華麗な一週間(後編)
【木曜日】
午前10時30分。
環は、ランドセルに荷物を詰め込み、断腸の思いで教室を後にしようとしていた。
今日の給食は、月に一度の人気メニュー「きなこ揚げパン」だ。
黄金色に輝き、砂糖ときな粉がまぶされた、カロリーと幸福の塊。
それを放棄して大学へ行かねばならない。
(……損失が大きい。)
(……きなこ揚げパンの幸福係数は、カレーライスに匹敵するのに。)
1限目の体育で計算通りにパスを回し、2限目の図工(版画)で下書きを終えた環は、後ろ髪を引かれる思いで担任に告げた。
「……先生。早退する。」
「あら、今日は揚げパンなのに……残念ね。気をつけて行くのよ。」
環は校門を出ながら、空を見上げた。
「……この貸しは高いよ、おじさん。」
正午。
県立医科大学。
環は、鬼頭教授と向かい合って、学食の「カツ丼」を食べていた。
「……で? 揚げパンを犠牲にした代償は?」
環が不機嫌そうに尋ねると、鬼頭はニヤリと笑った。
「おう、悪かったな。だが、今日はどうしてもお前の手が必要なんだ。」
「俺は今、医学部の『教務部長』なんて面倒な役職を押し付けられててな。」
教務部長。
学生のカリキュラム管理や進級判定、国家試験対策の責任者だ。
鬼頭は山積みの資料を指差した。
「学生どもの成績が伸びねぇ。CBT(共用試験)や国家試験の模試の結果がボロボロだ。」
「一人ひとりの苦手分野を分析して指導しろと言われるが、100人以上のデータなんぞ見てられるか!」
「……つまり、手抜きがしたい?」
「人聞きが悪い! 『効率化』と言え!」
午後1時。
鬼頭の教授室。
環は、過去数年分の学生の解答データと、国家試験の過去問データベース(3万問以上)をPCに読み込ませた。
「……単純な偏差値管理じゃ意味がない。」
「学生ごとの『思考の癖』と『誤答パターン』を解析する。」
環は、昨日氷室たちと議論したアルゴリズムを応用し、教育用AIを構築し始めた。
【 システム概要:メディカル・スパルタ(仮) 】
1.弱点狙い撃ち: 学生がCBTの模擬試験(PCで回答)を行うと、AIが「何となく正解した問題」と「論理的に正解した問題」を回答時間や迷いから判別。
2.無限ドリル: 苦手な分野(例:循環器の薬理)ばかりを、形を変えて延々と出題し続ける。
3.合格率予測: 「このままでは国試に落ちます」という死亡宣告を、リアルタイムで赤字表示する。
「……できた。」
数時間後、環はエンターキーを押した。
「試しに、成績下位の学生のアカウントでシミュレーション。」
画面には、AIが生成した「その学生が絶対に間違える嫌らしい問題セット」が表示された。
鬼頭はそれを見て、カカッと笑った。
「素晴らしい! 完全にいじめだな!」
「これで俺がいちいち面談しなくても、AIが勝手に尻を叩いてくれるわけだ。」
このシステムは後に導入され、「鬼頭教授の呪い」として学生たちに恐れられつつも、同大学の国試現役合格率をトップレベルへ押し上げることになる。
午後4時。
教育システムの構築を終えた環は、休む間もなく次のタスクへ移行した。
昨夜、加賀見・氷室とWeb会議で詰めた手術ロボット『阿修羅』の改良だ。
「……アームの可動域、あと5度広げられる。」
「……毒島先生の手癖を学習させて、震えの補正強度を動的に変える。」
環はキーボードを叩き続ける。
今の彼女は、10歳の肉体に3人の天才(自分+加賀見+氷室)の頭脳を宿した状態だ。
(……眠い。糖分が切れてきた。)
集中力が限界に近づいた頃、スマホが震えた。
父・博からのメールだ。
『 仕事終わったよ。正門の前に迎えにいくね。 』
◇
午後6時半。
環は、父の運転するミニバンの助手席に座っていた。
大学での「教授モード」から、「娘モード」への切り替え時間だ。
「お疲れ様、環。今日は遅かったね。」
「……うん。教務のシステムと、ロボットのデバッグ。」
「そっかそっか(内容はよく分からないけど)。……お腹空いただろ?」
二人は、街道沿いのファミリーレストランに入った。
環が頼んだのは、「チーズINハンバーグ」と「ドリンクバー」。
揚げパンの仇を、ここで討つのだ。
「……おいしい。」
熱々の肉汁とチーズが、疲れた脳に染み渡る。
博は、そんな娘をニコニコと見ていた。
「環が稼いだお金に比べたら、ファミレスなんて安いもんだけど……やっぱりこういうのがいいのか?」
「……うん。高級料亭より、ドリンクバーのほうが合理的。」
環はメロンソーダを混ぜながら頷いた。
帰り道。
お腹がいっぱいになり、車の心地よい揺れが環を襲った。 CBTのアルゴリズムも、手術ロボットの制御コードも、今はもう頭の隅に追いやられていた。
「……お父さん。」
「ん?」
「……明日は、『あそこ』へ行って疲れそうだから今から寝る」
「そうか。ゆっくりお休み。」
信号待ちで博が横を見ると、環はシートベルトに埋もれるようにして、深く眠っていた。
その寝顔は、日本の医療を変える革命児ではなく、ただの子供だった。
博はエアコンの温度を少し上げ、静かに車を発進させた。
世界を動かす小さな頭脳は、今夜はただ、夢の中で揚げパンを食べているのかもしれない。
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【金曜日】
午後1時。 給食をきれいに完食した環は、ランドセルを背負い、担任に挨拶をした。
「先生、早退する。」
「はい、気をつけてね。……今日は大学じゃないの?」
「うん。今日は『家族の福利厚生』の日。」
環は校門を出ると、待っていた父・博の運転する車に乗り込んだ。
そのまま空港へ直行し、羽田行きの飛行機に飛び乗る。
機内で環は、窓の外の雲を見ながら、オレンジジュースを飲んでいた。
「……お母さん、落ち着いて。心拍数が上がってる。」
「だ、だって環! 東京よ!? しかもあそこよ!?」
隣に座る母・裕子は、興奮で顔を赤らめていた。 彼女がずっと行きたがっていた場所。
都内にある、世界で一番有名な「テーマパーク」だ。
夕方
空港からタクシーで移動した桜庭家は、テーマパークの巨大なゲート前にいた。
だが、彼らが向かったのは、長蛇の列ができている一般入場ゲートではない。
関係者専用の、重厚な扉の前だ。
「……お待ちしておりました、桜庭様。」
黒服のスタッフが恭しく頭を下げる。
今日は、帝都メディカルがスポンサーを務める「貸し切りナイト(プライベート・イブニング・パーティ)」。 通常なら関係者や抽選で選ばれた客しか入れない。
さらに環たちはその中でも別格の待遇だった。
「……こちらへどうぞ。専用ラウンジをご用意しております。」
博と裕子は、あまりのVIP待遇に縮こまっている。
「お、おい環……これ、本当にいいのか? 追加料金とか……。」
「……発生しない。契約済み。」
環は、ライトアップされた園内城を見上げ、数ヶ月前の「あの夜」を思い出した。
◇
(回想:数ヶ月前、帝都メディカルとの交渉最終局面)
契約金の交渉が大詰めを迎えていた時だ。 神宮寺専務と環は、最後の交渉で揉めていた。
「……わかりました。では、契約金は5億9000万円で……。」
神宮寺が額を提示した時、環は首を横に振った。
「……違う。最後の9000万はいらない。」
「は?」
「その代わり、『権利』が欲しい。」
環は、帝都メディカルがこのテーマパークのオフィシャルスポンサーであることを調べていた。
「……お母さんが、行きたがってる。」
「今後、御社が主催する貸し切りイベント、およびスポンサーラウンジの利用権……。」
「桜庭家に対し、半永久的に最優先で提供すること。」
神宮寺は、きょとんとした。 9000万円を放棄して、遊園地のチケット?
企業にとっては、痛くも痒くもない条件だ。
「……そ、そんなことでいいんですか?」
「……いい。現金は使えばなくなるけど、思い出はプライスレス。」
「成立だ!」 神宮寺は即座に承諾した。
こうして、環は「魔法の鍵」を手に入れたのだ。
◇
現在。パーク内。
「きゃーっ! マッキ―よ! マッキーがいるわ!」
裕子は、猫耳のカチューシャをつけてはしゃいでいる。
博も、ポップコーンバケットを首から下げてニコニコしている。
普段、節約と仕事に追われていた両親が、子供のような顔で笑っている。
それを見るだけで、環の「9000万円の投資」は回収完了だった。
「……環、お前も乗ろうぜ! ヘビーウルトラー・マウンテン!」
「……うん。」
環は、両親に手を引かれてアトラクションに乗った。
絶叫マシン。 普通の子供なら怖がるか喜ぶかだが、環の視点はやはりズレていた。
(……遠心力3G。安全バーのロック機構は油圧式。)
(……コースの勾配設計が秀逸。視覚効果で速度感を増幅させている。)
(……オーディオアニマトロニクスの滑らかな動き。アクチュエータの制御は見事。)
「きゃあぁぁぁっ!」(母)
「うおぉぉぉっ!」(父)
「……(ふむ、ここで重力加速度が反転)。」(環)
夜8時半。
貸し切りナイトのフィナーレを飾る花火が打ち上がった。
環たちは、人混みとは無縁の、スポンサー専用のテラス席でそれを見上げていた。
ドーン、パラパラ……。
夜空を彩る大輪の華。 その光が、両親の笑顔を照らす。
「きれいねぇ……。こんな贅沢、夢みたい。」
裕子が、環の肩を抱き寄せた。
「ありがとうね、環。……お母さん、一生忘れない。」
環は、ココアを飲みながら小さく頷いた。
「……どういたしまして。」 (……炎色反応。ストロンチウムの赤、銅の青。……化学は美しい。)
環は、母の温もりを感じながら思った。
合理的で、冷徹な計算の世界に生きる自分だが、この「非合理な幸福」を守るためなら、またいくらでも大人たちと戦える。
「……さて、明日は土曜日。」
「お父さん、明日はどうする?」
「明日は東京観光して、ゆっくり帰ろうか。」
天才少女の激動と感動の金曜日は、夢の国の魔法と、家族の安らかな時間の中で幕を閉じた。
15年前の当時だとザ・クラスで普通に入れたので9000万円は高いお買い物でしたが、今だと1億で権利を買いたい人は多いでしょうね。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




