入学前の秘密基地
3月下旬。 世間一般の6歳児が、小学校への期待と不安で胸を膨らませている頃。
桜庭家の朝は、奇妙なルーティーンで始まっていた。
「環、ハンカチとティッシュ持った? 上履きは?」
「もった。……あと、USBメモリと関数電卓も。」
「電卓は要らないでしょ……まあいいわ。」
裕子は軽自動車に娘を乗せ、保育園ではなく、県庁所在地の国立鳴和大学へと車を走らせる。 キャンパスの駐車場に着くと、白衣姿の無精髭の男が待ち構えていた。
「おはようございます、加賀見先生。……娘がお邪魔します。」
「いえいえ! お待ちしてましたよ!」
加賀見助教授は、恋人を待っていたかのような満面の笑みで、ピンクのリュックを背負った環を出迎えた。
「さあ環ちゃん、昨日の続きをやろうか! 解析データが出揃ったぞ!」
「うん。……誤差収束した?」
裕子は、専門用語で挨拶を交わす娘と中年男性を見て、「誘拐とかじゃないわよね……?」と一瞬不安になりつつも、楽しそうな娘の姿に安心して仕事へと向かった。
◇
「まずは資料集めだ。」
加賀見は環の手を引き、先日門前払いを食らった大学図書館へと向かった。
入り口のカウンターには、あの日と同じ事務員が座っていた。
「あ……。」
事務員は環の顔を見て気まずそうにしたが、その横に加賀見がいるのを見て背筋を伸ばした。
「か、加賀見先生。お疲れ様です。」
「ああ。この子は私の共同研究者だ。入館許可と、貸出権限を与える。責任は私が持つ。」
加賀見はIDカードを提示し、傲然と言い放った。
「は、はい! どうぞ!」
ゲートが開く。
環は、事務員にペコリと一礼(というより勝利の会釈)をし、堂々と知識の殿堂へと足を踏み入れた。
「……ありがとう、先生。」
「いいってことさ。……さあ、好きなだけ持って行け。私のカードで借りられる上限は50冊だ。」
環は水を得た魚のように書架へ飛び込んだ。
洋書、論文集、技術書。 背伸びしても届かない棚の本を、加賀見が抱え上げて取ってやる。
その姿は、奇妙な親子か、あるいは凸凹コンビのようだった。
◇
研究室に戻り、環が猛烈な勢いで本を読んでいる横で、加賀見はコーヒーを啜りながら自嘲気味に語った。
「……私もね、昔は『神童』なんて呼ばれてたんだよ。」
加賀見は、国内最高峰の旧帝国大学のT大で、博士号を最短記録で取得した天才だった。
その頭脳は飛び抜けていたが、性格に難があった。
権威主義的な教授や、既得権益にしがみつく学会の古狸たちに、真っ向から喧嘩を売ったのだ。
『 教授、その理論は10年前の化石です。引退してはいかがですか? 』
その結果、彼は疎まれ、出世コースから外され、この地方国立大の助教授ポストへと「栄転(という名の島流し)」させられたのだった。
ここには予算もなければ、優秀な学生も少ない。
腐りかけていた彼の前に現れたのが、環だった。
「まさか、こんな田舎で……私を超えるバケモノ(逸材)に出会えるとはな。」
加賀見は、キーボードを叩く環の小さな背中を見つめ、ニヤリと笑った。
◇
「先生、できた。」
「ん?」
環は、借りてきたC言語の専門書を読み終えたわずか30分後、画面上のシミュレーターを書き換えていた。
「自律制御のアルゴリズム。……遺伝的アルゴリズムを組み込んで、学習効率を最適化した。」
「はあ? お前、C言語は今日初めて読んだんだろ?」
加賀見が画面を覗き込むと、そこには洗練された美しいコードが並んでいた。
無駄がない。
コメントアウトすら詩的だ。
そしてシミュレーションを実行すると、ロボットは驚異的な滑らかさで障害物を回避し始めた。
「……マジかよ。」
加賀見は戦慄した。 この子は、単に記憶力がいいだけではない。
既存の知識(本)を脳内で分解し、再構築し、瞬時に「応用」するセンスがずば抜けている。
「環ちゃん。君、ここ(パラメータ)を変えた意図は?」
「乱数調整のバイアスを消すため。……自然界の不確定要素を模倣した。」
「……くっ、ハハハハ!! 最高だ!!」
加賀見は腹を抱えて笑った。
かつてT大の研究室で感じていた、「知的高揚感」が蘇る。
いや、それ以上だ。相手は6歳児なのだから。
◇
夕方、裕子が迎えに来ると、環は名残惜しそうにリュックを背負った。
「環ちゃん、お母さん来たよー。」
「……うん。おしまいの時間。」
加賀見は、門のところまで二人を見送った。
「お母さん、環ちゃんは本当にすごいですよ。……正直、うちの大学院生より優秀です。」
「まあ、先生ったら。買い被りすぎですよ。」
裕子は「お世辞の上手い先生だこと」と笑っている。
「じゃあね、先生。……またくる。」
環が手を振る。
「ああ。……小学校がつまらなくなったら、いつでも逃げておいで。」
加賀見は、白衣のポケットに手を突っ込んで言った。
「ここには、君の知的好奇心を満たす餌がいくらでもあるからな。」
環は小さく頷き、母の手を握って帰っていった。
数日後、環は地元の公立小学校に入学する。
そこでの授業(1+1=2)が、彼女にとってどれほど退屈なものになるか、加賀見だけは容易に想像がつき、同情と期待の混じった笑みを浮かべた。
「さて、私も負けていられないな。」
天才少女という劇薬を浴びた加賀見の研究室は、この春から、地方大学とは思えない驚異的なペースで論文を量産し始めることになる。
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次回は本日19時ごろ投稿予定です。




