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驚異のインプット

2歳になった環は、片言を話し始めていた。


だが、それは一般的な幼児の「マンマ」「ブーブー」といった可愛いものではなかった。


「……あ、うー、ち……が……!」


環は、テレビのニュース番組を指差し、顔を真っ赤にして何かを訴えていた。


博には分からない。


「どうした? アン〇〇マンが見たいのか?」


「ち! が! ……う! ……くっ……。」


環は悔しそうに唸り、自分の喉元をペチペチと叩いた。


博はその姿を見て、妙な既視感を覚えた。


それは、「処理速度の速い最新パソコンに、旧式のスピーカーを繋いで音割れしている状態」に見えたのだ。


彼女の脳内では、既に「その経済ニュースの解説は間違っている」とか「論理が破綻している」といった言語化された思考が完成している(と思われる)。

しかし、2歳児の声帯と舌の筋肉は、その複雑な信号を出力できない。


「……あー、もう!」(←これだけはハッキリ言えた)


環は諦め、深いため息をついてソファに突っ伏した。

その背中は、無能な部下に指示が伝わらず絶望する中間管理職のような哀愁を漂わせていた。



図書館通いは続いていたが、環の興味は「絵本」から急速に離れつつあった。

彼女が手を伸ばすのは、児童書コーナーを飛び出し、一般書の棚にある「新書」や「専門書」だった。


「環、それは難しいよ。字が小さいし。」 博が止めるのも聞かず、環は分厚いハードカバーの本(『現代物理学概論』など)を膝に乗せて開く。


しかし、そこでまたしても「肉体の壁」が立ちはだかる。


まだ漢字が読めない。

そして何より、幼児の視力と視野では、小さな活字の羅列は「黒い砂嵐」にしか見えないのだ。



ジッ…………。



環は本に顔をくっつくほど近づけ、眉間に深い皺を寄せて凝視する。


読みたい。知りたい。ここには「絵」ではない「真理」が書いてあるはずなのに。



数分後。


パタンッ!!



彼女は乱暴に本を閉じ、不機嫌そうに棚に戻した。

「……よめない。」

ぽつりと呟く声が、あまりにも切実だった。


博は、そんな娘のために「文字の大きな図鑑」を借りてあげることしかできなかったが、環はそれを「子供だましだ」と言わんばかりの目で一瞥するだけだった。



そんな「出力(会話)」も「入力(読書)」もままならない環が見つけた、新たな情報のパイプライン。

それが、ラジオだった。


それも、民放のバラエティや音楽番組ではない。 公共ラジオ教育チャンネルだ。


博が仕事から帰ると、家の中が妙に静かだった。

テレビは消えている。 妻の裕子は台所で夕飯を作っている。


そしてリビングの真ん中で、環が父のCDラジカセの前に正座し、じっと耳を傾けていた。


『 ……Lesson 4. Repeat after me. "This is a pen." 』

『 ……次は、株式市況をお伝えします。日経平均株価は…… 』

『 ……続いて、カルチャーアワー。漢詩の世界へようこそ。 』


淡々と流れる、感情を排したアナウンス。


環はそれを、砂漠が水を吸うように聴き入っている。

視覚情報テレビはノイズになるのか、彼女は目を閉じ、じっと音声情報だけを脳に蓄積していた。


「……渋い。渋すぎるよ、環ちゃん。」


博が苦笑しながら近づくと、環は「シーッ!」と人差し指を口に当てた。


「……きいてる。」


邪魔をするな、今は「気象通報」の時間だぞ。

そんなオーラを出され、博はすごすごと着替えに向かうのだった。


2歳の環にとって、ラジオから流れる無機質な情報は、世界と繋がる唯一のクリアな回線だったのだ。



環は2歳になり、母・裕子は環の子育てが手間がかからないこと。

家計を助けるために正社員への復帰を目指したが、現実は厳しかった。


「不採用通知」の山。数十件の面接に落ち続けた。

いわゆる「就職氷河期」の余波は、地方都市の主婦にはとりわけ冷たかった。


「……はぁ。またダメだった。」

裕子は溜息をつき、結局、時給600円のスーパーのパートタイムとして働くことを決めた。


それに伴い、環は保育園に通うことになった。

都心部では「待機児童問題」が深刻化していたが、ここ長閑市のどかしでは、定員割れ寸前の「あおぞら保育園」にあっさりと入園できた。

これは田舎ならではの特権だった。ただし、パート勤務のため預かりは「午前中のみ」である。



「環ちゃん、今日からお友達といっぱい遊ぶのよ。」


初登園の日。環は、周囲の3歳児たちを見渡し、絶望した。


(……うるさい。汚い。論理がない。)


周りの子供たちは、鼻水を垂らし、意味もなく叫び、おもちゃを取り合って泣いている。

環も最初は「社会性の学習」として、砂場で山を作ったり、滑り台に並んだりして“普通”を演じてみた。

しかし、彼女が完璧な円錐形の砂山を作っても、数秒後には他の子がダイブして破壊する。


「あー!!(怒)」


環は、わずか3日で悟った。 「ここに私の居場所(知性)はない」と。



集団行動からそっとフェードアウトした環が辿り着いたのは、冷房の効いた園長室だった。

園長の野口先生(50代女性)は、教育熱心だが少し抜けている、人の良いおばさんだった。


「あら、環ちゃん。お外で遊ばないの?」


環は答えず、園長室の棚を指差した。


そこには、ビニールに入ったままのCDケースが山積みにされていた。

『天才脳を作る! モーツァルト大全集』

『九川式・右脳トレーニングCD』

『英語の歌100選』

『元素記号ラップ』


これらは全て、野口園長が「園児の教育に!」と通販で衝動買いし、現場の保育士たちに「そんなもの流す時間ありません!」と拒否され、埃を被っていた在庫の山だった。


環の目が輝いた。


(……宝の山だ。)



「これ、聴きたいの?」

園長がCDラジカセにセットすると、環はスピーカーの前に正座した。


『 H・He・Li・Be・B……♪(水兵リーベ僕の船……) 』


軽快なリズムに乗せて流れる元素記号。


環は微動だにせず、スポンジが水を吸うように、情報を脳内ハードディスクへ書き込んでいく。


1枚終わると、次を要求する。


英語、九九、クラシック、落語。


ジャンルは問わない。

とにかく「体系化された情報」であれば何でも良かった。


園長は、その姿を見て感激した。


「すごいわ! 誰も聴いてくれなかった私のCDを、こんなに熱心に!」

「環ちゃんは、きっと耳がいいのねぇ。将来は音楽家かしら?」


園長は喜々として、次々と新しいCDを開封しては環に与えた。


彼女は気づいていなかった。

自分が音楽家を育てているのではなく、「汎用人型スーパーコンピューター」に初期データをインストールしているだけだということに。



「ただいまー。」


昼過ぎ、仕事を終えた裕子が迎えに来ると、環は満足げな顔で園長室から出てきた。


「お母さん、環ちゃんはとってもいい子よ。ずっと私の部屋でCDを聴いてお勉強してるの。」


「えっ、遊ばないんですか?」


「ええ。集中力が凄いのよ。」


帰り道、手をつないで歩く環が、唐突に口を開いた。


「……すい、へー、りー、べ……ぼく……の……ふね。」


「えっ? 環、なにその呪文?」


裕子は驚いた。 まだ舌っ足らずな3歳の娘が、化学の基礎を口ずさんでいる。

意味は分かっていないだろうが、その記憶力は異常だった。


「……なーむ。……の、ふね。」


環はニヤリと笑った。


保育園は「遊び場」ではない。

「データセンター」だ。

そう認識した環にとって、あおぞら保育園は、退屈な場所から「情報の補給基地」へと変わったのだった。



園長先生のコレクション(CDと知育本)を全て読破・聴破した環は、保育園の「お絵かき」や「粘土遊び」の時間に、その成果を披露し始めた。


他の園児たちが、「ママの顔」や「ヘビさん(ただの棒)」を作っている横で、環の制作物は異彩を放っていた。


【 粘土遊び 】

環は黙々と灰色の油粘土をこね、小さな椎骨ついこつのようなパーツを量産し、それを丁寧に繋ぎ合わせていく。 先生「環ちゃん、それはヘビさんかな?」 環「……せぼね。」 先生「えっ?」 環「……脊椎動物の、基本構造。」 それは、図鑑で見た「骨格標本」の再現だった。お世辞にもあまり上手くはないが、粘土板の上に鎮座していた。


【 お絵かき 】

画用紙いっぱいに、黄色い丸(太陽)を描く。ここまでは普通だ。 しかし、その周りに描かれたのは、笑顔のチューリップではない。 水星、金星、地球、火星……。 それぞれの大きさの比率と、軌道の距離感が、妙に正確な「太陽系図」だった。土星の輪の角度までこだわりが見える。


「……この子は、芸術家肌なのかしら?」 保育士たちは首を傾げたが、それは芸術ではなく、単なる「データの出力テスト」であった。



あおぞら保育園では、年中・年長組(4〜5歳)になると、月に一度、歩いて近所の市立図書館へ行く行事があった。 年少組(3歳)の環は、当然お留守番である。


「みんなー、靴を履いてー。静かに行くのよー。」


年長さんたちが楽しそうに出発準備をしている。


その光景を見た環の脳内で、警報が鳴り響いた。


(……待て。私は除外されている? あそこには、園長室の1000倍のデータがあるのに!)


環は、玄関で先生の服の裾を掴んだ。


「……たまきも、いく。」


「ごめんねー、環ちゃんはまだ小さいから、大きくなったらね。」


先生が優しく諭すが、環の手は離れない。

ここ数ヶ月、園内の情報は枯渇していた。

新しい刺激に飢えていた彼女にとって、「目の前で情報の宝庫へ行く部隊が出発する」のは耐えがたい損失だった。


そして、普段は理性的で手のかからない環が、ついに爆発した。



「いーくーのォォォォォッ!!!」



廊下に寝転がり、手足をバタつかせての大号泣。


「行きたい!」というより、「アクセス権を寄越せ!」という抗議のデモ活動である。


そのあまりの剣幕と、普段とのギャップに先生たちは狼狽えた。


「ど、どうしたの環ちゃん!?」


「お腹痛いの!?」


騒ぎを聞きつけた野口園長が飛んできた。


「……まあまあ。環ちゃんは特別に賢いから、退屈なのよ。私が責任を持つから、連れて行ってあげなさい。」


特例措置により、環は涙目で鼻水を垂らしながら、お兄ちゃんお姉ちゃんの列の最後尾に加わる権利を勝ち取った。



図書館に到着すると、他の園児たちは「読み聞かせコーナー」や「絵本」に集まった。

しかし、環は脇目もふらず「図鑑コーナー」へ直行した。


彼女が選んだのは、幼児向けの薄い図鑑ではない。

小学館や学研の、分厚くて重い『学習図鑑』シリーズだ。


•『宇宙の図鑑』

•『人体の不思議』

•『深海の生物』


彼女は自分の体重の何分の一もある重い図鑑を、よろめきながらカウンターへ運んだ。


「……これ、かりる。」


「えっ? 環ちゃん、これ字がいっぱいだよ? 重いよ?」


先生が心配するが、環は頑として離さない。

彼女にとって、絵本は「データ密度が低い」

この分厚い図鑑こそが、今の彼女の渇きを癒やす高密度な圧縮ファイルなのだ。



「お母さん! としょかん! またいく!」


夕方、迎えに来た母・裕子に、環は興奮気味に訴えた。

その手には、借りてきた図鑑が抱えられている。


それからの環の成長速度は、異常だった。

借りてきた図鑑を、数日で読破スキャンする。

まだ漢字は読めないはずだが、写真や図解と、読めるひらがなを照らし合わせ、文脈から意味を推測する「パターン認識能力」で、内容を理解していく。



「ママ、心臓はポンプなの。」 「お月さまは、地球の周りを回ってるの。」


語彙が爆発的に増え、滑舌も良くなってきた。

数ヶ月後には、図鑑では物足りなくなり、「小学生向けの科学読み物」や「伝記マンガ」へとターゲットを移していった。


「……うちの子、本当に博士になっちゃうかも。」


裕子は、娘が読む『エジソンの伝記』を眺めながら、少し誇らしく、そして少し末恐ろしく思うようになっていた。


4歳になる頃には、環の知能はすでに小学校低学年レベルを遥かに凌駕しつつあった。 しかし、これはまだ「地球の知識」をインストールしている段階に過ぎなかった。

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