運命のプリントとの遭遇
4歳になった環は、ある日、保育園の年長組の女の子が、迎えに来た母親の横で「宿題」をしているのを目撃した。
それは「やればできる式(通称:ヤレバ学習教室)」のプリントだった。
単純な足し算や、線を引く練習が書かれた、藁半紙のような薄い紙。
「……やりたくないよぉ。」
女の子は愚図っていたが、環の目はそのプリントに釘付けになった。
(……記号だ。ルールに従って答えを導き出す、純粋な論理パズル。)
その日の夕方、スーパーの買い物中に、環は珍しく裕子のエプロンを引っ張った。
お菓子売り場ではない。
文房具売り場の前で。
「ママ。……たまき、あれやりたい。」
環が指差したのは、店内に貼ってあった『ヤレバ学習教室・生徒募集中』のポスターだった。
「えっ? お勉強だよ? おもちゃじゃないよ?」
「うん。……あの紙、いっぱいやりたい。」
◇
その夜、裕子は博に相談した。
「環がね、どうしても塾に行きたいって言うのよ。まだ4歳なのに。」
博は缶ビールを飲みながら、パンフレットを見た。
「『ヤレバ式』か。懐かしいな、俺も子供の頃やってたよ。ひたすらプリントを解くやつだろ?」
気になるのは月謝だ。
まだ裕子のパート代も少ないし、家のローンもある。
しかし、料金表を見た博は安堵した。
「……週2回で、1教科6000円ちょっとか。これならピアノや水泳より安いな。」
「そうね。本人がやりたいって言ってるし、飽きたら辞めさせればいいわよね。」
「よし、許可する! 環の『やりたい』は尊重しよう。」
この時、両親は軽く考えていた。
まさか娘が、教室のプリント在庫を食い尽くす「ペーパー・イーター」になるとは知らずに。
◇
翌週から、環は近所の公民館で開かれている「ヤレバ教室」に通い始めた。
科目は「さんすう」のみ。
初日。 優しそうな先生 (おばちゃん)が、ニコニコと環を迎えた。
「環ちゃんは小さいから、まずは『線結び』と『数字の練習』から始めようね。1日5枚くらいできるかな?」
しかし、環は座布団に座った瞬間、豹変した。
鉛筆を握る手が、残像が見えるほどの速度で動き出す。
カリカリカリカリカリッ!!
「できた。つぎ。」
「えっ、もう!? ……じゃあ、次の10枚……」
カリカリカリカリッ!!
「できた。つぎ。」
環にとって、これは勉強ではなかった。
「脳内処理速度の限界に挑むタイムアタック・ゲーム」だった。
単純な計算問題であればあるほど、脳の並列処理が最適化され、ドーパミンがドバドバと溢れ出す。
「……先生、もうプリントがありません。」
「ええっ!? 今月分がもう!?」
通常、幼児なら30分も座っていれば飽きてしまう。
だが、環は「週2回・1回3時間」トイレも行かずにひたすら鉛筆を走らせ続けた。
彼女が去った後の机には、消しゴムのカスと、山のような完了プリントが積み上げられ、先生は「あの子は……何者?」と戦慄した。
◇
こうして、4歳児・桜庭環の、修行僧のような日課が完成した。
1.午前:保育園
社会性の最低限の維持と、園長室でのCD鑑賞。
2.午後:ヤレバ教室(週2回)
3時間ぶっ通しで「さんすう」のプリントを数百枚処理。
すでに内容は小学校高学年レベル(分数・小数)に突入。
3.夕方:図書館
教室の帰りに寄り、科学雑誌や図鑑を乱読。
計算で活性化した脳に、知識データを流し込むゴールデンタイム。
4.夜:自宅での宿題
ヤレバ教室から持ち帰った「宿題プリント(50枚)」を、デザート感覚で瞬殺。
その後、借りてきた本を読みながら就寝。
◇
数か月後
「……環、本当に楽しそうだな。」
博は、リビングのローテーブルに向かう娘の背中を見て言った。
テレビのアニメも見ず、お人形遊びもせず。
ひたすら「因数分解」のプリント(※教材が進みすぎて中学生レベル)を解き、その横で『ニュートン』などの科学雑誌を開いている。
「まあ、ゲームばかりしてるよりはいいけど……。」
裕子は少し心配そうだったが、環が時折「解けた!」とニヤリと笑う顔を見て、安心することにした。
「きっと、パズルみたいな感覚なのよ。」
「そうだな。……まあ、月謝も変わらないし、本人が好きならいいか。」
ヤレバ教室のシステムは「定額制」。
どれだけプリントを消費しても追加料金はかからない。
桜庭家にとっては、コストパフォーマンス最強の英才教育だった。
こうして、環の基礎演算能力(CPU性能)は、小学校入学前にして、すでに「コンピューター級」へとオーバークロックされつつあった。
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1年後、世界同時不況に喘ぎ始めた秋。
桜庭家に、一本の電話がかかってきた。
『 あ、もしもしお母様ですか? ヤレバ教室の先生です。……あの、今週末、お父様とご一緒に教室まで来ていただけませんか? 』
「えっ……。」
裕子の顔色がサァーッと青ざめた。
(環が何かした? 教室の壁に落書きでもした? それとも、他のお友達のプリントを奪って解いちゃったとか?)
帰宅した博に伝えると、彼もまた動揺した。
「呼び出し……か。謝る準備だけはしておこう。菓子折り、買っていくか。」
◇
週末。
博と裕子は、緊張した面持ちでヤレバ教室のドアを開けた。
そこには、いつもの優しいおばちゃん先生だけでなく、パリッとしたスーツを着た眼鏡の男性が座っていた。
「よ、よく来ていただきました!」
おばちゃん先生が興奮気味に出迎える。
「あ、あの、娘が何か……?」
博が恐る恐る尋ねると、スーツの男性が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「初めまして。私、ヤレバ教育研究所・本部統括の佐藤と申します。」
「実は……環さんについて、ご報告がありまして。」
佐藤統括は、机の上に積み上げられた、分厚いプリントの束をドンと叩いた。
「結論から申し上げますと。……環さんは、当教室が提供できる『さんすう・数学』の全課程を修了されました。」
「……は?」
夫婦の声が重なった。
「因数分解、三角関数、微分・積分、確率統計……。本来であれば高校3年生までに学ぶ内容、その最終教材(教材番号O~Qあたり)まで、全て完璧にクリアされました。」
「5歳で、ですか?」
「はい。創立以来の最年少記録です。……正直、我々も引いています(小声)。」
ポカンとする両親を前に、佐藤統括は身を乗り出した。 ここからが本題だった。
「そこで、ご相談です。……環さんを、全国の教室に配られる月刊誌『月刊ヤレバ』の特集コーナーで取材させていただけないでしょうか?」
「タイトルは『未来の天才現る! 5歳で最終教材修了』といった感じで、お写真を一枚と、簡単なインタビューを。」
「しゅ、取材ですか? うちの子なんかで良ければ……。」
博が戸惑いながら答える。有名になるのは嬉しいが、少し怖い気もする。
すると、佐藤統括は声を潜め、営業スマイル全開で切り出した。
「ありがとうございます! つきましては……取材の謝礼といたしまして。」
「環さんには、まだ『国語』と『英語』が残っております。これを……2教科セットで、1教科分のお月謝で提供させていただきたく!」
「えっ!?」
裕子の目が、主婦特有の「特売センサー」で鋭く光った。
1教科6000円ちょっとなので、本来2教科なら1万2千円強。それが半額。年間で7万円以上の節約になる。
「さ、さらに! 教材費や冷暖房費も免除させていただきます! どうか、環さんを当教室に繋ぎ止め……いえ、才能を伸ばすお手伝いをさせてください!」
要するに、教室側としては、こんな怪物を「数学終わったから辞めます」と逃がしたくないのだ。
広告塔として利用する代わりに、破格の待遇を提示してきたのである。
◇
その夜。
桜庭家では、緊急家族会議が開かれた。
「……というわけなんだ、環。」 博は、テーブルの向こうで『ニュートン(ブラックホール特集)』を読んでいる娘に説明した。
「数学のプリントはもうおしまい。全部終わっちゃったからね。」
「その代わり、雑誌に写真を載せるなら、『国語』と『英語』をすごく安くやらせてくれるって。」
環は雑誌から顔を上げ、コクリと首を傾げた。
「……数学、おしまい?」
「そう。ここにはもう、環が解く問題はないんだって。」
環は少し残念そうにしたが、すぐに思考を切り替えた。
彼女の脳内では、瞬時にメリット・デメリットの計算が行われていた。
1.現状: 数学(論理演算)のトレーニングは完了。これ以上の反復は効率低下。
2.課題: 読書量が増えるにつれ、「漢字(高度な言語コード)」と「英語(国際プロトコル)」の習得が必要不可欠になっている。
3.提案: 写真一枚のコストで、2つの新規データベースへのアクセス権を半額で獲得。
環は、5歳児とは思えない冷静な口調で言った。
「……おとくですね(That is a bargain)。」
「ぶっ。」
博はお茶を吹き出しそうになった。
「お、お得って……お前、5歳児の台詞じゃないぞ。」
「やります。」
環はキッパリと言った。
「こくごと、えいご。……ひつようだから。」
◇
こうして、環のヤレバ教室生活・第2章が幕を開けた。
『月刊ヤレバ』の片隅には、プリントの山に埋もれてピースサインをする、無表情な少女の写真が掲載された。
キャプション:『しょうらいのゆめは、はかせです(適当)』
そして教室では、右手で国語の長文読解(中学生レベル)を解きながら、左手にある英語のカード(高校レベル)を視界の端で暗記するという、恐るべき「文系科目マルチタスク」が開始された。
「……お得ですね。」 その言葉通り、環は支払った月謝の数百倍以上の知識を、教室から搾り取ることになるのだった。
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