とある辞表を懐に抱く研修医
県立医科大学・消化器外科の医局。
入局3年目の女性医師・美月、28歳は、パソコンの前で死んだような目をしていた。
(……帰りたい。いや、もう辞めたい。)
部活の先輩の勧めで、「神の手」毒島教授に憧れて外科に入局した。
しかし、現実は甘くなかった。
朝6時の回診から始まり、夜中の緊急オペまで、労働時間は1日16時間超え。
給料はバイトの時給換算でコンビニ以下。
そして何より辛いのは、「手術させてくれない」ことだ。
毒島教授の執刀の第一助手なんて、雲の上の話。
彼女の仕事といえば、何時間も鉤を持って傷口を広げる「鉤引き」や、膨大なサマリー(退院要約)書き、先輩の雑用ばかり。
(……私、なんのために医者になったんだろ。)
(教授の技術を盗む? 無理無理、視野さえ見えない位置に立たされて。)
美月の白衣のポケットには、今朝書いた『退職願』が入っていた。
明日、教授に叩きつけてやるつもりだった。
翌朝。
医局カンファレンスの後、医局長(40代)が美月を手招きした。
「おい、美月。ちょっと地下のシミュレーション室に行ってくれ。」
「はぁ……何か運ぶんですか?」
「いや、新しいロボットのデモがあるんだ。若手代表として、お前が触ってこい。」
美月はげんなりした。また雑用だ。
「……分かりました。何をすれば?」
「虫垂炎の手術シミュレーションだ。」
美月のこめかみに青筋が立った。
アッペ?
研修医1年目でもやる基本中の基本だ。
専門医を目指す私に、今さらアッペをやれと?
私の実力なんて、その程度だと思われているのか。
(……上等じゃない。これが最後の仕事ね。)
(パパッと終わらせて、その場で辞表を出してやる。)
美月は怒りを胸に、地下へと向かった。
地下室には、毒島教授と、見知らぬ技術者たちがいた。
部屋の中央には、4本のアームを持つ無骨なロボット『阿修羅』。
「おう、来たか。美月、そこに座れ。」
毒島が顎でしゃくる。
美月は無言でコンソール(操作席)に座った。
以前、研修で外資系ロボット『レオナルド』は触ったことがある。 遠近感が掴みにくく、ゲームのような浮遊感があった記憶だ。
(……はいはい、どうせ似たようなもんでしょ。)
美月は投げやりにマスタコントローラを握った。
ガチッ。
「……え?」
指先に、確かな「重み」を感じた。
画面の中のアームが、組織を把持する。
その「プニッ」とした弾力が、美月の指に直接伝わってきた。
(……嘘、触覚がある? 鉗子の先が自分の指みたい……。)
「おい、ボーッとしてんじゃねぇ。」
毒島が背後で操作パネルを弄った。
『 Tutorial Mode : ACTIVATED 』
『 Instructor : BUSUJIMA & KITO 』
画面上に、強烈なAR(拡張現実)が表示された。 切除すべき虫垂が赤く、傷つけてはいけない血管や神経が青く光る。
そして、ヘッドセットから「声」が聞こえてきた。
『オラァ! どこ持ってんだバカ野郎!』
「ひっ!?」
美月は飛び上がった。 毒島教授の怒鳴り声だ。
いや、本人は後ろで腕を組んでいる。これはAI音声?
『そこは膜が薄い! 破ると出血するぞ! 鉗子の角度を30度起こせ!』(毒島AI)
『解説しよう。その裏には右尿管が走行している。解剖学的には、回盲部を内側に授動してから……』(鬼頭AI)
(……な、なにこれ!?)
(右耳から教授の罵声(指導)、左耳から鬼頭先生の解剖講義!?)
「うるさい! 分かってますよ!」
美月は半泣きになりながら、ペダルを踏んで電気メスを動かした。
すると、信じられないことが起きた。
コントローラが、美月の手の震えを完全に打ち消し、さらに「正解のルート」へと微妙に誘導してくるのだ。
(……手が、勝手に動く?)
(違う、これが……毒島教授の感覚!?)
まるで、背後から教授に手を重ねられ、一緒に手術をしているような感覚。
迷いがない。組織の剥離層(はがすべき場所)が、光って見える。
出血ゼロ。
完璧な展開。
『いいぞ。そのテンション(引っ張り具合)だ。覚えとけ。』(毒島AI)
『見事だ。美しい術野だ。』(鬼頭AI)
アメとムチ。
罵倒されながらも、正しくできた時は褒められる。
美月の中で、忘れかけていた「手術の快感」が爆発した。
(……楽しい。)
(鉤引きじゃない。私が、切ってる。……しかも、神の技術で。)
「……終了。」
タイムは15分。
熟練医並みのスピードと精度だった。
美月は、汗だくでコンソールから顔を上げた。
心臓がバクバク言っている。
高揚感で指が震える。
「……どうだ、美月。」
毒島がニヤリと笑った。
「いつもの『レオナルド』とは違うだろ?」
美月は、呼吸を整え、教授を振り返った。
その目には、もう「死んだ魚」の色はなかった。
獲物を狙う、肉食獣の輝きが戻っていた。
「……教授。これ、次の胃がんのケースでも使えますか?」
「ああ? まだ臨床試験前だが……お前が使いこなせるなら、助手くらいさせてやってもいい。」
「やります!! 絶対にやります!!」
美月は立ち上がった拍子に、ポケットの中の封筒(退職願)をクシャクシャに握りつぶした。
辞める? バカなことを。
このロボットがあれば、私は数年分の修業を数ヶ月でショートカットできる。
毒島教授の全盛期の技術を、私のものにできるんだ。
「……まずは、このロボットの『専属医』になれ。使い倒せ。」
「はいッ!!」
その夜。
美月は医局のゴミ箱に、クシャクシャの紙屑を投げ捨てた。
そして、マニュアルを片手に『阿修羅』のシミュレーターに籠もり、朝まで没頭し続けるのだった。
こうしてまた一人、環のシステムによって「外科の沼」に引き戻された医師が誕生した。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




