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貧弱なハードウェア

春。桜庭家に再び、ヤレバ教室からの呼び出しがあった。


今回は「謝罪」でも「お願い」でもなく、「降伏宣言」だった。


「……桜庭さん。正直に申し上げます。」


教室の先生は、やつれた顔で言った。


「環ちゃんは、この1年で『国語(古文・漢文含む)』と『英語(高校修了レベル)』の全教材を終了されました。」


「えっ、もう終わりですか?」


博が驚くと、先生は力なく頷いた。


「もう、教室に在庫がありません。これ以上ここにいても、環ちゃんには『同じ問題を解く』という苦行しか提供できません。」


「つまり……名誉の卒業(退塾)ということで、お願いします。」


それは事実上の「出禁」だった。

食べ放題の店に現れたフードファイターが、店中の食材を食い尽くして「お客様、もう勘弁してください」と追い出されるのと全く同じ構図だった。



帰り道、博と裕子は、娘の手を引いて歩きながら、こっそりと皮算用をした。


「おい裕子、計算してみたんだが……。」

「ええ、私もよ。」


•期間: 約2年

•費用: 入会金+(算数+国・英セット割引) ≒ 約15万円

•成果: 数学III・C、現代文・古文・漢文、高校英語全般のマスター


「……大学受験予備校に通ったら、100万は軽く超える内容だぞ。」


「それが15万円……。ディスカウントストアのセールよりお得だわ。」


二人は顔を見合わせ、震えた。

我が娘ながら、恐ろしいほどの「家計への貢献度」である。

環は、親の財布を痛めることなく、勝手に最強のスペックへと進化してくれたのだ。



ヤレバ教室は最後に、せめてもの宣伝として『月刊ヤレバ』の表紙に環を掲載した。


見出しは『伝説の5歳児、全課程制覇!』


しかし、写真の中の環は、「やっと解放された」と言わんばかりの冷めた目をしていた。

彼女にとって、プリント学習はもう「退屈な作業」になり果てていたのだ。



そして、解き放たれた野獣(環)が次に向かった先は、やはり市立図書館だった。


「おねえさん。……あれ、とって。」


カウンターで、環が指差したのは、司書の背後にある書棚だった。


「え? 『広辞苑』? ……重いよ?」


「いいの。あと、あのあかいの(英和辞典)と、あおいの(和英辞典)も。」


司書のお姉さんは苦笑しながら、分厚い辞書を机に積んであげた。


環はそれを踏み台に乗って開き、読み始めた。



パラッ……ジッ。


パラッ……ジッ。



物語を楽しむのではない。

「あ」から順に、単語と意味の定義をスキャンしていく。


彼女は気づいていた。

あらゆる本を効率よく理解するためには、その構成要素である「単語のデータベース」を脳内に構築するのが一番早いと。


「……環ちゃん、辞書は『読むもの』じゃなくて『引くもの』なのよ?」


司書の言葉も耳に入らない。 彼女は、数週間かけて図書館の辞書コーナーを「丸呑み」していった。



情報の枯渇は、保育園でも深刻だった。 園長室のCDも、幼児向けの絵本も、もう環の脳を刺激しない。


暇を持て余した環は、ついに「職員室の本棚」に魔の手を伸ばした。

そこにあるのは、先生たちが読むための専門書だ。


•『幼児教育心理学』

•『保育所保育指針解説書』

•『労働基準法 実務マニュアル(園長用)』

•『月刊 保育とカリキュラム』


お昼寝の時間。他の園児が寝息を立てる中、環は職員室の隅で、先生の私物を読み漁る。


「……なるほど。ようじは、じががめばえるじき。」

『幼児心理学』を読みながら、泣いている友達を見て分析する5歳児。


「……えんちょうせんせい、ざんぎょうだい、けいさんちがう。」

『労基法』を読んだ後、園長の給与計算ソフトの画面を後ろから凝視する5歳児。


「ひぃっ! 環ちゃん、見ないで!」


先生たちは悲鳴を上げた。


「環ちゃんに隠し事はできない」という都市伝説が、あおぞら保育園でまことしやかに囁かれるようになった。


こうして、環は小学校入学を前にして、すでに「歩く百科事典」兼「小さな監査役」として、その名を(一部で)轟かせ始めていた。


________________________________________


保育園の年長になった環は、ある日、リビングで深刻な顔をして自分の二の腕をプニプニと摘まんでいた。


「……お父さん。もんだいです。」


「ん? どうした環。」


「ソフトウェア(脳)の処理速度に、ハードウェア(体)が追いついていません。……ボトルネックが発生しています。」


環は、難解な語彙で「運動不足」を訴えた。


頭の中では完璧なシミュレーションができているのに、体が思うように動かない。

走ってもすぐに転ぶし、鉄棒も前回りで目が回る。

これが彼女には許せなかった。


「そこで、提案です。……すいミングスクールに、かよいたいです。」


「水泳? いいじゃないか!」


博と裕子は顔を見合わせた。

勉強ばかりで運動音痴になるのを心配していた両親にとって、これは願ってもない申し出だった。



早速、近所のスイミングスクールに入会した環。


しかし、水の中では頭脳は通用しなかった。


「はい、バタ足してー! パシャパシャ!」


コーチの掛け声に合わせて、子供たちが水しぶきを上げる。


環の頭の中では、完璧な流体力学の計算が完了していた。


(……水の抵抗を最小限にし、推進力を最大化する角度は32度。足の振幅は……)



ブクブクブク……。



「ああっ! 環ちゃんが沈んでる!」

「足! 足動かして!」


計算通りに体を動かそうとして、逆にガチガチに力んでしまい、ビート板ごと転覆。

息継ぎのタイミングを理論的に考えすぎて、水を大量に飲み込み、コーチに抱きかかえられて救助される。


2階の観覧席で見ていた博と裕子は、ガラス越しにその光景を見て、ほっと胸を撫で下ろした。



「……よかった。環も普通の5歳児なんだな。」


「そうね。溺れかけてる姿を見るのがこんなに安心するなんて、変な親よね。」



スイスイ泳ぐ他の園児たちに置いていかれ、プールサイドでゴホゴホと咳き込む環。

その姿は、神童でも何でもない、ただの不器用な子供だった。


親にとって、それは「完璧すぎる娘」が見せる、愛おしい隙だった。



数週間後。

運動で自信(?)をつけた環は、次に「食の自立」を目指した。


図書館で『基本の家庭料理』『食品化学の科学』を読破した環は、日曜日の夕方、高らかに宣言した。


「今日は、たまきが晩ごはんをつくる。……レシピはぜんぶ、あたまに入ってる。」


「ええっ? 包丁は危ないわよ?」


「つかわないメニューにする。……卵料理。」


裕子がハラハラしながら見守る中、環は踏み台に乗ってキッチンに立った。


メニューは「オムレツ」。

彼女の脳内シミュレーションでは、ふわふわの黄金色が完成しているはずだった。


「まず、卵を割る。……殻の強度計算よし。衝撃のベクトルよし。」


環は真剣な眼差しで、Lサイズの卵を手に取り、ボウルの縁に叩きつけた。



グシャッ。



「……あっ。」



力の加減が分からず、卵は粉砕。

黄身と白身だけでなく、大量の殻の破片がボウルの中に混入した。

手はベトベトだ。


「……想定より、外殻が脆かった。」


環は脂汗をかきながら言い訳をした。



「つ、次は味付けね! 塩コショウを少々よ!」


裕子が助け船を出す。


「りょうかい。塩化ナトリウムを5グラム。」


環は塩の瓶を手に取った。 手首のスナップを利かせて、適量を振る――イメージだった。



ドバァッ!!



5歳児の手首の筋肉は、微細なコントロールが効かない。

瓶の蓋が外れたかのような勢いで、塩が山盛りに投入された。


「あーーっ!!」


「……じゅうりょくが、計算とちがう。」


結局、出来上がったのは、 「殻入りジャリジャリ食感・塩分過多スクランブルエッグ(焦げ目付き)」 だった。


食卓には、謎の黄色い物体が並んだ。

博はそれを一口食べ、ガリッという音と共に微妙な顔をしたが、すぐに笑顔になった。


「うん! ……しょっぱいけど、環が作ってくれたから美味しいぞ!」


「そうね。初めてにしては上出来よ(殻を吐き出しながら)。」


環は、悔しそうに自分の皿を見つめた。

「……りろんは完璧だったのに。」


「手先がまだ不器用なのよ。また練習しましょう。」

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