表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

運命のプリントとの遭遇

4歳になった環は、ある日、保育園の年長組の女の子が、迎えに来た母親の横で「宿題」をしているのを目撃した。


それは「やればできる式(通称:ヤレバ学習教室)」のプリントだった。


単純な足し算や、線を引く練習が書かれた、藁半紙のような薄い紙。


「……やりたくないよぉ。」

女の子は愚図っていたが、環の目はそのプリントに釘付けになった。


(……記号だ。ルールに従って答えを導き出す、純粋な論理パズル。)


その日の夕方、スーパーの買い物中に、環は珍しく裕子のエプロンを引っ張った。


お菓子売り場ではない。

文房具売り場の前で。


「ママ。……たまき、あれやりたい。」


環が指差したのは、店内に貼ってあった『ヤレバ学習教室・生徒募集中』のポスターだった。


「えっ? お勉強だよ? おもちゃじゃないよ?」


「うん。……あの紙、いっぱいやりたい。」



その夜、裕子は博に相談した。


「環がね、どうしても塾に行きたいって言うのよ。まだ4歳なのに。」


博は缶ビールを飲みながら、パンフレットを見た。


「『ヤレバ式』か。懐かしいな、俺も子供の頃やってたよ。ひたすらプリントを解くやつだろ?」


気になるのは月謝だ。

まだ裕子のパート代も少ないし、家のローンもある。


しかし、料金表を見た博は安堵した。


「……週2回で、1教科6000円ちょっとか。これならピアノや水泳より安いな。」


「そうね。本人がやりたいって言ってるし、飽きたら辞めさせればいいわよね。」


「よし、許可する! 環の『やりたい』は尊重しよう。」


この時、両親は軽く考えていた。

まさか娘が、教室のプリント在庫を食い尽くす「ペーパー・イーター」になるとは知らずに。



翌週から、環は近所の公民館で開かれている「ヤレバ教室」に通い始めた。


科目は「さんすう」のみ。


初日。 優しそうな先生 (おばちゃん)が、ニコニコと環を迎えた。


「環ちゃんは小さいから、まずは『線結び』と『数字の練習』から始めようね。1日5枚くらいできるかな?」


しかし、環は座布団に座った瞬間、豹変した。


鉛筆を握る手が、残像が見えるほどの速度で動き出す。



カリカリカリカリカリッ!!



「できた。つぎ。」


「えっ、もう!? ……じゃあ、次の10枚……」



カリカリカリカリッ!!



「できた。つぎ。」


環にとって、これは勉強ではなかった。

「脳内処理速度の限界に挑むタイムアタック・ゲーム」だった。

単純な計算問題であればあるほど、脳の並列処理が最適化され、ドーパミンがドバドバと溢れ出す。


「……先生、もうプリントがありません。」


「ええっ!? 今月分がもう!?」


通常、幼児なら30分も座っていれば飽きてしまう。


だが、環は「週2回・1回3時間」トイレも行かずにひたすら鉛筆を走らせ続けた。

彼女が去った後の机には、消しゴムのカスと、山のような完了プリントが積み上げられ、先生は「あの子は……何者?」と戦慄した。



こうして、4歳児・桜庭環の、修行僧のような日課が完成した。


1.午前:保育園

  社会性の最低限の維持と、園長室でのCD鑑賞。


2.午後:ヤレバ教室(週2回)

  3時間ぶっ通しで「さんすう」のプリントを数百枚処理。

  すでに内容は小学校高学年レベル(分数・小数)に突入。


3.夕方:図書館

  教室の帰りに寄り、科学雑誌や図鑑を乱読。

  計算で活性化した脳に、知識データを流し込むゴールデンタイム。


4.夜:自宅での宿題

  ヤレバ教室から持ち帰った「宿題プリント(50枚)」を、デザート感覚で瞬殺。

  その後、借りてきた本を読みながら就寝。



数か月後


「……環、本当に楽しそうだな。」


博は、リビングのローテーブルに向かう娘の背中を見て言った。


テレビのアニメも見ず、お人形遊びもせず。

ひたすら「因数分解」のプリント(※教材が進みすぎて中学生レベル)を解き、その横で『ニュートン』などの科学雑誌を開いている。


「まあ、ゲームばかりしてるよりはいいけど……。」


裕子は少し心配そうだったが、環が時折「解けた!」とニヤリと笑う顔を見て、安心することにした。


「きっと、パズルみたいな感覚なのよ。」


「そうだな。……まあ、月謝も変わらないし、本人が好きならいいか。」


ヤレバ教室のシステムは「定額制」。


どれだけプリントを消費しても追加料金はかからない。

桜庭家にとっては、コストパフォーマンス最強の英才教育だった。


こうして、環の基礎演算能力(CPU性能)は、小学校入学前にして、すでに「コンピューター級」へとオーバークロックされつつあった。


________________________________________


1年後、世界同時不況に喘ぎ始めた秋。

桜庭家に、一本の電話がかかってきた。


『 あ、もしもしお母様ですか? ヤレバ教室の先生です。……あの、今週末、お父様とご一緒に教室まで来ていただけませんか? 』


「えっ……。」


裕子の顔色がサァーッと青ざめた。


(環が何かした? 教室の壁に落書きでもした? それとも、他のお友達のプリントを奪って解いちゃったとか?)


帰宅した博に伝えると、彼もまた動揺した。


「呼び出し……か。謝る準備だけはしておこう。菓子折り、買っていくか。」



週末。

博と裕子は、緊張した面持ちでヤレバ教室のドアを開けた。


そこには、いつもの優しいおばちゃん先生だけでなく、パリッとしたスーツを着た眼鏡の男性が座っていた。


「よ、よく来ていただきました!」


おばちゃん先生が興奮気味に出迎える。


「あ、あの、娘が何か……?」


博が恐る恐る尋ねると、スーツの男性が立ち上がり、深々と頭を下げた。


「初めまして。私、ヤレバ教育研究所・本部統括の佐藤と申します。」

「実は……環さんについて、ご報告がありまして。」


佐藤統括は、机の上に積み上げられた、分厚いプリントの束をドンと叩いた。


「結論から申し上げますと。……環さんは、当教室が提供できる『さんすう・数学』の全課程を修了されました。」


「……は?」


夫婦の声が重なった。


「因数分解、三角関数、微分・積分、確率統計……。本来であれば高校3年生までに学ぶ内容、その最終教材(教材番号O~Qあたり)まで、全て完璧にクリアされました。」


「5歳で、ですか?」


「はい。創立以来の最年少記録です。……正直、我々も引いています(小声)。」



ポカンとする両親を前に、佐藤統括は身を乗り出した。 ここからが本題だった。


「そこで、ご相談です。……環さんを、全国の教室に配られる月刊誌『月刊ヤレバ』の特集コーナーで取材させていただけないでしょうか?」

「タイトルは『未来の天才現る! 5歳で最終教材修了』といった感じで、お写真を一枚と、簡単なインタビューを。」


「しゅ、取材ですか? うちの子なんかで良ければ……。」


博が戸惑いながら答える。有名になるのは嬉しいが、少し怖い気もする。


すると、佐藤統括は声を潜め、営業スマイル全開で切り出した。


「ありがとうございます! つきましては……取材の謝礼といたしまして。」

「環さんには、まだ『国語』と『英語』が残っております。これを……2教科セットで、1教科分のお月謝で提供させていただきたく!」


「えっ!?」


裕子の目が、主婦特有の「特売センサー」で鋭く光った。


1教科6000円ちょっとなので、本来2教科なら1万2千円強。それが半額。年間で7万円以上の節約になる。


「さ、さらに! 教材費や冷暖房費も免除させていただきます! どうか、環さんを当教室に繋ぎ止め……いえ、才能を伸ばすお手伝いをさせてください!」


要するに、教室側としては、こんな怪物を「数学終わったから辞めます」と逃がしたくないのだ。

広告塔として利用する代わりに、破格の待遇を提示してきたのである。



その夜。

桜庭家では、緊急家族会議が開かれた。


「……というわけなんだ、環。」 博は、テーブルの向こうで『ニュートン(ブラックホール特集)』を読んでいる娘に説明した。


「数学のプリントはもうおしまい。全部終わっちゃったからね。」

「その代わり、雑誌に写真を載せるなら、『国語』と『英語』をすごく安くやらせてくれるって。」


環は雑誌から顔を上げ、コクリと首を傾げた。


「……数学、おしまい?」


「そう。ここにはもう、環が解く問題はないんだって。」


環は少し残念そうにしたが、すぐに思考を切り替えた。

彼女の脳内では、瞬時にメリット・デメリットの計算が行われていた。


1.現状: 数学(論理演算)のトレーニングは完了。これ以上の反復は効率低下。


2.課題: 読書量が増えるにつれ、「漢字(高度な言語コード)」と「英語(国際プロトコル)」の習得が必要不可欠になっている。


3.提案: 写真一枚のコストで、2つの新規データベースへのアクセス権を半額で獲得。



環は、5歳児とは思えない冷静な口調で言った。



「……おとくですね(That is a bargain)。」



「ぶっ。」


博はお茶を吹き出しそうになった。


「お、お得って……お前、5歳児の台詞じゃないぞ。」


「やります。」


環はキッパリと言った。


「こくごと、えいご。……ひつようだから。」



こうして、環のヤレバ教室生活・第2章が幕を開けた。


『月刊ヤレバ』の片隅には、プリントの山に埋もれてピースサインをする、無表情な少女の写真が掲載された。

キャプション:『しょうらいのゆめは、はかせです(適当)』


そして教室では、右手で国語の長文読解(中学生レベル)を解きながら、左手にある英語のカード(高校レベル)を視界の端で暗記するという、恐るべき「文系科目マルチタスク」が開始された。

「……お得ですね。」 その言葉通り、環は支払った月謝の数百倍以上の知識を、教室から搾り取ることになるのだった。

感想や評価いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ