神様の赤ペン先生
しんみりした空気が流れたのも束の間。
西園寺は「よし!」と手を叩き、机の下から分厚い書類の束を取り出した。
「では、未来の総理大臣(仮)にお願いだ!」
「これは文科省から回ってきた、来年度の『科学研究費助成事業(科研費)』の審査書類だ!」
「あと、政府の『科学技術白書』の草案もある!」
ドサッ!!
環の目の前に、凶器のような紙の塔が置かれた。
「……は?」
環の目が点になる。
「私一人で読むと3日はかかるんだが、君となら3時間で終わる!」
「さあ、デザートの時間だ! 赤ペンを持ってくれ!」
「ここの予算配分がおかしいとか、この研究は将来性がないとか、バンバン斬ってくれ!」
「……詐欺。」
環はジト目で西園寺を睨んだ。
「うな重の対価が、労働基準法違反。」
「まあまあ! 日本の科学のためだ! さあ、やるぞ!」
◇
「……これ、実験計画が杜撰。却下。」
「よし、不採択! 次!」
「……このバイオ研究、リスク評価が甘いけど、化ける可能性あり。」
「ほう、では条件付き採択にしよう! 次!」
学長室から、紙をめくる音と、二人の楽しそうな(そして恐ろしい)会話が響き続ける。
本来なら数ヶ月かけて審議される国家予算の配分が、10歳児と老人の「高速査読ごっこ」によって、次々と決定されていく。
環は文句を言いながらも、その瞳は輝いていた。
最先端の研究案に触れ、国の未来をシミュレーションするこの作業は、彼女にとって最高の知的遊戯でもあったのだ。
「……おじいちゃん。この白書の『IT人材育成』の項目、周回遅れ。」
「書き直すか! 貸してごらん、私が総理に直談判してくる!」
うなぎパワーで加速した二人の頭脳は、夕方まで止まることを知らなかった。
◇
西園寺学長と環による「高速査読」は続いていた。
机の上には、採択(合格)と判断された書類の山と、却下(不合格)の山ができている。
環は、ある一枚の申請書の手前でペンを止めた。
内容は『有機金属構造体(MOF)による水素貯蔵技術』に関する研究だ。
「……おじいちゃん。これ、採択でいいけど……一言、補足を入れてもいい?」
「ん? 補足かね?」
西園寺は眉を上げた。 通常、科研費の審査は合否と評点をつけるだけだが、審査員からのコメントとして改善点を伝えることはある。
「構わんよ。……未来の総理の『天啓』だ。好きなだけ書きたまえ。」
西園寺は面白がって許可した。
環は頷くと、申請書の余白に、さらさらと数式と化学構造式を書き込んだ。
『配位高分子の合成触媒に、パラジウムではなくルテニウム錯体(Ru-12)を使用すべき。貴殿の2009年の論文「錯体化学会誌」における失敗データは、温度条件が3度低かったことに起因する。再検証されたし。』
「……おい、ちょっと待て。」
横から覗き込んだ西園寺の手が、ピタリと止まった。
彼は老眼鏡の位置を直し、環の書き込みと、申請者の名前(地方大学の准教授)を見比べた。
「……君は、この研究者の2009年の……しかも『失敗したデータ』を覚えているのか?」
「さらに言えば、その失敗の原因が温度条件だったことまで、特定しているのか?」
それは、当の本人ですら忘れているかもしれない、過去のマイナーな論文の些細な記述だ。
それを、あたかも昨日の日記のように引き出し、現在の研究案とリンクさせている。
「……環くん。まさか君は……。」
西園寺の声が震え出した。
「世の中に星の数ほどある論文を……『全て』記憶しているのか?」
それは、人間の脳の容量を超えている。 インターネットそのものが服を着て歩いているようなものだ。
環は、キョトンとして答えた。
「……全部じゃない。」
「ゴミ論文は、読んだ瞬間に脳から削除してる。」
「……ゴミ、とは?」
「実験データの改ざん、既存研究の焼き直し、論理的整合性のない考察、p値ハッキング(統計のごまかし)……。」
環は冷徹に言い放った。
「世に出る論文の9割は、科学的価値の低いノイズ。」
「私は、『美しい論理』と『再現性のあるデータ』だけをフォルダ分けして保存してる。」
「……だから、この准教授の2009年の論文は『失敗』だけど『美しい』から覚えてた。」
「ただそれだけ。」
ヒュッ……。
西園寺は息を呑んだ。
この少女は、世界中の知を、独自の審美眼でフィルタリングし、脳内に最強のデータベースを構築しているのだ。
「……カカッ! 参った!」
「君の前では、どんなごまかしも通用せんな!」
「よし! 全部の採択案件に、君のコメントをつけろ! これは国家的な『コンサルティング』だ!」
◇
数ヶ月後。 全国の研究者たちの元に、審査結果の通知が届いた。
そこには、見慣れない筆跡(子供のような丸文字)で、衝撃的なアドバイスが記されていた。
【 ケース1:北海道のバイオ研究者 】
「なんだこれ……。『酵素Aの活性化には、マグネシウムイオン濃度を0.5%下げろ』?」
「ふざけるな、そんなことで……あっ!?」
「……成功した!? 3年間止まっていた反応が、一瞬で進んだ!?」
【 ケース2:九州の物理学者 】
「『貴殿のシミュレーションコード、128行目の変数が間違っている』……?」
「嘘だろ、デバッグは完璧に……うわあああ! 本当だ! 凡ミスしてたぁぁ!」
【 ケース3:東京の医科学者 】
「『このアプローチは10年前にドイツのチームが否定済み。参考文献○○を参照し、逆転写酵素の阻害剤を変更せよ』……。」
「……知らなかった。このまま進めてたら、数千万円をドブに捨てるところだった……。」
日本中で、研究の停滞が次々と解消され、画期的な成果が連発する怪現象が起きた。
研究者たちは歓喜し、そして戦慄した。
「一体、誰だ?」
「俺の専門分野の、しかも誰も気づかないようなミスを指摘してくる審査員……。」
「西園寺先生か? いや、先生の専門外の分野だぞ?」
学会では、「正体不明の神の赤ペン先生」の噂で持ちきりになった。 その助言のおかげで、日本の科学技術指標はV字回復し、数年後には複数のノーベル賞候補者が生まれることになる。
◇
「……ふぅ。全部終わった。」
夕方、環はペンを置いた。
「ありがとう、環くん! これで日本はあと10年は戦える!」
西園寺は、山のような書類を愛おしそうに撫でた。
「……おじいちゃん。肩凝った。」
「おお、すまん! マッサージ機を用意しようか? それとも甘いものか?」
「……メロンソーダ―。」
「安い御用だ!!」
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東都工業大学・正門前。
西園寺学長は、自ら手を挙げて流しのタクシーを止めた。
後部座席のドアが開く。
「……羽田空港まで。高速を使って、一番安全で早いルートで頼む。」
西園寺は、環をエスコートして乗せると、運転席の窓から顔を覗き込んだ。
「へ、へい! かしこまり……ひっ!?」
運転手の中年男性は、客の顔を見た瞬間、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「えっ、あ、貴方は……テレビで見る、さい、西園寺博士……ッ!?」
国民的な有名人であり、ノーベル賞学者が、なぜか女子小学生を見送っている。
運転手の脳内はパニックだ。
「……私の大切な友人だ。揺らさないように頼むよ。」
西園寺は、懐から一万円札を数枚取り出し、運転手の手に握らせた。
「釣りはいらん。取っておけ。」
「は、はいぃぃッ!! 記念にしますぅッ!!」
運転手は震える手で紙幣を押し頂いた。
「……じゃあね、おじいちゃん。うな重、美味しかった。」
「ああ。また来るんだぞ、環くん! 待ってるからな!」
西園寺は、タクシーが見えなくなるまで、満面の笑みで手を振り続けていた。
車内で環は、遠ざかる日本の頭脳を見送りながら、シートに深く沈み込んだ。
(……ふぅ。疲れた。あのおじいちゃん、体力が無限大。)
◇
羽田空港。
環は出発ロビーの時計台の下で、両親と合流した。
「環ー! こっちこっち!」
母・裕子が大きく手を振っている。
父・博の手には、「東京ばな奈」や「ひよ子」の紙袋がいっぱいだ。
「お帰り、環。迷子にならなかったか?」
「……うん。タクシーだったから。」
「へえ、タクシー? 贅沢したなぁ。自分のお金で乗ったのか?」
博が驚くと、環は首を横に振った。
「……大学の人が出してくれた。」
「そっかそっか。親切な先生がいるんだねぇ。」
両親は、まさかその「大学の人」が、教科書に載るレベルの偉人だとは露ほども疑わず、娘の頭を撫でた。
帰りの飛行機。
シートベルト着用サインが消えると、裕子がワクワクした顔で聞いてきた。
「で、環。大学はどうだった? 難しかった?」
環は、機内サービスのリンゴジュースを一口飲み、ぼんやりとした目で答えた。
「……ううん。順調。」
「あと……ノーベル賞の人、見た。」
「えっ!?」
両親が声を揃えて驚いた。
「すごいじゃないか環! ノーベル賞学者って、あの西園寺博士か?」
「……うん。」
「へぇ~! 大学の中を歩いてたの? それとも講演会か何か?」
「運が良かったわねぇ。拝めただけでもご利益がありそう!」
両親の脳内イメージ:
•『キャンパスの遠くの方を歩いている老学者を、環が「あ、有名な人だ」と眺めた』
•『もしくは、学長室の前にある銅像か肖像画を見た』
現実:
•『学長室に拉致され、うな重を奢らせ、国の科学予算を一緒に査定し、激辛なダメ出しをして大爆笑し合った』
この天と地ほどの認識のズレを訂正する気力は、今の環には残っていなかった。
「……うん。……ご利益、あるかも。」
環はそれだけ言うと、急速に睡魔に襲われた。
今日は朝から、手術ロボットの制御理論を論じ、半導体の謎を解き、国家予算の審査まで行ったのだ。
10歳の脳の糖分は、完全に枯渇していた。
「あ、寝ちゃった。」
「疲れたんだろう。昨日はディズニーではしゃいだし、今日は大学だしな。」
博は、環にそっとブランケットを掛けた。
「ゆっくり寝かせてやろう。」
機内の照明が落とされる。
安らかな寝息を立てる環の横顔は、日本の未来を背負う天才科学者ではなく、遊び疲れて帰路につく、ただの可愛い一人娘だった。
(……来週は、学校の図工で版画の続き……。)
(……彫刻刀、研いでおかないと……。)
夢の中で、環は国家プロジェクトと図工の授業を等価に処理しながら、深い眠りへと落ちていった。
東京への家族旅行は、こうして平和(?)に幕を閉じた。




