雪解けと旅立ち
1年生の冬。
環は、自宅のPC前でカタカタとコードを書いていた手を止め、ふぅーっと大きく息を吐いた。
「……疲れた。論理が渋滞してる。」
彼女の脳は常時、膨大な計算とシミュレーションを行っている。
科学には常に「正解」がある。 は必ずであり、プログラムは書かれた通りにしか動かない。
それは心地よいが、時として息苦しい。
「……休憩する。」
環はPCのモニターを消し、本棚から一冊の文庫本を取り出した。
それは、夏目漱石の『こころ』だった。
◇
環は、窓際のクッションに深く沈み込み、ページを開いた。
活字を追う彼女の瞳から、険しい「解析モード」の光が消え、穏やかな「鑑賞モード」へと切り替わる。
(……先生(登場人物)の行動は、合理的ではない。)
(なぜ、そこで遺書を書く? なぜ、もっと早くKに打ち明けなかった?)
科学的に見れば、登場人物たちの行動は「エラー」だらけだ。
効率が悪い。
判断が遅い。
感情という不確定変数に振り回されている。
だが、環はページをめくりながら、うっとりと呟いた。
「……回答がない。……それが、いい。」
計算しても解が出ない。
読者によって解釈が無限に分岐する。
この「曖昧さ(Fuzzy)」こそが、彼女にとって最高の脳の保養だった。
ガチガチの論理回路を解きほぐし、あえて「割り切れない余り」の美しさに浸る時間。
◇
登校日。
環は休み時間のたびに、校内の図書室に入り浸るようになった。
「あら、桜庭さん。また来たの?」
学校司書の先生は、環の来室を歓迎した。
一学期には「不気味な子」と思われた環だが、本を読んでいる時だけは、信じられないほど静かで、模範的な「文学少女」に見えたからだ。
窓際席。
木漏れ日の中で、分厚いハードカバーを読む美少女(中身はマッドサイエンティスト)。
その姿は絵画のように美しく、上級生の男子たちが「あの子、なんか雰囲気あって可愛くね?」と赤面して通り過ぎるほどだった。
しかし、彼女が読んでいるのは『かいけつゾロリ』ではない。
太宰治の『人間失格』や、カフカの『変身』、ドストエフスキーの『罪と罰』だ。
「……罪の定義が哲学的。キリスト教的な贖罪と、法的な処罰の乖離が興味深い。」
ポツリと漏らす感想が重すぎる点を除けば、彼女は完璧な文学少女だった。
◇
ある日、研究室にて。
加賀見が、休憩中の環に声をかけた。
「環ちゃん、最近小説ばかり読んでるな。科学書はいいのか?」
「……科学書は、データだから。小説は、アート。」
環は、読んでいた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を閉じて言った。
「カムパネルラは、なぜ死んだのか。自己犠牲か、事故か、それともジョバンニの幻想か。」
「……さあな。作者も死んじまったし、正解は闇の中だ。」
「そう。だから面白い。」
環は目を輝かせた。
「今の私のAIでも、文章は生成できる。文法的に完璧な、論理的な文章は。」
「でも、こういう『行間』は書けない。読み手に委ねる空白は、人間のバグ(不完全さ)からしか生まれない。」
彼女は、人間という非合理的なシステムが生み出す「文学」というバグを、心から愛していた。
「そんなに好きなら、お前も小説書いてみろよ。」
加賀見の何気ない一言で、環は「やってみる」とペンを取った。
◇
数日後。 環が書いた短編小説『ある探偵の午後』が完成した。
【 あらすじ 】 ある屋敷で殺人事件が発生。 探偵が登場する。 探偵は、現場の血痕の飛散角度と、死体の硬直度、そして部屋の空気抵抗係数から、0.5秒で犯人を特定する。 犯人は「完全犯罪のはずだ!」と叫ぶが、探偵は10ページにわたり、物理学的見地から犯行の矛盾点を数式付きで論破する。 犯人はぐうの音も出ずに自首し、探偵は定時で帰宅して紅茶を飲む。
「……つまらん。」
読んだ加賀見は、正直に感想を述べた。
「起承転結の『転』がない。葛藤もない。ただの『捜査資料』だこれ。」
「うっ……。」
環はショックを受けた。
「論理的に完璧なミステリーなのに……。」
「人間ドラマってのは、もっとこう、ドロドロしてて非合理なもんなんだよ!」
◇
それ以来、環は「書く」ことは諦め、「読む」ことに専念した。
家に帰ると、PCの電源を入れる前に、必ず30分間の読書タイムを取る。
カミュの不条理に悩み、漱石の胃痛に共感し、乱歩の怪奇にゾクゾクする。
「お父さん、お母さん。……人間は、不可解で、面倒くさい。」
夕食時、本を片手にしみじみと語る娘。
「そ、そうだな……。」
「(1年生の感想じゃないわね……)」
科学で世界を解き明かす環にとって、決して解き明かせない「人の心」が詰まった文学は、永遠に飽きることのない最高のパズルであり、乾いた心に潤いを与えるオアシスとなっていった。
彼女が将来、冷徹な科学者でありながら、妙に人間臭い決断を下したり、詩的な表現で部下を煙に巻いたりするようになるのは、この時期の読書体験(文学少女モード)が大きく影響しているのだった。
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小学2年生になった環は、加賀見の研究室で、眉間に皺を寄せて分厚いファイルを読んでいた。
「おい環、何を読んでる? 論文か?」
加賀見が覗き込むと、それは『RFC(Request for Comments)』の仕様書だった。
インターネットの通信規約を定めた、極めて無味乾燥な技術文書だ。
「……インターネットの構造解析。」
環はページをめくらず、画面上のパケットログを凝視しながら答えた。
「Webサイトを見るのは飽きた。……今は、データがどうやって海底ケーブルを通り、ルーターを経由して、このPCに届くのか。その『血管』の流れを見てる。」
「血管、ねえ。TCP/IPは枯れた技術だぞ?」
「……枯れてるからこそ、穴がある。」
環の目が妖しく光った。
「世界中のコンピューターは、お互いを信用しすぎてる。……『合言葉』さえ合えば、誰でも通してしまう。」
◇
環にとって、セキュリティシステムとは「鍵のかかったドア」ではなく、「解き方の書いてあるパズル」に過ぎなかった。
ある日、環は大学のメインサーバーの管理者権限(Root)を取得する遊びをしていた。
カチャ、カチャ、ッターン。
「……はい、侵入完了。」
所要時間、30秒。
「お、おい! バレるぞ!」
「大丈夫。ログは改竄した。……今の私は、学長のIDでログインしてることになってる。」
彼女の指先一つで、大学の全学生の成績データも、研究費の口座情報も、思いのままだった。
しかし、彼女は数字を1ビットも書き換えなかった。
「……つまらない。」
環はログアウトした。
「この大学のセキュリティは、ザル(穴だらけ)すぎる。……もっと堅牢な城を攻めたい。」
彼女が求めていたのは破壊工作ではなく、自分の知能が通用する「最高難易度の迷宮」だった。
当時、神戸には、世界最速を競うスーパーコンピューターが稼働準備に入っていた。
国の威信をかけた、鉄壁の要塞である。
「……先生。今のシミュレーション、うちのPCじゃ100年かかる。」
「そりゃそうだ。量子化学計算だぞ。」
「……借りてくる。」
「あ? どこから?」
「神戸から。」
彼女は、神戸のスーパーコンピューターの外部接続ポートの脆弱性と、メンテナンス業者のVPN回線の隙間を突き、管理ネットワークへの侵入を試みた。
防衛プログラムが作動する。
幾重もの暗号化、ファイアウォール、生体認証。
(……ここ。ゼロデイ攻撃のパターンB。)
(……囮を投げて、監視の目を逸らす。)
環の脳内では、マトリックスのような電子戦が繰り広げられていたが、現実の彼女はポテチをつまみながら、リズミカルにキーを叩くだけだった。
10分後。
『 Access Granted. Welcome, Administrator. 』
「……とれた。」
◇
「おい環ちゃん、モニターの数値がおかしいぞ!?」
翌日、研究室のPCを見て加賀見が叫んだ。
「計算速度が……10ペタフロップス!? どこのスパコンに繋いでるんだ!?」
「……神戸のスーパーコンピューターのアイドルタイム(空き時間)を借りた。……全体の0.1%のリソースを、バックグラウンドで回してもらった。」
環は涼しい顔で言った。 彼女はハッキングしたが、破壊も盗聴もしなかった。
ただ、膨大な計算能力の「余り」をこっそり拝借し、自分の研究データを処理させ、終わったら「ログを綺麗に消して」退出したのだ。
理研の管理センターでは、「あれ? 一瞬だけ電気代が上がったな?」程度の認識しかされなかったという。
◇
「……環。」
事の重大さを理解した加賀見は、環の肩を掴み、真剣な眼差しで言った。
「いいか。君は今、核ミサイルの発射ボタンを盗める鍵を手に入れたのと同じだ。」
「その力は、決して悪用するな。銀行の金を盗むな。信号機を止めるな。」
「……分かってる。」
環はキョトンとして答えた。
「お金はただの数字。興味ない。私が欲しいのは『真理』と『計算資源』だけ。」
「……そうか。ならいい。」
加賀見は安堵の息を吐いた。
この子は、強盗になるには「賢すぎた」。
リスクとリターンを計算すれば、犯罪がいかに非効率的かを理解していたのだ。
「その代わり、先生。」
「ん?」
「大学のセキュリティ、全部パッチ当てておいた。……あと、先生の隠しフォルダ(ムフフな動画)の暗号化が甘かったから、軍事レベルにしといた。」
「余計なお世話だ!!(顔面蒼白)」
◇
こうして、小学2年生にして、環は「世界中のあらゆるサーバーに侵入可能だが、面倒くさいからやらない」という、最強の潜伏ハッカーとなった。
桜庭家のネット環境も劇的に変化した。
見た目は普通の一般家庭だが、そのルーターの中身は要塞化されていた。
•不正アクセス: 秒で探知し、発信元へカウンター攻撃(PCフリーズ)をお見舞いする。
•迷惑メール: フィルタリングどころか、送信元のサーバーを特定し、業者に「迷惑です」という警告ポップアップを出す。
•博のガラケー: なぜか海外の衛星回線を傍受できるほど感度が良くなっている(気がする)。
「最近、ネットが速いわねえ。」
「迷惑メールも来なくなったし、快適だな。」
何も知らない両親は、娘が夜な夜な世界のサイバー攻撃から我が家を守っていることなど知る由もなく、平和なネットライフを享受していた。
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1月。
雪がキャンパスを白く染める中、加賀見の研究室は、暖房の熱気とは裏腹に、少しだけ寂しい空気が漂っていた。
「……そうか。東京の、あの工業大学へ。」
環は、加賀見から見せられた辞令のコピーを眺め、ポツリと言った。
『4月1日付 教授に任ずる』
赴任先は、東京の日本最高峰の理工系大学の工大。
工大30代での教授就任は異例中の異例だ。
環との共同研究による論文が世界的な評価を受け、ついに中央がその才能を放っておかなくなったのだ。
「おめでとう、先生。……当然の評価。」
環は淡々と祝ったが、その声は少し沈んでいた。
ここ鳴和県には、環の言葉(論理)を100%理解し、対等に議論してくれる人間は、加賀見以外に一人もいない。
彼がいなくなれば、環はまた、退屈な小学校と、話の通じない大人たちの中に孤立することになる。
加賀見もそれを察していた。
「……悪いな、環。お前を置いていくようで。」
「気にしないで。……先生は、広い世界に行くべき。」
環は強がったが、マグカップを持つ手は少し強くなっていた。
「先生がいなくなるまで、毎日来る。」
環はそう宣言した。 しかし、両親は共働きで、毎日の送迎はできない。
そこで環は、自力での通学を選んだ。
【 環の通学ルート(片道1時間半) 】
1.バス: 自宅最寄りのバス停から、駅まで20分。
2.電車: ローカル線に揺られて30分。
3.徒歩: 雪の積もる大学通りを20分。
小学2年生の小さな女の子が、リュックを背負って一人で通うには過酷な道のりだ。
しかし、環はそれを「リアルワールドのデータ収集」と定義した。
「いってきます。」
「気をつけてね! 防犯ブザー持った!?」
「GPSもONにしてる。問題ない。」
厚手のダウンコートにスノーブーツ。
環は、ICカードを改札にタッチし、ワンマン電車に乗り込む。
ガタン、ゴトン……。
窓の外を流れる雪景色。
車内の湿った空気、高校生たちの会話、扉が開くたびに吹き込む寒気。
インターネットでは決して得られない「物理的な世界の質感」を、環は肌で感じていた。
(……架線とパンタグラフのスパーク。気温低下による導電率の変化。)
(……お年寄りが転ばないように歩く、重心移動の最適化。)
孤独な通学時間は、彼女にとって貴重なフィールドワークの時間となった。
◇
「おはようございます、環ちゃん。」
「……おはようございます。」
大学図書館の入り口。
かつて門前払いを食らわせた事務員のお姉さんは、今や環の姿を見ると、すぐにゲートを開けてくれるようになっていた。
「今日は寒いわね。奥の席、暖房強めにしておいたわよ。」
「ありがとうございます。」
環は一礼して、いつもの指定席へ向かう。
そこは、周囲の大学生たちも「あそこはサクラバ博士の席だから」と暗黙の了解で空けてある聖域だった。
彼女はそこで、加賀見との研究に必要な資料を積み上げ、午後からの議論に備えるのだ。
◇
午後、研究室。
加賀見と環は、ホワイトボードに向かい合っていた。
これが、二人で取り組む最後のプロジェクトだった。
テーマ:『自律学習型AIにおける倫理規定の実装と、暴走の抑制』
技術的な制御ではない。
「AIに『良心』をプログラムできるか」という、哲学的かつ難解な問いへの挑戦だ。
「……ダメだ環。利益最大化を優先すると、どうしてもAIが嘘をつく。」
加賀見が頭を抱える。
「報酬系の定義を変える。」
環がマーカーを走らせる。
「『正解すること』ではなく、『人間を不安にさせないこと』を最上位の報酬にする。」
「それだと、AIが人間に迎合して、真実を隠蔽するぞ?」
「……むずかしい。」
窓の外では吹雪が荒れ狂っているが、研究室の中は二人の熱気で満ちていた。
年齢差30歳。身長差1メートル近く。
しかし、その知性は完全に同じ高さを飛んでいた。
「……楽しいな、環。」
「……うん。」
これが最後だと分かっているからこそ、一分一秒が惜しい。
二人は夕方のバスの時間ギリギリまで、議論を戦わせた。
◇
3月。 雪が解け始め、アスファルトが見え始めた頃。
ついに、その論文は完成した。
それは、加賀見が東京へ持って行く「手土産」であり、環がこの地に残す「足跡」だった。
「……できたな。」
「うん。完璧。」
加賀見は、完成した論文データを保存し、環に向き直った。
「環。……俺は東京に行くが、ネットがあればいつでも繋がれる。」
「分かってる。」
「でも、やっぱり『隣』にはいられない。……寂しくなるな。」
加賀見が本音を漏らすと、環は少しだけ俯いて、それからニカッと笑った。
「大丈夫。……この冬、一人で電車に乗って、ここまで通えた。」
「物理的な距離は、私の足で克服できる。情報の距離は、ネットでゼロにできる。」
「先生がいなくても、私はもう、自分の足で立てる。」
その言葉は、2年生とは思えないほど力強かった。
この雪道の通学が、彼女を精神的にもタフに成長させていたのだ。
「……そうか。なら安心だ。」
加賀見は、環の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「東京で待ってるぞ、環。……いつか、俺を追い抜いてこい。」
「10年以内に追いつく。……首を洗って待ってて。」
こうして、環の激動の2年生が終わった。
春からは、最大の理解者がいない、本当の意味での「孤独な戦い」が始まる。
しかし、雪解けの道を歩く彼女の背中は、冬の初めよりもずっと大きく、頼もしく見えた。
感想や評価いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




