とある一人病理医の憂鬱
都内の巨大な国際展示場。
国内最大級の医学会総会が開催されていた。
その人混みの中に、背中を丸め、生気のない顔で歩く一人の男がいた。
倉田、42歳。
地方の市民病院に勤務する、病理専門医である。
(……うるさい。眩しい。帰りたい。)
彼は元々、人とのコミュニケーションが苦手な「根暗」だった。
患者と話さなくていい、黙々と標本と向き合えばいい……そんな逃げの姿勢で病理医になった。
だが、現実は地獄だった。
『一人病理医』
病院内に病理医は彼一人。
年間数千件の生検、手術検体の診断。
外科医からは「まだか」と急かされ、内科医からは「診断が曖昧だ」と詰められる。
ダブルチェックをしてくれる先輩も同僚もいない。
自分の診断一つで、患者の胃袋が全摘されるかどうかが決まる。
(……もし見落としたら? もし癌じゃなかったら?)
毎晩、誤診の悪夢にうなされ、胃薬と睡眠導入剤が手放せない。
孤独とプレッシャーで、彼の精神は摩耗しきっていた。
(……専門医更新の単位のためだ。あと1時間の辛抱。)
倉田にとって、学会は「最新知見を得る場」ではない。
高い参加費を払い、偉い教授たちがマウントを取り合うのを見せつけられる「集金システム」に過ぎない。
彼の頭の中は、今夜の予定で埋め尽くされていた。
(……この後、ホテルの近くの『デリバリーヘルス』を呼ぶ。……口コミで評判の『あかりちゃん』を指名する……。)
(……3万円。高いが、これくらいの慰めがないとやってられない……。)
現実逃避しなければ、心が壊れてしまいそうだった。
昼12時。
ランチセミナー(弁当付き講演)の整理券は朝に配布されていたが、やる気がなく遅めに来た倉田は空席のセミナーを選んで、とりあえず弁当を貰い講演というBGMを聞きながらお腹を満たすことにする。
人気の「癌免疫療法」や「iPS細胞」の会場はすでに満席。
「……空いてるのは……ここか。」
『第1会場(大ホール)』
『演題:次世代AI病理診断支援ネットワークの実装と展望』
『共催:帝都メディカル・鳴和県立医科大学・T工大』
(……AI? けっ。どうせ「未来はこうなる(かもね)」っていう夢物語だろ。)
倉田は期待せず、ただ「弁当がタダで食える」という理由だけで、ガラガラの巨大ホールに入った。
入り口で渡されたのは、老舗料亭の高級弁当。
(……帝都メディカル、金持ってるな。)
彼は最後列の隅の暗がりに座り、弁当を開きながら、スマホで風俗サイトの検索を始めた。
「……それでは、デモンストレーションを行います。」
ステージ上のスクリーンに、映像が投影された。
倉田は箸を動かしながら、チラリと画面を見た。
ウィーン……カシャッ。
画面の中で、自動スライサーが病理標本を作り、AIが瞬時に解析する。
『 判定:浸潤性乳管癌(Invasive Ductal Carcinoma) 』
『 核異型度:グレード3 』
『 断端:陽性(Positive) 』
(……は?)
倉田の手が止まった。 箸から卵焼きが落ちる。
「……え、速……。」
壇上の演者(帝都メディカルの開発部長)が、淡々と説明を続ける。
「本システムは、地方の中核病院とデータセンターを専用回線で直結します。」
「先生方は、スキャンされた画像をモニターで確認し、AIの判定(一次スクリーニング)を承認するだけです。」
「迷う症例があれば、センターに常駐する専門医チームに、ワンクリックでコンサルテーション(相談)可能です。」
倉田の脳内で、風俗サイトの画像が吹き飛んだ。
「 迅速診断(術中診断)も、AIが0.5秒でサポートします。 」
「 深夜や休日は、センターのAIと当直医が代行します。先生方は、安心して休暇をお取りください。 」
「…………。」
倉田の視界が歪んだ。
それは、彼が10年間、喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。
「迅速診断」の恐怖。
手術中の患者のお腹が開いたまま、外科医が「まだか!」と怒鳴り込んでくる中、凍結切片を切り、震える手で顕微鏡を覗くあの孤独な時間。
「良性か、悪性か、今すぐ決めろ!」という悪魔の選択。
それが……なくなる? AIが助けてくれる?
分からない時は、誰かに相談していい?
(……俺は、もう一人で怯えなくていいのか?)
「……う、うぐっ……。」
暗い会場の片隅で、倉田は高級弁当の味も分からぬまま、ボロボロと涙をこぼした。
周りの医師たちが「すごい技術だ」「便利そうだ」と軽く話す中、彼だけは命綱を投げ込まれた遭難者のように、スクリーンに縋り付くように見入っていた。
◇
ランチセミナー中のロビー。
そこは、バーゲンセール会場のような騒ぎになっていた。
「おい、聞いたか!? 帝都メディカルのAI!」
「マジだ! 夢物語じゃない、実機が動いてた!」
医師たちが、血相を変えてスマホを握りしめている。
会場内でもほぼ全員が動画撮影をしたり高速でフリックし、SNSやメーリングリストに情報を拡散していた。
『 至急、第1会場へ移動せよ。歴史が変わる瞬間を見逃すな。 』
『 午後の消化器病理のセッションは捨てろ。内海准教授の講演に来い。 』
『 満席になるぞ! 走れ!! 』
弁当のゴミを捨てるのも忘れ、着慣れていないスーツ姿の集団が大移動を始める。
その足音は、まるで地響きのようだった。
◇
午後1時。 本来なら、各分野の権威たちが最新の研究を発表する時間帯。
しかし、第3会場(定員300名)は、異様な光景が広がっていた。
「……えー、本日は、染色液のPH調整による……」
演台に立つ大学教授の前には、座長(司会)の別の大学の教授と、タイムキーパーのアルバイトしかいなかった。
聴衆は、ゼロ。
「……座長。これ、やる意味ありますかね?」
教授が力なく尋ねる。
座長もスマホを見ながら、ソワソワしていた。
「……正直、ありませんね。私もあっち(AI講演)に行きたいです。」
「奇遇ですね。私もです。」
「よし、これで先生の発表は終了しました!質問はありませんね!ご清聴ありがとうございました!!」
教授はPCを閉じ、演台から飛び降りた。
「急ごう! 今なら立ち見で入れるかもしれん!」
「先生、置いてかないでくださいよ!」
彼らは自らの発表を放棄し、ライバルであるはずの内海の会場へと全力疾走した。
この現象は会場各地で発生し、学会プログラムの9割が機能不全に陥るという前代未聞の事態となった。
◇
メインホールである第1会場(定員2000名)。
そこは、すでに酸素が薄くなるほどの人口密度だった。
「詰めろ! 奥にもっと入れるだろ!」
「通路に座るな! 消防法に引っかかるぞ!」
「モニターが見えない! 前の奴、頭を下げろ!」
座席はとうに埋まり、通路、壁際、さらには演台の袖まで人が溢れている。
入りきれなかった医師たちがロビーに溢れ出し、急遽設置された3つのサテライト会場(中継モニター室)も、瞬時に寿司詰め状態となった。
その熱気の中、演壇に立ったのは、かつて「死んだ魚の目」をしていた男、内海准教授だった。
「……えー、ご紹介にあずかりました、鳴和県立医大の内海です。」
内海の声がスピーカーから流れると、2000人の私語がピタリと止んだ。
かつては学会発表など苦痛でしかなかった彼だが、今は違う。
背後には、最強のAI(と、それを操る8歳の怪物)がついている。
「先ほどのランチセミナーでデモを行いましたが……ここでは、その『臨床実績』と『バリデーション(妥当性確認)』のデータを公開します。」
内海がスライドを送る。
•症例数: 15,000件
•AI診断一致率: 99.92%
•見落とし発見率: 熟練医と比較して有意に高い
•診断時間短縮: 平均95%削減
会場から「おおっ……!」というどよめきが起きる。
それは、圧倒的な「暴力」とも言えるデータの奔流だった。
「……我々は、もう顕微鏡にかじりつく必要はありません。」
内海は、会場を見渡して言った。
「AIが下読みをし、我々は最終確認という『責任』だけを負う。」
「空いた時間で、患者と向き合い、新たな研究をし、そして……家族と夕食を食べる。」
「それが、これからの病理医のスタンダードになります。」
講演が終わった瞬間。
質問の手が挙がるよりも先に、雷鳴のような拍手が巻き起こった。
ワァァァァァァッ!!
スタンディングオベーション。
最前列に移動してた、あの一人病理医・倉田が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら手を叩いていた。
多くの医師たちが、過酷な労働環境からの「解放宣言」を聞き、震えていた。
「すごい……これは本物だ……。」
「すぐに導入しよう。いくらだ? 予算なんてどうでもいい!」
「開発者は誰だ? 鳴和県立医大? あんな田舎に、どんな天才がいるんだ!?」
舞台袖で、その様子を見ていた帝都メディカルの神宮寺社長は、ガッツポーズをした。
「(勝った……! これで世界の医療機器市場は、我々の独壇場だ!)」
◇
医大の解剖学教授室。 この騒動の真の黒幕である環は、鬼頭教授と一緒に、オンラインで内海准教授の講演を聞きながら高級仕出し弁当(帝都メディカル提供)を食べていた。
「……おじさん。内海先生、かっこいいね。」
「フン、あいつもようやく『医者の顔』になったな。」
鬼頭はニヤリと笑い、エビフライを齧った。
「さあ、これから忙しくなるぞ。……世界中から注文と見学者が殺到する。お前の静かな図書館ライフも終わりだ。」
「……それは困る。指導料を取って、人数制限する。」
「カカッ! さすが強欲!」
学会の歴史を塗り替えたその日、医学界の重心は、東京から地方の小さな医大へと大きく傾いたのだった。
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内海の講演が終わるや否や、企業展示ブースのエリアは、バーゲンセール会場と化していた。
「押さないでください! カタログは全員分あります!!」
「導入の相談列は最後尾へ! 見積もりはQRコードから!」
帝都メディカルのブース前には、数百人の医師が長蛇の列を作っていた。
ブース裏には、段ボール箱が山のように積まれている。
環による「需要予測シミュレーション」に基づき、通常の10倍のパンフレットとノベルティ(AIロゴ入りUSBメモリ)が用意されていたのだ。
「……すげぇ。」
倉田は、人波に揉まれながらその光景を見ていた。
パンフレットが飛ぶように消えていく。
それは、日本の医療が変わる速度そのものだった。
ふと、倉田は奇妙な光景を目にした。
帝都メディカルの隣にある、競合他社(大手光学機器メーカー)のブースだ。
本来ならライバル関係にあるはずのそのブースの社員たちが、なんと帝都メディカルの列整理を手伝い、パンフレット配りを補助していたのだ。
「……あ、あれ? お前、大日光学の佐藤くんじゃないか?」
倉田は、顔なじみの営業マンに声をかけた。
佐藤は、自社のロゴが入った法被を着たまま、帝都メディカルのパンフレットを配っていた。
その顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「あ、倉田先生。……ええ、手伝ってます。」
佐藤は苦笑いしながら、肩をすくめた。
「……どういうことだ? 商売敵だろ?」
「『完全白旗』ですよ。」 佐藤は、帝都メディカルのブースを親指で指した。
「あんなの見せられたら、勝負になりません。性能差とか価格競争のレベルじゃない。……次元が違う。」
「うちの本社からも連絡がありました。『無理に自社製品を売るな、今は帝都の流れに乗って、コネだけでも作っておけ』って。」
ライバルたちは悟っていたのだ。
これは戦争ではない。
黒船来航による開国だ。
抵抗しても無駄なら、せめて祭りに参加して、業界全体のパイが広がるのを待つしかない。
「……先生も、早く申し込んだ方がいいですよ。これ、世界が変わりますから。」
佐藤は、かつての敵に塩を送るように、帝都のパンフレットを倉田に手渡した。
「……ありがとう。」
倉田は、受け取った分厚いパンフレットを胸に抱いた。
ずっしりと重い。
そこには、AIによる「診断サポート」や「遠隔連携」の詳細なスペックが記されている。
(……これがあれば、俺はもう一人じゃない。)
(……明日から、顕微鏡の前で震えなくていいんだ。)
会場の熱気と、ライバル企業の清々しいまでの敗北宣言が、倉田に現実感を味あわせた。
彼は、震える手でスマホを取り出し、帝都メディカルの予約フォームに「導入希望(至急)」と入力し、送信ボタンを押した。
『 送信完了。担当者よりご連絡いたします。 』
その文字を見た瞬間、倉田の背中に乗っていた10年分の鉛のような重圧が、ふわりと消滅した。
◇
会場を出た倉田は、タクシーに飛び乗った。
行き先は、ビジネスホテルではない。 東京で一番の歓楽街、吉原である。
以前の彼なら、安価なデリバリーヘルスを呼び、薄暗いホテルの部屋で惨めにストレスを処理していただろう。
だが、今の彼は違う。
「……吉原へ。」
「へい、お客さん。景気いいですねぇ!」
タクシーの窓から見えるネオンが、宝石のように輝いて見えた。
倉田は、財布の中身を確認した。
学会費と交通費を除いても、10万円ある。
さらに、これからの業務効率化で得られるであろう自由な時間と、精神的な余裕。
それを思えば、安い投資だ。
店に着いた倉田は、受付で高らかに宣言した。
「……180分、ロングコースで。」
「指名は?」
「一番人気の子を頼む。……今日は、祝杯なんだ。」
個室の浴槽の中で、倉田は担当してくれた美女(源氏名:ルナ)に向かって、上機嫌で語り続けた。
いやらしい話ではない。AIの話だ。
「……でね、ルナちゃん。そのAIがすごいんだよ!」
「ウィーンって動いて、0.1秒で癌を見つけるんだ!」
「へぇ〜、すごいですねぇ〜♡(よく分からないけどニコニコ)」
「俺はね、ずっと怖かったんだ。……でも、もう大丈夫なんだ。」
「俺の診断を、最強のパートナーが支えてくれるんだ!」
倉田は、泡まみれになりながら、子供のように笑い、そして少し泣いた。
風俗嬢のルナは、客が泣き出したことに驚いたが、それが悲しみの涙ではないことに気づき、優しく背中を流した。
「お仕事、頑張ったんですね。……お疲れ様です。」
「……ああ。ありがとう。」
その夜、倉田は心身ともに生まれ変わった。
翌日、彼は誰よりも早く会場入りし、ピカピカの笑顔で内海准教授に握手を求めに行くことになる。
環が作ったシステムは、医療だけでなく、一人の枯れかけた中年男の人生をも、鮮やかに蘇らせたのだった。
「東京で一番の歓楽街」
正確には歌舞伎町ですが、「その目的」だと一番は吉原ですよね。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




