驚愕の知識量と絶望的な不器用さ
4月。
5年生になった環のクラスに、新任の男性教諭・稲垣24歳がやってきた。
彼は教育学部ではなく、国立大学の農学部を出て教員になったという、異色の経歴の持ち主だ。
職員室での引き継ぎ初日。
稲垣は、前任者から渡された分厚いファイルを見て首を傾げていた。
『 最重要機密:桜庭環マニュアル(改訂版) 』
•第1条: 彼女が図書室にいても、決して連れ戻してはならない。
•第5条: 彼女の言葉が理解できなくても、否定してはならない。それは大抵、教員側の知識不足である。
「……なんすかこれ? 猛獣か何かの飼育マニュアルですか?」
稲垣は、日焼けした顔で笑った。
「まあ、面白そうな子ですね。僕の専攻は『品種改良』なんで、変わった種ほど育てがいがあるってもんです。」
彼はマニュアルをポンと机に置き、独自の観察を始めることにした。
◇
数日後。
昼休み。
図書室の定位置で、環はフランス語の医学書(カバーは『赤毛のアン』)を読んでいた。
「よお、桜庭さん。」
稲垣が、ズカズカと入ってきた。
他の教師なら遠巻きにするところだが、この男には妙な愛嬌と図太さがあった。
「……何? 授業なら出ない。」
「いやいや。……ちょっと、野菜育ててみないか?」
「……野菜?」
環は本から目を離した。
「俺、理科準備室の裏庭で個人的に菜園やってるんだけどさ。一人じゃ手が足りなくて。」
「君、暇そうだし(失礼)、観察眼は鋭そうだから。」
環は考えた。
(……植物バイオテクノロジー。遺伝子組み換えや光合成効率の研究は、将来の食糧問題解決に必須。) (……基礎データの収集としては悪くない。)
「……いいよ。手伝う。」
環は本を閉じた。
理科室の裏手。
そこには、稲垣が持ち込んだ大量のプランターと、本格的な土袋が積まれていた。
「今日はトマトの苗を植えるぞ。……桜庭さん、この土、触ってみてどう思う?」
稲垣は、軽い気持ちで聞いた。 「ふかふかしてる」とか「汚い」とか、そんな答えを予想していた。
しかし、環は土を一つまみ手に取り、指ですり潰し、匂いを嗅いだ。
「……団粒構造が良好。腐葉土と赤玉土の配合比は6:4と推測。」
「……ただ、少し酸性に傾いているかも。トマトの最適pHは6.0~6.5。……石灰をあと50グラム追加すべき。」
「……は?」
稲垣の手が止まった。
環は止まらない。
「……この苗、品種は『桃太郎』? いや、葉の形状からしてミニトマトの『アイコ』。」
「……第一花房が着生している。定植(植え付け)のタイミングとしてはベストだけど、根鉢が少し回りすぎている。……根巻き(ルーピング)のリスクあり。」
「ちょ、ちょっと待て!」
稲垣はスコップを取り落とした。
「お前、なんでそんなこと知ってんの!? 農大生でもそこまで詳しくねぇぞ!」
環は無表情で答えた。
「……以前、鳴和大で、農学の専門書を数冊スキャン(読書)した。」
「……理論は完璧。」
稲垣は絶句した。
(この子……マニュアルに書いてあった「天才」って、こういうことか……!)
「す、すげぇな……。じゃあ、知識は十分だ。」
「実際に植えてみよう。……苗をポットから出して、優しく土に入れてくれ。」
「……ラジャ。」
環は、自信満々で苗を手に取った。
理論は完璧だ。茎を人差し指と中指で挟み、逆さにしてポットを抜く。
グシャッ。
「あああっ! 茎! 茎を握りつぶしてる!!」
稲垣が悲鳴を上げた。
「……あ、あれ? 力加減の制御が……。」
環は慌てて修正しようとしたが、今度は苗を落としそうになり、空中でキャッチしようとして、土ごとぶち撒けた。
バサァッ!!
「……重力加速度の計算ミス。」
環は泥だらけになりながら、言い訳をした。
さらに、支柱を立てて紐で結ぶ作業(誘引)。
「……8の字結び。摩擦係数を考慮して……。」
環の指は、複雑なパズルを解くように動き……結果、苗ではなく自分の親指を支柱に縛り付けた。
「……先生。取れない。」
◇
「ブッ……クククッ……!」
稲垣は、腹を抱えて笑い出した。
「あーっハハハ! お前、頭の中は博士なのに、手先は1年生以下だな!」
「自分の指を縛る奴、初めて見たぞ!」
環は、泥だらけの顔でムッとした。
「……笑わないで。ハードウェアの連携エラー。」
「……手術ロボットなら、ミクロン単位で動かせるのに。」
「はいはい、ロボットはすごいな。でも、お前の手はポンコツだ!」
稲垣は涙を拭いながら、環の指を解いてやった。
「いいか、植物は計算通りにいかねぇんだ。……こうやって、優しく、適当にやるんだよ。」
稲垣の手は、大きくてゴツゴツしていたが、苗を扱う手つきは魔法のように繊細だった。
あっという間に植え付けを完了させる。
「……悔しい。」
環は、きれいに植えられたトマトを見て呟いた。
「はは、悔しかったら通ってこい。……頭でっかちの天才少女に、俺が『手仕事』を教えてやるよ。」
その日以来、環の「図書室登校」の一部が、「菜園登校」に変わった。
最先端のAIを作る少女が、泥んこになりながらトマトと格闘し、農学部出身の先生にゲラゲラ笑われる。
それは、環にとって、デジタルな世界では得られない「生のデータ」と「人間らしい失敗」を学べる、貴重な時間となった。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




