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研究室の小さな怪物

卒園式を終え、真新しいランドセルが部屋に飾られている春休み。

6歳の環は、市内の図書館を読み尽くし、さらなる「高高度な知識」を求めていた。


「お父さん。……大学の図書館に行きたい。」


「えっ、大学? 鳴和市(県庁所在地)の国立大学か?」


「うん。あそこなら、専門書がもっとあるはず。」


博は有給を取り、車で1時間かけて県内最高学府である「国立鳴和大学」へと娘を連れて行った。

しかし、その入り口で彼らは「大人の壁」に阻まれた。


「申し訳ありません。館内の利用は18歳以上、または身分証のある学生に限らせていただいております。」


受付の事務員は、マニュアル通りに冷たく告げた。


「……そうですか。子供はダメですか。」


博が諦めて帰ろうとした時、環がカウンターに小さな手を叩きつけた。


「……おかしい。」


環は、受付の大人を睨み上げた。


「ここは『国立』大学でしょう? 運営交付金には、お父さんたちが払った税金が使われているはず。」

「知は万人に開かれるべき公共財です。年齢を理由にアクセス権を遮断するのは、知的財産への冒涜であり、納税者への背信行為では?」


「えっ……あ、あの……?」


事務員がポカンとする中、環はさらに畳み掛ける。


「静かにします。本を汚しません。それでもダメと言うなら、その合理的根拠を提示してください。」


「た、環! やめなさい! すみません、子供の戯言で!」


博は慌てて娘を抱え上げ、逃げるように図書館を後にした。


「……りふじんだ。私の知る権利が。」

腕の中でむくれる環。

6歳児の口から飛び出す「納税者」というワードは、春のキャンパスに虚しく響いた。



「せっかく来たんだし、少し散歩して帰ろうか。」


博は娘の機嫌を直そうと、桜が咲き始めたキャンパス内を歩いた。


春休み中で学生は少ないが、理系キャンパスの一角、工学部の前だけは騒がしかった。

作業着を着た数人の男子学生たちが、中庭で頭を抱えていたのだ。


「ああもう! なんで倒れるんだよ!」

「センサーの感度は合ってるはずだろ?」

「デモまであと3日しかないのに……!」


彼らの中心には、アルミフレーム剥き出しの「二足歩行ロボット」があった。

配線だらけのそのロボットは、一歩踏み出そうとするたびに、ガクガクと痙攣して横倒しになっていた。



環の足が止まった。 図書館への怒りは一瞬で消え、その目は「解析モード」に切り替わった。


「……見ていく。」


環はトコトコと学生たちの輪に入っていった。


「うわっ、びっくりした! なんだこの子?」

「迷子か? 危ないぞー、ここ。」


学生たちが追い払おうとするのも聞かず、環は転がっているロボットと、彼らが開いているノートパソコンの画面(制御プログラムのコード)を交互に見つめた。


(……ハードウェアの剛性は十分。モーターのトルクも足りている。問題は……フィードバック制御の遅延。)


環は、画面上の複雑な数式の一行を指差した。


「……ここ。」


「は?」


キーボードを叩いていた学生が顔をしかめる。


「お嬢ちゃん、これは難しい計算だから分からな……」


「ジャイロセンサーの補正値。」


環は淡々と言った。


「プラスじゃない。……マイナス0.4。」


「え?」


「今の設定だと、傾きを直そうとして、逆に加速させてる。……だから、発振(振動)して倒れる。」



学生たちは顔を見合わせた。


「……おい、言われてみれば、ここの符号……。」


「まさか。……いや、試すだけ試してみるか。」


半信半疑の学生が、環の言った通りに数値を書き換え、エンターキーを押した。


「起動!」 モーターが唸りを上げる。

ロボットが立ち上がる。


右足を出す。……バランスを取る。

左足を出す。……安定している。



ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。



ロボットは、生まれたての子鹿のように、しかし確実に中庭を歩き始めた。


「……う、動いたぁぁぁぁッ!!」

「マジかよ! 完璧な安定制御だぞ!?」

「すげぇ! 誰だこの子!?」


学生たちが歓声を上げ、環を取り囲んだ。

「君、なに!? どこの教授の娘!?」

「マイナス0.4って、計算したの!? 頭の中で!?」



「お、おい環! 迷惑かけるな!」


遠くで見ていた博が、慌てて駆け寄ってきた。


「あ、お父さん。……なおったよ。」


環は満足げに、動くロボットを見つめていた。

図書館には入れなかったが、ここには「生きた教材」と、自分の論理が世界に通用する「快感」があった。


「すみません学生さんたち! うちの子が勝手にいじって!」


「いえ! いじるどころか、助けられました! この子、天才ですよ!」


ロボットを見事に直した環に対し、学生たちは興奮冷めやらぬ様子で囲んでいた。


「いやー、助かったよお嬢ちゃん! おかげで単位落とさずに済みそうだ!」



リーダー格の学生が、財布を取り出した。


「お礼になんでも奢ってやるよ! 学食のソフトクリームか? それとも自販機のジュースがいいか?」


普通の6歳児なら目を輝かせる提案だ。

しかし、環は首を横に振った。


「……糖分はいらない。」


環は、学生が脇に抱えていた分厚い専門書を指差した。


「それ、よみたい。」

「え? これ?」


学生が持っていたのは『制御工学基礎論』や『C言語アルゴリズム実習』といった、無味乾燥な教科書だった。


「こんなの面白くないぞ? 字ばっかりだし……。」

「いいから。……見せて。」


学生たちは顔を見合わせ、苦笑しながらも手持ちの教科書や参考書を環に渡した。


「まあ、パラパラ見るだけなら……。」


環はベンチに座り、教科書を開いた。 そこから、学生たちの表情が凍りつくのに時間はかからなかった。



シュパパパパパッ……!



ページをめくる音が、風を切る音のように響く。


1ページ数秒。 画像データとして脳に焼き付け、重要なテキストだけを抽出して理解する。


「お、おい……読んでるのか? 絵を見てるだけじゃ……。」


「……カルマンフィルタの概念図。ノイズ除去のプロセス。」


環は読むのを止めずに、ページの内容をボソリと呟いた。


「ま、マジで読んでる……。」



約1時間後。 学生5人が持っていた計10冊の専門書が、すべて「既読」の山となった。


「……ふぅ。基礎的な理論は理解した。」


環は満足げに息を吐いた。


「でも、応用例が足りない。……もっとない?」


学生たちは戦慄した。 自分たちが半年かけて必死に頭に叩き込んでいる内容を、この幼稚園児(卒園済み)は、ジュース一本飲むような時間で飲み干してしまったのだ。


「……お前ら、どうする?」

「ここで帰したら、日本の科学の損失な気がする。」

「……連れて行くか。『あそこ』へ。」


学生たちは覚悟を決めたような顔で、環と、困惑する父・博に向き直った。


「お父さん、ちょっとだけ……僕らの研究室ラボに来ませんか?」


「えっ、部外者は立ち入り禁止じゃ……。」


「大丈夫です! 今日は教授は出張でいないし、助教授しかいないんで!」


博が止める間もなく、環は「いく」と即答し、学生たちの先導で校舎の奥へと進んでいった。



工学部、知能機械システム工学科、第3研究室。

そこは、電子部品の焼ける匂いと、コーヒーの香りが混ざり合う、理系学生の巣窟だった。

壁一面の本棚には、専門書や海外の論文誌がぎっしりと詰まっている。


「……宝の山。」


環の目が怪しく光った。彼女は許可も取らず、本棚へ吸い込まれていった。


「おいお前ら、なんだその子供は? 親戚の子か?」


部屋の奥から、白衣を着た30代半ばの男性が現れた。

無精髭を生やし、目の下にクマを作った加賀見かがみ助教授だ。


「い、いえ先生! 実はこの子がロボットのコードを直して……!」


学生たちが説明しようとするが、加賀見は信じない。


「ハッ、冗談だろ。幼稚園児に微分方程式が解けるわけ……」


「……ねえ、このしき。」


突然、本棚の隅で論文を読んでいた環が、加賀見に紙を突きつけた。

それは、加賀見が執筆途中で放置していた、次世代アクチュエータに関する論文の草稿だった。


「勝手に見るな! ……で、式がなんだって?」


「ここ、熱変換効率の係数が甘い。」


環は、加賀見の計算式の不備を指差した。


「素材の熱伝導率を定数にしてるけど、この温度域なら変数にしないと誤差が出る。……だから、シミュレーションと実測がズレたんじゃない?」



加賀見の顔から、眠気が吹き飛んだ。

彼は慌ててPCのキーボードを叩き、データを確認した。


「……嘘だろ。マジでズレてる。」


加賀見は、恐る恐る環を見下ろした。


「君、わかるのか? これが何を意味する式か。」


「エネルギー保存則の応用。……でも、このアプローチだと排熱処理が追いつかない。私なら、ここにペルチェ素子を噛ませて、回生エネルギーとして再利用する。」


環は、その辺にあった裏紙に、鉛筆でサラサラと回路図と数式を書き殴った。

それは、6歳児の落書きではなかった。 エンジニア同士の、共通言語(数式)による会話だった。


「……面白い。」


加賀見の目の色が変わった。

彼は子供扱いを辞めた。


「だが、ペルチェを入れると重量が増す。君ならどう解決する?」


「構造材をハニカムにして軽量化する。強度は落ちるけど、制御でカバーできる。」


「制御で? 言ってくれるね。今のCPUスペックでそのリアルタイム制御が可能だと?」


「アルゴリズムを最適化すればいける。……貸して、私が書く。」



「す、すみません! そろそろ帰らないと!」


博が声をかけた時、すでに夕方の5時を回っていた。

研究室のホワイトボードは、加賀見と環が書き殴った数式で埋め尽くされていた。


加賀見は、ハッとしてペンを置いた。


「ああ、すみませんお父さん。……いやあ、久しぶりに有意義な議論ができました。」


加賀見は、心底楽しそうに笑っていた。

学生相手では手加減が必要な議論も、この6歳児相手なら全力でぶつけ合える。

環もまた、紅潮した顔で目を輝かせていた。


「お父さん。……ここ、楽しい。」


「保育園より?」


「うん。……話が通じる人がいる。」


その言葉に、博は少し胸が痛んだ。

娘はずっと、孤独だったのだ。

同年代の子とも、先生とも、そして親である自分たちとさえも、本当の意味では「会話」ができていなかった。 ここに来て初めて、彼女は同じ速度で思考できる同族に出会えたのだ。


「……また、来てもいいですか?」


博が尋ねると、加賀見と学生たちは全力で頷いた。


「もちろんです! 特任研究員(おやつ付き)として歓迎しますよ!」

「いつでもおいで! 新しい本、用意しとくから!」


こうして、小学校入学前の春休み。

環は、ランドセルを背負う前に、国立大学研究室という「秘密基地」を手に入れた。


それは、後の彼女の飛躍的な研究成果を生み出す土壌となるのだった。

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