙間を突き、管理ネットワークへの侵入を試みた。


防衛プログラムが作動する。

幾重もの暗号化、ファイアウォール、生体認証。


(……ここ。ゼロデイ攻撃のパターンB。)


(……デコイを投げて、監視の目を逸らす。)


環の脳内では、マトリックスのような電子戦が繰り広げられていたが、現実の彼女はポテチをつまみながら、リズミカルにキーを叩くだけだった。


10分後。


『 Access Granted. Welcome, Administrator. 』


「……とれた。」



「おい環ちゃん、モニターの数値がおかしいぞ!?」


翌日、研究室のPCを見て加賀見が叫んだ。


「計算速度が……10ペタフロップス!? どこのスパコンに繋いでるんだ!?」


「……神戸のスーパーコンピューターのアイドルタイム(空き時間)を借りた。……全体の0.1%のリソースを、バックグラウンドで回してもらった。」


環は涼しい顔で言った。 彼女はハッキングしたが、破壊も盗聴もしなかった。


ただ、膨大な計算能力の「余り」をこっそり拝借し、自分の研究データを処理させ、終わったら「ログを綺麗に消して」退出したのだ。


理研の管理センターでは、「あれ? 一瞬だけ電気代が上がったな?」程度の認識しかされなかったという。



「……環。」


事の重大さを理解した加賀見は、環の肩を掴み、真剣な眼差しで言った。


「いいか。君は今、核ミサイルの発射ボタンを盗める鍵を手に入れたのと同じだ。」


「その力は、決して悪用するな。銀行の金を盗むな。信号機を止めるな。」


「……分かってる。」


環はキョトンとして答えた。


「お金はただの数字。興味ない。私が欲しいのは『真理』と『計算資源』だけ。」


「……そうか。ならいい。」


加賀見は安堵の息を吐いた。

この子は、強盗になるには「賢すぎた」。

リスクとリターンを計算すれば、犯罪がいかに非効率的かを理解していたのだ。


「その代わり、先生。」


「ん?」


「大学のセキュリティ、全部パッチ当てておいた。……あと、先生の隠しフォルダ(ムフフな動画)の暗号化が甘かったから、軍事レベルにしといた。」



「余計なお世話だ!!(顔面蒼白)」




こうして、小学2年生にして、環は「世界中のあらゆるサーバーに侵入可能だが、面倒くさいからやらない」という、最強の潜伏ハッカーとなった。


桜庭家のネット環境も劇的に変化した。

見た目は普通の一般家庭だが、そのルーターの中身は要塞化されていた。


•不正アクセス: 秒で探知し、発信元へカウンター攻撃(PCフリーズ)をお見舞いする。

•迷惑メール: フィルタリングどころか、送信元のサーバーを特定し、業者に「迷惑です」という警告ポップアップを出す。

•博のガラケー: なぜか海外の衛星回線を傍受できるほど感度が良くなっている(気がする)。


「最近、ネットが速いわねえ。」


「迷惑メールも来なくなったし、快適だな。」


何も知らない両親は、娘が夜な夜な世界のサイバー攻撃から我が家を守っていることなど知る由もなく、平和なネットライフを享受していた。


________________________________________


1月。

雪がキャンパスを白く染める中、加賀見の研究室は、暖房の熱気とは裏腹に、少しだけ寂しい空気が漂っていた。


「……そうか。東京の、あの工業大学へ。」


環は、加賀見から見せられた辞令のコピーを眺め、ポツリと言った。



『4月1日付 教授に任ずる』



赴任先は、東京の日本最高峰の理工系大学の工大。


工大30代での教授就任は異例中の異例だ。

環との共同研究による論文が世界的な評価を受け、ついに中央がその才能を放っておかなくなったのだ。


「おめでとう、先生。……当然の評価。」


環は淡々と祝ったが、その声は少し沈んでいた。


ここ鳴和県なるわけんには、環の言葉(論理)を100%理解し、対等に議論してくれる人間は、加賀見以外に一人もいない。

彼がいなくなれば、環はまた、退屈な小学校と、話の通じない大人たちの中に孤立することになる。


加賀見もそれを察していた。


「……悪いな、環。お前を置いていくようで。」


「気にしないで。……先生は、広い世界に行くべき。」


環は強がったが、マグカップを持つ手は少し強くなっていた。


「先生がいなくなるまで、毎日来る。」


環はそう宣言した。 しかし、両親は共働きで、毎日の送迎はできない。

そこで環は、自力での通学を選んだ。



【 環の通学ルート(片道1時間半) 】


1.バス: 自宅最寄りのバス停から、駅まで20分。


2.電車: ローカル線に揺られて30分。


3.徒歩: 雪の積もる大学通りを20分。


小学2年生の小さな女の子が、リュックを背負って一人で通うには過酷な道のりだ。

しかし、環はそれを「リアルワールドのデータ収集」と定義した。


「いってきます。」


「気をつけてね! 防犯ブザー持った!?」


「GPSもONにしてる。問題ない。」


厚手のダウンコートにスノーブーツ。

環は、ICカードを改札にタッチし、ワンマン電車に乗り込む。


ガタン、ゴトン……。


窓の外を流れる雪景色。


車内の湿った空気、高校生たちの会話、扉が開くたびに吹き込む寒気。


インターネットでは決して得られない「物理的な世界の質感」を、環は肌で感じていた。


(……架線とパンタグラフのスパーク。気温低下による導電率の変化。)

(……お年寄りが転ばないように歩く、重心移動の最適化。)


孤独な通学時間は、彼女にとって貴重なフィールドワークの時間となった。



「おはようございます、環ちゃん。」


「……おはようございます。」


大学図書館の入り口。

かつて門前払いを食らわせた事務員のお姉さんは、今や環の姿を見ると、すぐにゲートを開けてくれるようになっていた。


「今日は寒いわね。奥の席、暖房強めにしておいたわよ。」


「ありがとうございます。」


環は一礼して、いつもの指定席へ向かう。


そこは、周囲の大学生たちも「あそこはサクラバ博士の席だから」と暗黙の了解で空けてある聖域だった。


彼女はそこで、加賀見との研究に必要な資料を積み上げ、午後からの議論に備えるのだ。



午後、研究室。

加賀見と環は、ホワイトボードに向かい合っていた。

これが、二人で取り組む最後のプロジェクトだった。


テーマ:『自律学習型AIにおける倫理規定の実装と、暴走の抑制』


技術的な制御ではない。

「AIに『良心』をプログラムできるか」という、哲学的かつ難解な問いへの挑戦だ。


「……ダメだ環。利益最大化を優先すると、どうしてもAIが嘘をつく。」


加賀見が頭を抱える。


報酬系リワードの定義を変える。」


環がマーカーを走らせる。


「『正解すること』ではなく、『人間を不安にさせないこと』を最上位の報酬にする。」


「それだと、AIが人間に迎合して、真実を隠蔽するぞ?」


「……むずかしい。」


窓の外では吹雪が荒れ狂っているが、研究室の中は二人の熱気で満ちていた。


年齢差30歳。身長差1メートル近く。

しかし、その知性は完全に同じ高さを飛んでいた。


「……楽しいな、環。」


「……うん。」


これが最後だと分かっているからこそ、一分一秒が惜しい。

二人は夕方のバスの時間ギリギリまで、議論を戦わせた。



3月。 雪が解け始め、アスファルトが見え始めた頃。

ついに、その論文は完成した。


それは、加賀見が東京へ持って行く「手土産」であり、環がこの地に残す「足跡」だった。


「……できたな。」


「うん。完璧。」


加賀見は、完成した論文データを保存し、環に向き直った。


「環。……俺は東京に行くが、ネットがあればいつでも繋がれる。」


「分かってる。」


「でも、やっぱり『隣』にはいられない。……寂しくなるな。」


加賀見が本音を漏らすと、環は少しだけ俯いて、それからニカッと笑った。


「大丈夫。……この冬、一人で電車に乗って、ここまで通えた。」

「物理的な距離は、私の足で克服できる。情報の距離は、ネットでゼロにできる。」

「先生がいなくても、私はもう、自分の足で立てる。」


その言葉は、2年生とは思えないほど力強かった。

この雪道の通学が、彼女を精神的にもタフに成長させていたのだ。


「……そうか。なら安心だ。」


加賀見は、環の頭をくしゃくしゃに撫でた。


「東京で待ってるぞ、環。……いつか、俺を追い抜いてこい。」


「10年以内に追いつく。……首を洗って待ってて。」


こうして、環の激動の2年生が終わった。

春からは、最大の理解者がいない、本当の意味での「孤独な戦い」が始まる。

しかし、雪解けの道を歩く彼女の背中は、冬の初めよりもずっと大きく、頼もしく見えた。

感想や評価いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

次回は明日19時ごろ投稿予定です。

モチベーションの維持のため評価だけでも。

できれば感想を頂ければ幸いです。


よろしくお願いいたします。


次回は明日19時ごろ投稿予定です。

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