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受け入れられる怪物

11月。

晩秋の風が冷たくなる頃。

環はランドセルを背負い、小学校の教室に座っていた。


「はい、今日の学級会は『お楽しみ会の出し物』についてです。」


出席するのは、朝の会と学活だけ。


授業が始まると同時に「早退」し、午後からは自分の世界へ没入する。

クラスメートも「桜庭さんはそういう人だから」と受け入れており、特別視はするがいじめたりはしない。


環の発言(論理的すぎて議論を一瞬で終わらせる)は、ある種の「便利機能」として重宝されていた。


「……じゃあ、多数決のパラドックスを回避するために、ボルダ方式で投票します。」


「さくらばさん、ありがとう!」


環は淡々と役目を終え、給食(これだけは栄養学的に摂取する価値がある)を食べて下校した。



午後1時。市の図書館。

医学部図書館とは違い、ここは一般市民の憩いの場だ。


環は、文芸評論のコーナーで、宮沢賢治に関する解説本を数冊読み比べていた。


「……おかしい。」



•Aの本:「『銀河鉄道の夜』のカンパネルラは、自己犠牲の精神の象徴である。」


•Bの本:「いや、あれは少年の通過儀礼であり、父親不在のコンプレックスの表れだ。」


•Cの本:「仏教的な『無常観』を童話という形式に落とし込んだ実験作である。」



「……解釈こたえが、バラバラ。」


科学なら、水は100度で沸騰する。

解釈の余地はない。

しかし文学は、読む人の「レンズ」によって、全く違う像を結ぶ。


環は、その「正解のなさ」に眩暈を覚えつつも、同時に自由さを感じていた。



環は、宮沢賢治の詩集『春と修羅』を開いた。



有名な詩、『永訣えいけつの朝』。


結核に倒れた最愛の妹・トシとの死別の場面だ。



(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

薄明の層雲のなかに みぞれはびちょびちょふってゐる (あめゆじゅ とてちて けんじゃ)



妹が、兄に「雪を取ってきて」と頼む。

環の脳内で、つい先日インストールした「呼吸器内科学」と「病理学」の知識が起動した。


(……病名:肺結核。)

(……末期症状。結核菌による肺胞の乾酪壊死。ガス交換効率の著しい低下。)

(……高熱による脱水症状と、呼吸困難による口渇。)


環の脳裏に、教科書の無機質な図版ではなく、リアルな「トシ」の姿が浮かび上がった。


焼けつくような喉の渇き。

水も受け付けないほど衰弱した身体。

酸素が足りず、チアノーゼが出ている指先。


(……医学的に見れば、多臓器不全の直前。回復の見込みはゼロ。)

(……兄も、それを分かっている。)



おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになって おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに



「……っ。」


環の視界が、急に滲んだ。


医学的には、それはただの「末期患者への水分補給」であり、「低体温症を招くリスク行為」だ。

合理性など欠片もない。

けれど、兄は雪を取ってくる。

「天上のアイスクリームになれ」と祈りながら。


(……助からないと分かっていて、それでも何かしてあげたいという、非合理な行動。)


(……これが、『愛』の正体?)


胸が苦しい。


気道が狭窄したように息が詰まる。


論理ロジックでは「死」を受け入れているのに、感情エモーションが「生」を叫んでいる。



「……う、ううっ……。」



環は本に顔を埋めた。


涙が止まらなかった。


肺が腐り落ちていく妹の「肉体の痛み」と、それを看取る兄の「精神の痛み」が、医学知識という回路を通じて、環の心にダイレクトに流れ込んできたのだ。


図書館の静寂の中、天才少女は初めて、数式ではない理由で泣いた。



「……で、泣き腫らした目で帰ったわけか。」


翌日、大学の教授室。


環から事の顛末を聞いた鬼頭は、椅子から転げ落ちんばかりに爆笑していた。


「ブッハハハハハ!! 腹が痛ぇ!!」


「結核の病態生理を考えながら宮沢賢治を読んで、号泣する小学生!? お前くらいだそんな奴は!!」



「……笑わないで。死にそうなくらい辛かった。」



環はむくれながら、温かいココアを飲んだ。


「いや、笑うさ。……嬉しいからな。」


鬼頭は涙を拭い、優しい目で環を見た。


「環。お前は今まで、人間を『壊れやすい機械』だと言ったな。」


「だが、昨日の涙はなんだ? 機械のために泣いたのか?」


「……違う。」


環は、自分の胸に手を当てた。


「……痛かったの。賢治の絶望が、私のここで、シミュレーションされちゃって。」


「それが『共感エンパシー』だ。」


鬼頭は、環の頭をガシガシと撫でた。


「医学知識は、時に残酷な現実を突きつける。だが、その知識があるからこそ、患者の苦しみをより深く理解できることもある。」


「お前は、知識と感情をリンクさせることに成功したんだ。」


「……リンク?」


「ああ。これでお前は、ただの『修理工』から、人間の痛みが分かる『医師』に一歩近づいた。」


「おめでとう。……昨日の涙は、お前の成長痛だ。」


環は、少し照れくさそうに俯いた。


昨日の涙の味は、しょっぱくて、苦くて、でも不思議と温かかった。


「……文学、また読んでみる。」


「おう、読め読め。次は太宰治で『薬物中毒の精神病理』でも分析して泣け。」


「……それは自業自得だから泣かないと思う。」


軽口を叩き合う二人。


環の中で、冷徹な科学と、温かな文学が、少しずつ混ざり合い始めていた。


________________________________________


4月。

3年生に進級した環。

新しい担任になった若い男性教師・佐藤先生は、着任早々、職員室で頭を抱えていた。


「……教頭先生。桜庭さんのことなんですが。」


佐藤先生は、相良教頭のデスクに歩み寄った。


「彼女、図工や学活、給食の時間は楽しそうに参加するんですが、国語と算数の時間になると、必ず『図書室に行きます』と言って教室を出て行くんです。」

「注意しても『時間の浪費です』と返されて……。これ、不登校というか、学級崩壊の引き金になりませんか?」


真面目な佐藤先生にとって、主要教科をボイコットする児童は理解不能だった。


理学部出身の相良教頭は、眼鏡の位置を直し、冷静に告げた。


「佐藤先生。……彼女については、『見て見ぬ振り』をしてください。」


「はあ? しかし、学習指導要領が……!」


「彼女は、すでに義務教育の範疇を超越しています。」


教頭は声を潜めた。


「欧米では『ギフテッド(天賦の才能を持つ者)』と呼ばれる、特殊な児童です。今の日本のシステムでは、彼女を収容する枠組みがない。」


「ギフテッド……ですか?」


「ええ。無理に教室に縛り付ければ、彼女は壊れるか、あるいは学校を破壊(論破)し始めるでしょう。」


「彼女の行動は、私の許可済みとして処理します。あなたの指導力不足として評価することはありません。……だから、自由にさせてあげなさい。」


教頭の絶対的な言葉に、佐藤先生は納得はいかないものの、「は、はあ……」と引き下がるしかなかった。



その日の午後。算数の時間。 相良教頭は、静まり返った図書室を覗いた。

いつもの指定席に、環が座っている。


読んでいるのは、難解な哲学書だ。


「……桜庭さん。退屈していないかね?」


教頭が声をかけると、環は本から目を離し、静かに首を横に振った。


「ううん。……意外と充実してる。」


「学校は、同世代の行動パターン(サンプリングデータ)を収集する場所。……勉強は、別の場所でしてるから。」


「別の場所? 家のパソコンかね?」


「それもあるけど……今は大学に行ってる。」


「大学?」


教頭が眉をひそめると、環は淡々と説明した。


「前は『煌竜進学セミナー』に行ったけど、すぐ追い出された。」


「塾長の手に負えないって。……で、理事長のおじいちゃんが、県立医大の鬼頭教授を紹介してくれた。」


「……煌竜の、理事長? 竜崎さんか?」


教頭の口から、意外な名前が出た。


「知ってるの?」


「ああ。……腐れ縁だよ。」


教頭は、少し懐かしそうな目をした。


地方都市の教育界は狭い。

「学校(公)」と「塾(民)」は、表向きは生徒の時間を奪い合うライバル関係だが、トップ層同士は古くからの知り合いであることが多い。


特に、理詰めな相良と、豪腕な竜崎は、教育方針こそ違えど「優秀な芽を伸ばしたい」という点では共鳴する仲だった。


「そうか……。あの竜崎がサジを投げて、医大に回したか。」

「あいつが手放すなんてよっぽどだ。……相当、暴れたんだな?」


「……別に。センター試験と東大入試問題で満点取っただけ。」


「ハハ……。そりゃあ、塾も商売あがったりだ。」


教頭は苦笑いした。



放課後。

教頭は、職員室の電話(外線)を使った。

携帯ではなく、あえて固定電話を使うのが、彼なりの流儀だった。


『 ……はい、煌竜セミナー本部です。 』


「市立第一小の相良だ。……理事長はいるか?」


しばらくして、受話器の向こうから、あの野太い声が聞こえた。


『 おう、相良ちゃんか。珍しいな、学校の先生が俺に何の用だ? 』


「単刀直入に言うぞ、竜崎。……桜庭環のことだ。」


電話の向こうで、気配が変わったのが分かった。


『 ……ああ。お宅の児童だったな。学校じゃどうだ? 』


「手の施しようがないよ。……規格外すぎる。」


「だが、あんたのおかげで助かった。医大の鬼頭教授に繋いだんだってな?」


『 おうよ。あそこなら、人体と向き合ってりゃ退屈しないだろうと思ってな。 』


「感謝するよ。学校だけじゃ、彼女の知的好奇心を殺してしまうところだった。」


「あんたが『外の世界』への扉を開いてくれたおかげで、我々も彼女を潰さずに済んでいる。」


相良教頭は、深々と頭を下げた(電話相手には見えないが)。

公立学校の限界を知るからこそ、民間の、それも法外なルートを使って環を救い出した竜崎の手腕に敬意を表したのだ。


『 よせやい。俺はただ、面白いもんが見たいだけだ。 』


竜崎は笑った。


『 ……で? 学校ではうまくやってるのか? 』


「ああ。彼女は『不登校』じゃない。……『部分的登校』という新しいスタイルを確立しているよ。」

「我々は、彼女の邪魔をしないことに全力を注ぐことにした。」


『 ハハハ! それが一番だ! 』


「また、一杯やろう。」


『おう。』


ガチャリ。 受話器を置いた相良教頭は、窓の外を見た。


校庭では、環がクラスメートと一緒に、ドッジボールをしている姿が見えた。

ボールの軌道を計算し、最小限の動きで回避しようとしているが、運動音痴な環はボールに当たった挙句の果てにずっこけた。


「……世界は狭いな、桜庭さん。」

「君を守るために、大人たちも裏で色々やってるんだよ。」


相良教頭は、少しだけニヒルに笑うと、書類の山に戻っていった。


環の「平穏な学校生活」は、こうした大人たちの秘密の連携によって支えられていたのである。


________________________________________


初夏。3年生の6月。


梅雨のジメジメした午後。

教室で読書をしていた環は、急激な悪寒と関節の節々の痛みを感じて顔を上げた。


(……警告。体温上昇。視界不良。)


環は自身の額に手を当てた。

熱い。推定38.5度以上。

完全な発熱だ。

昨日の夜、医学書の読みすぎで睡眠不足だったのが祟ったか、あるいは単なる夏風邪か。


(……お母さんはパート中。学校で寝ていても回復効率が悪い。)


(……帰宅し、腋窩わき鼠径部そけいぶをアイシング。電解質輸液を摂取して、REM睡眠を確保するのが最適解。)


環はフラフラと立ち上がり、担任の佐藤先生に「体調不良による早退」を告げた。


「えっ、大丈夫か? お母さんに電話しようか?」


「不要。……一人で帰れる。寝れば治る。」


環はランドセルを背負い、足元をおぼつかせながら廊下に出た。

今の彼女のCPU(脳)は、熱暴走寸前で処理速度が50%以下に低下していた。



昇降口へ向かう途中、保健室の前を通りかかった時だった。 苦悶の声が聞こえた。


「うぅ……い、いたい……っ!」


見ると、5年生の男子児童が、長椅子の上でエビのように丸まり、脂汗を流している。


そばには、4月から赴任したばかりの山下養護教諭(元看護師)が、焦った様子で脈を測っていた。


「だ、大丈夫? お腹痛いの? 変なもの食べた?」


「わかんない……ううっ、吐きそう……!」


山下先生は迷っていた。


(顔色が悪い。冷や汗も酷い。ただの腹痛じゃない……。)


(右下腹部を押さえている……虫垂炎(盲腸)? でも、ここじゃ血液検査もCTも撮れないし……親を呼ぶべき? それとも救急車?)


学校現場では、安易な救急要請は躊躇われる。

もし便秘やガス溜まりだったら、大ごとにしてしまった責任を問われるかもしれない。

元ナースゆえの「確証が欲しい」という職業病が、判断を遅らせていた。



その時。 背後から、熱で潤んだ瞳の環が、幽霊のように現れた。


「……どいて。」


「えっ? 桜庭さん?」


環は山下先生の脇をすり抜け、苦しむ男子児童のそばに立った。

彼女の目は、高熱でトロンとしているが、その焦点は鋭く患部を見据えていた。


「……発症はいつ?」


「え……に、2時間目のあと……。」


「最初はみぞおちが痛くて、だんだん右下に移動した?」


「……う、うん……!」


環は、男の子の右下腹部(マックバーニー点)に、小さな手をそっと置いた。

そして、グッと押し込み、パッ! と素早く離した。


「ぎゃあぁぁぁっ!!」


男の子が激痛でのけぞる。


「……反跳痛(ブルンベルグ徴候)、陽性。」


環は、荒い息を吐きながら、山下先生に向き直った。


「先生。……単なる虫垂炎じゃない。腹膜刺激症状が出てる。」


「えっ……?」


環は、熱で回らない舌を必死に動かし、医学的所見をまくし立てた。


「痛みがお腹全体に波及し始めてる。……穿孔せんこう性腹膜炎の疑いが濃厚。」


「腸雑音(グル音)も減弱してるはず。……今すぐオペが必要。」


「親を待ってたら手遅れになる。……119番。急いで。」


「は、反跳痛……穿孔……!?」


山下先生の脳内で、看護師時代の記憶がフラッシュバックした。

そうだ、この痛み方、この汗、そして反跳痛(押して離すと痛い)。

間違いなく、虫垂が破裂しかけている時のサインだ。


なぜ3年生がそれを知っているのか? そんな疑問を持つ暇はなかった。

環の言葉の重みが、迷いを断ち切った。


「わ、わかった! すぐ呼ぶわ!」


山下先生は受話器を掴み、迷わず119番をプッシュした。



「救急隊、すぐ来るって! 桜庭さん、ありがとう、すご……あれ?」


山下先生が振り返った時、そこにはもう環の姿はなかった。


「……任務完了。」


環は、廊下をゾンビのように歩いていた。 アドレナリンが切れ、再び高熱の波が体を襲う。


(……今の診断で、脳のエネルギーを使い切った。)

(……限界。シャットダウンまで、あと10分……。)


救急車のサイレンが近づいてくる音を背中で聞きながら、環はふらふらと校門を出た。


誰に褒められるためでもない。

ただ、「目の前の病気バグを見過ごせなかった」という医師的エンジニアな条件反射だった。


その後、男子児童は緊急搬送され、やはり虫垂が破裂寸前の危険な状態だったが、緊急手術で一命を取り留めた。


一方、環はなんとか家にたどり着き、冷蔵庫から保冷剤を取り出すと、台所の床で力尽きて眠り込んだ。


夕方、帰宅した裕子が、台所で保冷剤を抱いて転がっている娘を見て「きゃあぁぁっ!?」と悲鳴を上げるまで、彼女の「個人的な緊急事態」は続くのだった。


________________________________________


虫垂炎騒動の翌日。

山下先生は、職員室で相良教頭に詰め寄っていた。


「教頭先生! 桜庭さんのことです! あの医学知識、ただ事じゃありません!」

「いくら本が好きでも、『反跳痛』とか『穿孔』なんて言葉、普通の3年生からは出ませんよ!」


相良教頭は、お茶をすすりながら眼鏡を光らせた。


「……やはり、バレましたか。」


教頭は、環が「ギフテッド」であること、かつては国立大工学部に出入りし、現在は県立医科大学の研究室で学んでいることを明かした。


「い、医大!? しかも県立医大って、私の母校じゃないですか!」


山下先生は仰天した。


「まさか、あそこで研究してるんですか? 8歳で?」


「ええ。……学校の保健室より、大学病院の研究室や図書館の方が落ち着くそうですよ。」


「(なんてこった……)」



翌週、環が元気に登校してきた。

昼休み、環は保健室に呼び出された。


そこには山下先生と、相良教頭が待っていた。


「桜庭さん! 体調はもういいの?」


「……うん。完治した。」


山下先生は、環の手を両手で包み込んだ。


「先週は本当にありがとう。あの子、緊急手術で助かったわ。桜庭さんの的確な判断のおかげよ。」


「……当然のことをしただけ。トリアージは迅速に行うべきだから。」


相良教頭も満足げに頷く。


「君の知識が、実際に人を救ったんだ。誇りに思いなさい。」



和やかな雰囲気の中、山下先生は興味津々で尋ねた。


「ねえ、桜庭さん。私の母校の医大に行ってるんでしょ? どこの先生にお世話になってるの?」

「生理学の先生? それとも公衆衛生?」


環は、保健室の椅子に座り、足をぶらぶらさせながら答えた。



「……解剖学の、鬼頭源五郎教授。」



その名前が出た瞬間。

山下先生の顔から血の気が引き、持っていたバインダーを取り落とした。



ガシャン!



「き、ききき……鬼頭教授ぅぅぅッ!?」



「ひぃぃっ!?」



「……どうしたの?」



山下先生はガタガタと震え出した。


県立医大・看護学科の伝説。


『解剖生理学の鬼』


「看護師だからといって甘えは許さん」と、医学生と同レベルの知識を要求し、毎年の期末試験で9割の学生を再試験地獄(通称:賽の河原)に叩き落とす、恐怖の大魔王。


「あ、あの先生のところに!? 生きて帰ってこれてるの!?」

「私、学生時代にあの先生の試験で3回泣いたのよ!? 未だに夢に出るくらい怖いのよ!?」


環はキョトンとした。


「……おじさん、怖くないよ。ただ声が大きくて、筋肉質なだけ。」


「(おじさん呼ばわり!? あのラスボスを!?)」



山下先生は、信じられないという顔で、自分のデスクから一冊の分厚い本を取り出した。


『系統看護学講座・解剖生理学』


学生時代に使い込んだ、手垢まみれの教科書だ。


「さ、桜庭さん。本当にあの先生についていけてるの……?」

「この本の内容、全部頭に入ってる?」


山下先生は、意地悪ではなく純粋な興味で、教科書をパッと開いた。


「じゃあ……ここ。『循環器系・心臓の刺激伝導系』について。」


環は、教科書を見なかった。

天井のシミを見つめ、脳内のデータベースにアクセスした。



「……洞房結節ペースメーカーで発生した興奮は、心房内を伝わり房室結節へ。」


「……ヒス束、右脚・左脚を通り、プルキンエ線維へと伝導し、心室筋を収縮させる。」


「……伝導速度は、プルキンエ線維で最も速く、約2〜4m/s。」



一字一句、違わぬ暗唱。 それどころか、環は付け加えた。


「……ちなみに、鬼頭教授の講義では、ここに追加で『ギャップ結合のイオン透過性』についての補足が入る。」


「看護の教科書だと記述が浅いから、もっと詳しく書くべきだと、おじさんは怒ってた。」



山下先生は、パタンと教科書を閉じた。

そして、深々と環に頭を下げた。


「……参りました。」

「あなたは、私の大先輩です。」


あの鬼頭教授の講義を、8歳にして完全に咀嚼し、あまつさえ「教科書の記述が浅い」とダメ出しまでしている。 看護師国家試験をギリギリで通った自分とは、住んでいる次元が違った。


「教頭先生……。」


「なんですか、山下先生。」


「この子は、ここにいちゃいけない子です。……いえ、ここにいてくれて、本当に良かった。」


山下先生は、畏敬の念を込めて環を見た。


「桜庭さん、また医学の話、聞かせてね。……あ、でも鬼頭先生のモノマネだけはやめてね。トラウマが蘇るから。」


「……善処する。」


こうして、保健室は環にとって、単なる「サボり場所」から、共通の言語(医学用語)が通じる「学内唯一のオアシス」へと進化した。


山下先生はこれ以降、環が来ると、こっそり大人用のブラックコーヒーを出してくれるようになったという。

モチベーションの維持のため評価だけでも。

できれば感想を頂ければ幸いです。


よろしくお願いいたします。


次回は明日19時ごろ投稿予定です。

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