怪物と巨人の邂逅
【土曜日】
午前9時。
都内の高級ホテルのエントランス。 朝食のビュッフェでしっかりとエネルギーを充填した環は、一台のタクシーに乗り込んだ。
「運転手さん、この子をお願いします。」
母・裕子が、行き先を書いたメモと、多めの現金を運転手に渡す。
「行き先は……えっ? 東都工業大学?」
運転手は、後部座席にちょこんと座る少女と、メモを二度見した。
「……お嬢ちゃん、一人で? 見学かな?」
「いえ。仕事です。」
環は短く答え、シートベルトを締めた。
「……は、はぁ。(最近の子役はすごいな……)」
運転手は困惑しつつも、アクセルを踏んだ。
「じゃあね環! お父さんとお母さんはスカイツリー行ってくるから、夕方に駅か空港でね!」
「……うん。楽しんできて。」
両親の手を離れ、環は再び「開発者モード」へとスイッチを切り替えた。
今日の予定は、手術支援ロボット『阿修羅』の全体ミーティング。
鳴和の医大と東京の工大のメンバーが一堂に会する、重要な局面だ。
30分後。
タクシーは、日本の理工系大学の最高峰・東都工業大学の正門に到着した。
「……広い。」
環は広大なキャンパスを見上げ、スマホの地図アプリを起動した。
加賀見の研究室がある「第3研究棟」を目指すが、古い校舎と新しい校舎が入り混じり、迷路のようになっている。
「……GPS信号が微弱。建物の遮蔽率が高い。」
環は、すれ違う大学生たちの視線(なんで小学生がここに?)を無視し、論理的な推論でルートを割り出し、なんとか目的の建物の前にたどり着いた。
◇
研究室のドアの前。
いつもなら、中から喧噪な声や音が聞こえる筈だが妙に静かだった。
「……?」
環がドアを開けようとした瞬間、中から加賀見が飛び出してきた。
「お、おい環! 遅いぞ!」
「……迷った。……先生、汗すごいよ?」
いつもの飄々とした加賀見が、額に脂汗をかき、ワイシャツのボタンを一番上まで留めている。
明らかに様子がおかしい。
「いいか、環。……中にとんでもない人が来てる。」
「とんでもない人?」
「俺もさっき知らされたんだ。……粗相のないようにしろよ。」
加賀見は、環の背中を押し、研究室の中へと招き入れた。
◇
研究室の奥、ロボット開発エリア。
そこには、異様な光景が広がっていた。
普段、大学病院で我が物顔で振る舞っている二人の巨頭。
「解剖学の鬼」こと鬼頭教授。
「神の手を持つ外科医」こと毒島教授。
この二人が、なんと直立不動で、緊張のあまりカチコチに固まっていたのだ。
鬼頭に至っては、膝の上で拳を握りしめ、冷や汗を流している。
毒島も、いつもの傲慢な態度は消え失せ、新入生のように縮こまっている。
(……あのおじさんが、あんなに小さくなってる。)
環は目を丸くした。
その二人の視線の先に、一人の老人がいた。
手術ロボット『阿修羅』の試作機の前。 白衣ではなく、仕立ての良いツイードのジャケットを着た、小柄な白髪の老人が立っていた。
彼は、ロボットのアームを愛おしそうに撫で、アクリル板の向こうの基盤を覗き込んでいた。
「……ほほう。このアクチュエータの配置、美しいね。」
「あえて剛性を落として、生体の粘弾性に近づけているのか。……素晴らしい発想だ。」
穏やかだが、深い知性を感じさせる声。
環は、その顔を見て息を呑んだ。 教科書やニュースで見たことがある。
東都工業大学。学長。
西園寺博士。
数年前、素粒子物理学の分野でノーベル物理学賞を受賞した、生きる伝説。
日本の科学界における、正真正銘のトップである。
「……の、ノーベル賞の人。」
環がポツリと呟くと、西園寺学長がゆっくりと振り返った。
「おや? 君が噂の『小さなCTO(最高技術責任者)』かな?」
西園寺学長は、柔和な笑みを浮かべて環に歩み寄った。
鬼頭と毒島が、ビクッと反応する。
「が、学長! 彼女が、開発のコアを担当している桜庭環です!」
加賀見が慌てて紹介する。
環は、緊張する大人たちをよそに、ペコリと頭を下げた。
「……初めまして。桜庭環です。」
「うん、いい目だ。」
学長は腰をかがめ、環と目線の高さを合わせた。
「君が書いた制御アルゴリズムの論文、読ませてもらったよ。」
「既存の制御理論に囚われない、生物学的なアプローチ……。実に独創的で、感動した。」
ノーベル賞学者からの「感動した」という言葉。
それは、科学者にとって最高の勲章だ。
鬼頭と毒島は、あまりの事態に泡を吹いて倒れそうになっていた。
「……ありがとうございます。」
環は冷静に答えたが、その心臓は早鐘を打っていた。
目の前にいるのは、自分が目指す「真理」の頂に立った人間。
圧倒的なオーラ。
「さて、見せてもらおうか。」 西園寺学長は立ち上がり、『阿修羅』の方を向いた。
「医学と工学、そして君という新しい才能が融合した結晶を。」
こうして、ノーベル賞学者による『阿修羅』の特別査読が始まった。
「……君、このマニピュレータの制御周期は?」
「1ミリ秒。……それ以上遅れると、術者の『触覚』とズレが生じる。」
「ほほう。では、生体組織の粘弾性モデルは?」
「ケルビン・フォークト要素を用いた非線形モデル。……ただし、脂肪層の厚みによって係数を動的に変えている。」
「なるほど。……では、通信パケットの損失補償は?」
「カルマンフィルタによる予測補完。……過去0.5秒の軌道から、次の座標を確率的に推定している。」
速い。
質問と回答の間に、コンマ1秒の隙間もない。
西園寺学長が矢継ぎ早に繰り出す、物理学・制御工学・情報科学の複合的な難問に対し、環は呼吸をするように即答していく。
後ろで見守る加賀見と氷室は、冷や汗を拭うのも忘れて見入っていた。
(……すげぇ。学長の思考速度についていってる。)
一方、医学界の重鎮である鬼頭と毒島は、内容は半分も理解できていないが、この「空気が薄い」状況に胃がキリキリと痛んでいた。
(頼むから失礼なことは言うなよ……相手は日本の科学の神様なんだぞ……!)
◇
一通りの質疑応答が終わった。 西園寺学長は、満足げに頷いた後、ふと思い出したように環を見た。
「そういえば、桜庭くん。」
「……はい。」
「君は、私が先月『ネイチャー』に発表した、『非平衡系における相転移のゆらぎ』に関する論文は読んだかね?」
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
それは、彼がノーベル賞を受賞した理論をさらに発展させた、世界中の物理学者が注目する最新論文だ。 10歳の子供にする質問ではない。
しかし、環は平然と答えた。
「……読んだ。先週の図書館で。」
「ほう! それは嬉しいね。」
西園寺学長は、試すような目で環を見つめた。
「どうだった? 感想を聞かせてくれないか?」
鬼頭と毒島は、心の中で叫んだ。
(「凄かったです」と言え! 「難しくて分かりませんでした」でもいい! とにかく波風を立てるな!!)
環は、少し考えるように視線を宙に漂わせ、そして真っ直ぐに学長を見た。
「……美しかった。数式展開のエレガンスは、芸術的。」
(よし! そのままだ!)
大人たちが安堵しかけたその時、環は続けた。
「……でも、4章の『エントロピー生成率』の近似式。……あれ、不完全。」
ピキッ。
部屋の時が止まる音がした。
「……え?」
加賀見の声が裏返る。
鬼頭の顔から、完全に血の気が引く。
環は止まらない。
「あの条件下で線形近似を使うと、境界領域で誤差が発散する可能性がある。……特異点近傍の挙動を無視してる。」
「論理の飛躍がある。……詰めが甘い。」
シーン…………。
体感温度、マイナス273.15度(絶対零度)。
工大の学長でありノーベル賞学者の最新論文に対し、10歳の小学生が「詰めが甘い」と言い放った。
それは、科学界における「神殺し」に等しい暴挙だった。
鬼頭と毒島は、あまりの恐怖に意識が飛びかけ、直立不動のまま白目を剥きそうになっていた。
(終わった……俺たちのキャリアも、大学の予算も、全部終わった……!)
◇
沈黙は、永遠のように感じられた。
西園寺学長は、ポカンと口を開け、環を見つめていた。
そして。
「ブッ……ワハハハハハハハ!!!」
学長は、腹を抱えて爆笑した。
研究室の窓ガラスが震えるほどの豪快な笑い声だ。
「い、痛い! そこを突かれると痛いなぁ!!」
学長は涙を拭いながら、膝を叩いた。
「その通りだ! 君の言う通りだよ!」
「あそこの近似は、私も執筆中に『ちょっと強引か?』と悩んだ箇所なんだ!」
「査読者たちですらスルーしたその『ごまかし』を、君は見抜いたのか!」
西園寺学長は、環の肩をガシッと掴んだ。
その目は、子供を見る目ではなく、対等な「同志」を見る目になっていた。
「実はな、今まさに、その『特異点近傍の非線形項』を修正する補正論文を書いている最中なんだよ。」 「いやぁ、参った! まさか小学生に一番痛いところを刺されるとは!」
「……やっぱり。」
環は、安心したように小さく笑った。
「……先生なら、気づいてないはずがないと思った。」
「あそこを埋めれば、理論は完璧になる。」
「ああ、約束するよ。完成したら、真っ先に君に送ろう。」
西園寺学長は、環に右手を差し出した。
「桜庭環くん。君は、本物の科学者だ。」
環は、その皺だらけの大きな手を、小さな手でしっかりと握り返した。
「……楽しみにしてる。」
その後ろで。
魂が抜けかけた大人たち4人(鬼頭・毒島・加賀見・氷室)は、壁に寄りかかりながら、ズルズルと崩れ落ちていた。
「……心臓が止まるかと思った……。」(鬼頭)
「……メスを持つ手が震えるわ……。」(毒島)
日本の知の頂点と、未来の知の頂点が共鳴した瞬間であった。
◇
西園寺学長は、満足げな笑みをスッと消し、真剣な眼差しで環を見下ろした。
その背後に、どす黒いほどの覇気が立ち昇る。
それは、ノーベル賞学者としての顔ではない。霞が関の官僚や政治家たちをねじ伏せ、巨額の研究予算をもぎ取ってきた、「政界のフィクサー」としての顔だった。
「……桜庭くん。単刀直入に言おう。」
「今すぐ、工大に入りたまえ。」
「……え?」
後ろで聞いていた加賀見たちが声を上げる。
西園寺は、低い声で続けた。
「君の才能を、義務教育ごときで腐らせるのは国家的損失だ。」
「ここにいる加賀見くんや氷室くんは、私よりも優秀な現場の研究者だ。彼らと対等に、24時間研究に没頭したいとは思わんか?」
「……でも、日本の法律では……。」
環が口を開きかけると、西園寺は鼻で笑った。
「法律? 文科省? 教育委員会? ……そんなものは、私が捻じ伏せる。」
ゴゴゴゴゴ……。
鬼頭と毒島が震え上がった。
本気だ。
この老人は、電話一本で大臣を呼び出し、特例措置を作らせるつもりだ。
「環一人くらい、裏口だろうが超法規的措置だろうが、どうとでもなる。」
その顔は、科学者ではなく、完全に「魔王」のそれだった。
最高の環境。 最強の仲間。
そして、面倒な学校生活からの解放。
どの研究者も喉から手が出るほどのオファーだ。
しかし。 環は、ポーカーフェイスのまま、即答した。
「……お断りする。」
「……ん?」
西園寺の眉がピクリと動く。
「……なぜだ? 予算か? 設備か? 好きなだけ用意するぞ。」
環は、キッパリと言い放った。
「……制服が、着たいから。」
絶対零度のさらに向こう側
「……は?」
西園寺が、初めて間の抜けた声を出した。
環は真顔で説明を続けた。
「……地元のの中学と高校の制服はセーラー服。」
「……あれを着て通学するのは、10代の女子にしか許されない特権(期間限定イベント)。」
「……大学は私服。……面白みがない。」
「……私は、セーラー服を着て、青春という名のデータ収集がしたい。」
シーン…………。
プツン。
その場にいた大人たち(鬼頭、毒島、加賀見、氷室)の思考回路が、完全に切断された。
絶対零度による凍結を超え、宇宙の彼方へ意識が飛び、「無」になった。
(……こいつ、国を動かすレベルの特別入学を……。)
(……「服が着たい」という理由だけで蹴った……。)
(……セーラー服 >>>> ノーベル賞学者の権力。)
あまりのスケールの落差に、誰も言葉を発することができなかった。
静寂を破ったのは、またしても西園寺だった。
「カッカッカッカッ!!! 痛快!! 痛快すぎるわ!!!」
西園寺は、天井を仰いで手を叩いた。
「日本最高峰の研究よりも、セーラー服を優先するか!!」
「いいぞ! その『譲れない美学』こそが、研究者には必要なんだ!!」
西園寺は、屈み込んで環を力強く抱きしめた。
ギュウゥゥッ!!
「……く、苦しい。」
「あっぱれだ、桜庭環! 君の勝ちだ!」
西園寺は、最高の笑顔で環の肩を叩いた。
「よろしい! ならば、気が済むまでセーラー服とやらを着て、青春を謳歌したまえ!」
「だが忘れるな! その『イベント』が終わったら、必ずここに来い!」
「君の席は、私が死んでも空けておくからな!」
「……じゃあな、諸君! 良い研究をしろよ!」
西園寺は、嵐のように笑い、嵐のように去っていった。
バタン、とドアが閉まる。
残されたのは、魂の抜けた大人4人と、ケロッとしている環だけだった。
「……ふぅ。おじいちゃん、握力強すぎ。」
環が肩を回す。
ようやく再起動した鬼頭が、ガクガクと震えながら環に掴みかかった。
「お、おま……お前ぇぇぇッ!!」
「相手が誰だか分かってんのか!? 日本の科学界のドンだぞ!?」
「それを『セーラー服』だとぉぉぉ!?」
環は、不思議そうに首を傾げた。
「……だって、事実だし。」
「……飛び級なんてしたら、修学旅行も文化祭もない。……人生の損失。」
毒島と加賀見は、顔を見合わせて脱力した。
「……勝てん。」
「……あの子、ある意味で学長より大物だわ。」
こうして、東京での「阿修羅」開発会議は、日本のトップを巻き込んだ大騒動の末、環の「セーラー服への執着」という伝説を残して幕を開けた。
解説しよう!
Reboot本編(R18)の「ep.5 体勢整う」で登場した西園寺学長が今回初登場。
今後のストーリーや環の人生に大きく関わる傑物だ!
100年後の怜の研究所も、西園寺の素粒子研究所が起源だったりするのだ!
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




