華麗な一週間(前編)
4月。
公立学校の宿命、それは「人事異動」である。
環の最大の理解者であった相良教頭と、山下養護教諭は他校へ異動していった。
しかし、彼らは去り際に、後任者たちへ一冊のフラットファイルを託していた。
表紙には『重要引継事項:桜庭環 児童について』とある。
通称、『環マニュアル』
【 マニュアル抜粋 】
1.不可侵の原則: 彼女が主要教科(国・算)の時間に図書室へ行っても、決して連れ戻してはならない。それは「サボり」ではなく「高度な研究活動」である。
2.緊急事態の判断: 彼女が「誰かの体調が悪い」と言ったら、養護教諭の判断より優先し、直ちに救急車を呼ぶこと。
3.質問禁止: 授業中、彼女に「この答え分かる人?」と聞いてはならない。授業が5秒で終わってしまうため。
4.放置の推奨: 基本的に、彼女は空気だと思って接すること。それが双方の幸せである。
「……なんだこれ?」 後任の教頭と担任、そして養護教諭は困惑したが、前任者たちの鬼気迫る「これだけは守ってください!」という言葉に従い、この奇妙な協定を受け入れた。
こうして、4年生になった環の、新たな「不可侵領域」での生活が始まった。
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【月曜日】
1限~3限(国語・算数・理科)
クラスメートたちが教室で「分数の割り算」や「ごんぎつね」を学んでいる頃、環はいつものように図書室の指定席にいた。
「……静かだ。」
新任の先生たちは、マニュアルを忠実に守り、誰一人として環に干渉してこない。
環は、帝都メディカルから貸与されたタブレット端末を開き、海外の論文をチェックしたり、AIのアルゴリズム調整を行ったりしていた。
時折、新任の図書委員の先生が、恐る恐る様子を見に来るが、環が黙々と(医学書を)読んでいる姿を見て、「本当にマニュアル通りだ……」と安堵して去っていく。
そこは、完全に隔離されたサンクチュアリだった。
4限:体育
チャイムが鳴る。 環はタブレットをしまい、体操服に着替えて校庭へ出る。
ここからは「児童としての義務」の時間だ。
「はい、今日は50メートル走のタイムを計りまーす!」
環は、スタートラインに立った。
脳内では完璧なシミュレーションが行われている。
(……前傾姿勢35度。地面反力を最大化し、大腿四頭筋の収縮速度を……)
「よーい、ドン!」
ドタ、ドタ、ドタ……。
環の走りは、決して速くなかった。
フォームは教科書通りで綺麗だが、推進力が足りない。
クラスの女子の真ん中より少し後ろ、まさに「中の下」でゴールした。
「……ふぅ。」
環は膝に手を置いて息を整えた。
(……理論値が出ない。筋出力と心肺機能が、私の演算速度に追いついていない。)
(……典型的な「スペック不足」。)
頭脳はスーパーコンピューターでも、肉体はただの10歳児(しかもインドア派)。
環は、物理演算通りに動かない自分の手足をもどかしく思いつつ、列に戻った。
給食:エネルギー充填
昼休み。
環は、コッペパンとシチューを黙々と口に運んでいた。
「環ちゃん、今日のシチュー美味しくない?」 隣の席の女子が話しかけてくる。
「……うん。塩分濃度が適切。ニンジンのカロテン含有量も評価できる。」
「あはは、また難しいこと言ってるー。」
クラスメートたちは、環の「変人キャラ」に慣れきっており、普通に接してくれる。
環にとっても、給食は「計算された栄養素を、低コストで摂取できる優れたシステム」であり、残すことはない。
牛乳も一気に飲み干す。骨格形成(身長)のためだ。
5・6限:図工
午後は図工の時間。
テーマは「校舎の写生」。
環は、画板を持って中庭に座った。
ここでも彼女の能力は「芸術」というより「製図」として発揮された。
鉛筆を親指で立てて、距離を測る。
(……消失点を設定。パース(遠近法)の狂いを修正。)
彼女の描く校舎は、CADで引いたように正確無比だった。
窓の数、タイルの枚数、屋根の角度。
すべてが完璧な比率で再現されている。
「す、すごいね桜庭さん……写真みたいだ。」
新任の図工の先生が驚くが、環は首を傾げた。
「……面白みがない。」
隣の男子が描いた、歪んでいるがダイナミックな絵と比べると、自分の絵には「情熱」が欠けている。
(……AIが描いた絵と同じ。……人間らしい「ゆらぎ」がない。)
環は、芸術の難しさを感じながら、淡々と色を塗った。
放課後:スイミング
下校後。
環は、市内のスイミングスクール行きのバスに乗った。
これは親にやらされているわけではない。
環が自ら希望した習い事だ。
「……脳の冷却と、心肺機能の強化。」
プールサイドに立った環は、キャップとゴーグルを装着し、完全に「無」の表情になった。
クラスは「育成コース(中級)」
選手を目指す「選手コース」の子供たちが隣のレーンを猛スピードで泳ぐ中、環はビート板を持ってバタ足の練習をしていた。
バシャ、バシャ、バシャ……。
(……水の抵抗を減らす。ストリームラインを維持。)
抜かされる。
年下の子供にも抜かされる。
しかし、環は気にしない。
彼女にとって水泳は、競争ではなく「メンテナンス」だ。 血流を良くし、脳に酸素を送り込み、座りっぱなしの研究生活で鈍った体をリセットする。
「はい、桜庭さん、もう少し膝を伸ばしてー!」
「……ラジャ。」
コーチに注意されながら、黙々と往復する。
世界中の病理医を救った天才少女が、ここではただの「泳ぐのが遅い小学生」として、塩素の匂いに包まれている。
(……悪くない。)
水の中は静かだ。
ネットの喧騒も、大人の事情も、株価の変動も関係ない。
ただの小学生の「桜庭環」に戻れる時間。
1時間の練習を終え、程よい疲労感と共に更衣室を出る。
自販機で買ったアイスを舐めながら、帰りのバスを待つ。
これが、天才少女の「人間らしい」月曜日だった。
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【火曜日】
午前8時。
環はランドセルではなく、実用的なショルダーバッグを下げてバス停に立っていた。
火曜日は、学校を「公休(という名の黙認された欠席)」にして、朝から大学病院へ直行する日だ。
バスと電車を乗り継ぎ、片道2時間弱。
車内では、タブレットで『最新ロボット手術ガイドライン』を熟読する。
周囲の乗客は、まさかこの小学生が、これから大学病院で手術ロボットの開発会議に出るとは夢にも思わない。
正午:学食の「カツカレー」
午前中、医学部図書館で文献を漁った後、環は講義を終えた鬼頭教授と合流した。
「おう、環。腹減ったろ。」
「……減った。脳のグルコースが枯渇した。」
二人は大学の学生食堂へ。
白衣の巨漢(鬼頭)と、私服の小学生(環)という組み合わせは、もはや学食の名物風景となっていた。
「おばちゃん! カツカレー大盛り2つ! 領収書は『会議費』で!」
「あいよ、鬼頭先生! お孫さんもいっぱい食べな!」
出されたカツカレーを頬張りながら、二人はディスカッションを始める。
「……で? 今日の午後の『毒島』との合わせはどうなんだ?」
「……座標ズレの修正パッチを当てた。昨日のシミュレーションでは、誤差0.1ミリ以下。」
「よし。毒島の野郎、外科の腕はいいが機械音痴だからな。お前が手綱を握ってやれ。」
午後:レオナルドを超える翼
午後1時。
消化器外科・教授室。
ここに、鬼頭とは腐れ縁の仲である、毒島教授が待っていた。
「神の手」を持つと言われる、外科のトップだ。
「よう、天才少女。……例の『おもちゃ』、調子はどうだ?」
「……おもちゃじゃない。次世代手術支援ロボット『阿修羅』。」
環たちは、大学病院の地下にある「手術シミュレーションセンター」へ向かった。
そこには、アメリカ製の有名な手術ロボット『レオナルド』の隣に、無骨だが洗練された新型機が鎮座していた。
【 プロジェクト・アシュラ 】
•解剖学的地図: 鬼頭教授の知識ベース。血管や神経の走行をARで重ねて表示。
•精密制御: 加賀見教授(工大)の技術。熟練医の手ぶれ補正と、組織の硬さを伝える「ハプティクス(触覚提示)」。
•手技:毒島教授の技術ベース。術式についてアドバイスや感覚のガイドも行う。
•頭脳(AI): 氷室教授(工大)と環のアルゴリズム。1秒後の出血リスクや鉗子の軌道を予測。
「病理診断(静止画)と違って、手術(動画)は難しい。」
環はコンソール(操作席)に座り、呟いた。
「……臓器は柔らかい。鉗子で押すと変形するし、呼吸で動く。……計算量が桁違い。」
しかし、環はそのカオスをねじ伏せつつあった。
◇
「先生! ちょっと触らせてください!」
シミュレーション室には、若手の外科医や研修医たちが列を作っていた。
彼らは『レオナルド』よりも、環が調整した『アシュラ』を使いたがった。
「すげぇ! 『ガイドモード』入れると、切っちゃいけない血管が赤く光る!」
「ゲームのアシスト機能みたいだ! 縫合の針の角度、AIが教えてくれる!」
「これなら、俺でも神の手になれるぞ……!」
毒島教授は、モニターを見ながら唸った。
「……悔しいが、認めざるを得んな。」
「レオナルド特有の『距離感の欠如(触覚がない)』を、加賀見の制御技術が埋め、環のAIが未来予知をする。」
「ベテランの勘を、プログラムで再現しやがった。」
環は、コンソールから降りて、氷室教授(リモート参加)にチャットを送った。
『……レイテンシ(遅延)、まだ0.05秒ある。5G回線の導入を急いで。』
彼女の目は、すでに世界市場での覇権を見ていた。
夕方:帰宅
熱狂のシミュレーションを終え、環は再び2時間かけて帰宅した。
家に帰ると、天才エンジニアの顔を脱ぎ捨て、ただの「文学好きの少女」に戻る。
入浴と夕食を済ませ、環はベッドの上で文庫本を開いた。
最近のブームは、古典文学の最高峰『源氏物語』。
しかし、10歳(小学4年生)という年齢は、この物語を読むにはあまりに微妙な時期だった。
「…………。」
環は、ページをめくる手を止めた。
光源氏が、若紫(のちの紫の上)を「自分好みの女性に育てるために」引き取るシーン。
あるいは、藤壺の宮との不義密通。
(……DNAの保存本能? それにしては、リスク管理が杜撰。)
(……それに、この表現。)
「几帳の陰に、衣擦れの音がして……」
直接的な描写はない。
ないが、行間から溢れ出る湿度の高い男女の情念。
夜這い。
垣間見。
「……ひわい。」
環はボッ!と顔を赤くして、本を閉じた。
医学書で「生殖行為」や「解剖図」は見慣れている。
機能としての性行為は理解している。
しかし、平安文学特有の「雅」というオブラートに包まれた、生々しい性愛の駆け引きは、小学生の環には刺激が強すぎた。
「……平安貴族、暇すぎる。」
「もっと生産的なことにリソースを割くべき。」
環は文句を言いながらも、その「割り切れない人間関係」のドロドロとした面白さが気になり、布団の中で再びページを開いてしまうのだった。
「……光源氏、最低。……でも、文章が美しい。悔しい。」
火曜日の夜は、最先端のロボット工学と、千年前のプレイボーイへの憤りの間で更けていく。
環が「恋」というバグを理解するのは、まだ当分先の話である。
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水曜日。
1限~4限(総合・社会科)。
今日は3・4年生恒例の行事「市内探検(わたしたちの町)」だ。
クラス全員で学校を出て、地域の商店街や公共施設を見て回るフィールドワークである。
「はーい、みんな並んで! ちゃんとメモを取るのよー!」
新任の担任・松本先生が声をかける。
普通の児童なら「お肉屋さんのコロッケ美味しそう」や「公園が広い」といった感想を持つところだが、環の視点は行政コンサルタントのそれだった。
(……この商店街、シャッター率が40%を超えてる。)
(……道路幅が狭く、緊急車両の進入経路が確保されていない。防災上のリスクが高い。)
(……高齢化率に対して、ベンチや休憩スペースの配置が非効率。)
環はメモ帳に、ひたすら「都市再開発案」と「交通流動の最適化プラン」を書き殴っていた。
「桜庭さん、何書いてるの? 凄い勢いだけど。」
「……減災と経済活性化のための、区画整理案。」
「……え? あ、うん、凄いね(思考停止)。」
先生はそっと離れた。環マニュアル第4条「放置の推奨」が発動した瞬間だった。
5限:図書室の聖域
給食(今日はソフト麺)を完食した後、5限目の「道徳」の時間。
環は当然のように教室には戻らず、図書室へ向かった。
マニュアルのおかげで、誰も「ズルい」とは言わない。
静寂の中、環はタブレットを開くのではなく、紙の本を開いた。
昨夜の『源氏物語』の衝撃(平安貴族のエロティシズム)を中和するため、もっとドライな古典を選んでいた。
『徒然草』
「よろずのことは、頼むべからず。(何事も期待してはいけない)」
(……兼好法師、いいこと言う。)
(……世の中への不満、人間関係の煩わしさ、無常観。……思考回路が私に近い。)
環は、鎌倉時代の隠居老人(吉田兼好)の愚痴エッセイに深く共感し、心の平穏を取り戻していた。
6限:合唱(音響工学の実践)
6限目は音楽室での合唱。
曲目は『翼をください』。
これは「集団行動」だが、環は嫌いではなかった。音楽は数学と物理学の結晶だからだ。
「はい、アルトパート、もう少しお腹から声を出して!」
環は、最後列のアルトパートに立っていた。
彼女は「感情を込めて」歌ってはいない。 「周波数」を合わせているのだ。
(……ソプラノの主旋律に対し、完全五度のハーモニーを形成。)
(……隣の女子のピッチが442Hzから少し下がってる。……私が音圧を上げてカバーし、干渉波を消す。)
環の歌声は、不器用ながら周りの音程に惑わされず正確で、周囲の音程のズレを強制的に補正する「チューナー」の役割を少し果たしていた。
「……なんか、桜庭さんの近くで歌うと、上手くハモれる気がする。」
「つられないし、歌いやすいよね。」
クラスメートたちは気づいていないが、それは環による高度な「音響制御(アクティブ・ノイズ・コントロールの逆)」だった。
環にとっても、自分の声帯という生体楽器を制御し、集団の和音を美しく響かせるプロセスは、パズルみたいで楽しかった。
放課後:図書館と「鴨長明」
下校途中。
環は市立図書館に寄り道をした。
カウンターで、読み終えた『源氏物語』を返却する。
「あら、桜庭ちゃん。源氏はもういいの?」
司書さんが尋ねると、環は少し顔をしかめた。
「……光源氏の行動倫理が、生理的に無理だった。」
「あらあら(笑)。」
環は、新たに数冊の本を借りた。
『方丈記』
災害と無常を描いた、日本三大随筆の一つだ。
「……地震、火事、飢饉。……いつの時代も、システムは脆弱。」
「鴨長明のミニマリスト生活(方丈の庵)は、合理的で参考になる。」
ランドセルに渋すぎる古典文学を詰め込み、環は家路についた。
夕方:天才たちとの定例会議
帰宅後、手洗いとうがいを済ませ、自室へ。
ここからは「大人」の時間だ。
環は、高スペックPC(自作)の電源を入れ、暗号化された回線を開いた。
モニターに、東京にいる二人の天才の顔が映し出される。
ロボット工学の加賀見恭平と、情報工学の氷室だ。
『 よう環。学校はどうだった? 』
加賀見がコーヒー片手に尋ねる。
「……市内探検で、都市インフラの老朽化を確認した。……あと、合唱で倍音成分の調整をした。」
『 相変わらず小学生やってねぇな……。 』
『 雑談はそのくらいにして。 』
氷室がメガネを光らせて割り込む。
『 病理AIのバージョン4.2だが、北米のデータセットで少し過学習気味だ。 』
「……人種による細胞形態のバイアスがかかってる。」
環は瞬時に切り替わり、別のモニターにコードを表示した。
「……特徴量抽出のフィルタ層を2つ追加して、人種差を吸収させる。」
「あと、手術ロボ『アシュラ』の触覚フィードバック、外科の毒島先生から『硬すぎる』ってクレームが来てる。」
『 ああ、ゲイン調整か。……0.8掛けで再計算してみる。 』
加賀見がメモを取る。
夕食までの1時間。 鳴和県(10歳)、東京(30代)、東京(40代)。
離れた場所にいる3人の天才が、日本の医療とAIの最先端を、ゲーム感覚でアップデートしていく。
「……じゃあ、今日中にパッチ書いて送る。」
『 頼むわ。無理すんなよ。 』
通信終了。 環はふぅーっと息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




