未知なるバグへの探求
解剖実習での衝撃以来、環の知的好奇心は暴走していた。
鬼頭の教授室にある本だけでは足りない。
もっと最新の、もっと詳細な症例報告が読みたい。
ある日の夕方、環は一人で大学敷地内にある「附属図書館」へと向かった。
「……すみません。入館したいです。」
環は、受付カウンターの女性職員に声をかけた。
「あら? どうしたの、お嬢ちゃん。」
職員は優しく微笑んだ。
「お母さんとはぐれちゃった? ここは患者さんは入っちゃダメなのよ。」
「違う。……私は解剖学の研究論文を探しに来た。」
「『Journal of Anatomy』のバックナンバーと、脳神経外科の術式全集が見たい。」
環は真顔で要求したが、職員は困った顔で首を横に振った。
「ごめんねー。ここはね、お医者さんか医学生しか入れないの。」
「お母さんのところに戻ろうね。……ほら、飴ちゃんあげるから。」
『 アクセス権限がありません。 』
環は、イチゴ味の飴玉を握らされ、優しく外へ連れ出された。
「……屈辱。子供という外見だけで、リクエストが棄却された。」
◇
翌日。教授室。
環はふてくされながら、鬼頭に事の顛末を報告した。
「……というわけで、図書館の受付が突破できない。」
「おじさん、権限付与して。」
鬼頭は、ソファでコーヒーを吹き出しそうになりながら笑った。
「ブハハ! そりゃそうだ。ガキが『解剖ジャーナル読ませろ』って来たら、誰だって迷子だと思うわな。」
「笑い事じゃない。……知識の供給が止まってる。」
環がむくれると、鬼頭は「よしよし」と立ち上がった。
「仕方ねぇ。俺が『鍵』になってやる。」
「ついて来い。……大人の『交渉術』ってやつを見せてやるよ。」
◇
再び、図書館の受付カウンター。
昨日のベテランの女性職員が座っていた。
「あ、昨日の子……。だ・か・ら、ここは遊ぶ場所じゃ……」
「やあ、マダム。お仕事、お疲れ様です。」
その時、環の背後から、低く甘いバリトンボイスが響いた。
鬼頭教授である。
彼は、普段の「野獣のような威圧感」を完全に消し去り、白衣の襟を正し、爽やかな笑顔(※当社比)を浮かべていた。
「き、鬼頭教授!?」
職員が慌てて立ち上がる。医学部の重鎮が現れたのだ。
「いやあ、いつも図書館の管理には感謝していますよ。あなたのおかげで、我々は研究に没頭できる。」
鬼頭はカウンターに手をつき、少し身を乗り出して職員の目を見つめた。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣ではなく、夜の街を知り尽くした「ナンバーワン・ホスト」の輝きを放っていた。
「実はね、この小さなレディは、私の孫で特任研究助手なんです。」
「見た目は愛らしいが、頭脳は私以上でしてね。……どうしても文献が必要だと言うんです。」
「えっ……こ、この子が?」
職員が戸惑うと、鬼頭はさらに畳み掛けた。
「私の顔に免じて、通してあげてくれませんか?」
「……今度、美味しいワインのお礼をしますから。」
鬼頭は、職員の手をそっと握らんばかりの距離感で、ウィンクした。
「は、はいっ! 鬼頭先生のお願いでしたらっ!」
「お孫様で特任助手さんですね! どうぞどうぞ! 特別入館証、すぐに発行しますわ!」
職員の顔は真っ赤になり、乙女のような反応でゲートを開放した。
『 アクセス承認。ウェルカム。 』
環は、ゲートを通過しながら、冷ややかな目で鬼頭を見上げた。
「……おじさん。フェロモンの使い方が汚い。」
「心理的なセキュリティホールを突いた攻撃。」
「うるせぇ。」
鬼頭は元の「熊」の顔に戻り、ニヤリと笑った。
「これも『医学的アプローチ(ホルモン操作)』の一つだ。……使える手札は全部使う。それが大人だ。」
◇
図書館の中は、静まり返っていた。 平日の昼間、医学生たちは講義や臨床実習に追われており、教員も臨床や研究室に籠もっているため、館内はほぼ無人だった。
「じゃあ、俺は会議があるから行くぞ。……夕方までいい子にしてろよ。」
「うん。ありがとう。」
鬼頭が去ると、環は巨大な書架の海に一人残された。
そこは、彼女にとっての天国だった。
環は、自分の背丈よりも高い棚から、分厚い洋書を次々と引き抜いた。
『ネッター解剖学アトラス』 『グレイ解剖学』 『最新・分子細胞生物学』
窓際の席に本を積み上げ、環は読みふけった。
(……人間の脳のシワ。この複雑な折りたたみに、記憶が格納されている。)
(……免疫系。自己と非自己を識別する、完璧なセキュリティシステム。)
静寂の中、ページをめくる音だけが響く。
彼女はこの日、医学という大海原の海図を、また一つ脳内に書き加えたのだった。
こうして、「図書館に住み着く座敷わらし(天才)」の噂が、また一つ増えることになった。
________________________________________
7月。
医学部図書館の静寂の中、キィーッ、コトッ……という小さな音が響く。
それは、環がキャスター付きの踏み台を滑らせ、目的の本棚の前で止まる音だ。
ドサッ。 机の上に置かれたのは、『ハリソン内科学』『ロビンス基礎病理学』といった、広辞苑より分厚く重い洋書たち。
「……よし。今日は内分泌系を攻める。」
環は慣れた手付きでページを開き、高速スキャンを開始した。
周囲には数人の医学生や研修医がいるが、彼らは環を見ても驚かない。
なぜなら、すでに「都合のいい解釈」が出来上がっていたからだ。
◇
「……ねえ、あの子。今日も来てるよ。」
離れた席で、研修医たちがヒソヒソと話している。
「ああ、鬼頭教授のところの?」
「そうそう。噂だと、学校に馴染めなくて不登校気味らしいよ。」
「で、お爺ちゃん(鬼頭教授)が職場に連れてきてるってわけか。」
彼らの認識はこうだ。
『鬼頭教授の孫娘(本当は他人)が、学校をサボって図書館に入り浸り、大好きなお爺ちゃんの真似をして医学書を眺めている』
「健気だよねぇ。あんな難しそうな本、読めるわけないのに。」
「絵を見てるんでしょ。解剖図とか綺麗だし。」
「将来は医者になりたいのかな? 可愛い『お医者さんごっこ』だね。」
彼らは、環がページをめくるスピードを見て、「絵だけ見てパラパラめくっている」と確信していた。
まさかその速度で、英語の論文を読解し、代謝経路の矛盾点にツッコミを入れているとは、夢にも思わない。
◇
ある時、休憩中の若い女性研修医が、環に声をかけた。
「偉いねぇ、お嬢ちゃん。難しい本読んで。」
研修医は、環が広げていた『脳神経外科学』のページ(開頭手術の術野写真)を覗き込んだ。
「うわっ、ちょっとグロテスクだけど、怖くない?」
環は内心で思った。
(……怖くない。むしろ、クリッピング術の手際が見事。血管の確保位置が教科書的で美しい。)
しかし、ここで専門用語を並べれば、せっかくの「静かな環境」が失われる。
環は、とっさに「子供らしい演技」を選択した。
「……うん。ちょっと怖い。……でも、赤いのがいっぱい。」
「あはは、そうよねー。赤いの(血)いっぱいだもんねー。」
研修医はニコニコして、ポケットからチョコレートを取り出した。
「はい、これ食べて元気出しなね。……いつかお爺ちゃんみたいに立派なお医者さんになれるといいね!」
「……ありがとう。」
環はチョコを受け取り、ペコリと頭を下げた。
研修医が去ると、環は即座に真顔に戻り、チョコを口に放り込みながら思考を再開した。
(……糖分補給完了。脳のグルコース濃度を維持。……さて、この動脈瘤のアプローチだが……)
◇
夕方。 鬼頭が図書館に環を迎えに来た。
「おーい、環。帰るぞ。」
その姿を見た図書館の職員や医局員たちが、微笑ましそうに声をかける。
「お疲れ様です、教授! お孫さん、今日も熱心でしたよ!」
「ずっと静かに本を読んでて、偉いですねぇ。」
「将来有望ですね!」
鬼頭は、ニヤリと笑った。
この「孫ごっこ」という勘違いが、環のセキュリティ(正体バレ)を守るのに好都合だと気づいているのだ。
「ああ、ありがとう。……こいつは本当に勉強熱心でね。」
「将来は私を超えるかもしれんよ? ハハハ!」
鬼頭が豪快に笑うと、周囲も「またまたご謙遜を〜」と笑う。 環だけが、冷ややかな目で鬼頭を見上げ、小声で囁いた。
「……おじさん、演技がわざとらしい。」
「うるせぇ。お前もチョコ貰って喜んでたじゃねぇか。」
◇
帰り道。
鬼頭は、環が今日読んでいた本のリストをチェックした。
「……おい。『ハリソン』の第18版か。どこまで読んだ?」
「……甲状腺疾患の章まで。……バセドウ病の治療ガイドライン、5年前のデータと比べて免疫抑制剤の使い方が変わってる。」
「ほう、そこに気づいたか。」
鬼頭は満足そうに頷いた。
「周囲が『ごっこ遊び』だと思っている間に、お前は着実に『本物の知識』を積み上げろ。」
「いつか、その『ごっこ』が現実をひっくり返す時が来る。」
環はリュックを背負い直して頷いた。
「……うん。今はまだ、潜伏期間。」
側から見れば、強面のお爺ちゃんと可愛い孫娘の下校風景。
しかしその会話内容は、医師国家試験の出題傾向と、最新の臨床データの分析だった。
大学病院という閉鎖的な村社会の中で、環は誰にも警戒されることなく、着々と「最強の医師」へのインストールを進めていたのである。
________________________________________
10月。
医学部図書館に通い始めて4ヶ月。
秋の気配が深まる午後、環は鬼頭の教授室で、優雅にアールグレイを啜っていた。
「……で? 一通り医学を学んだ感想は?」
鬼頭がブランデー入りの紅茶を楽しみながら尋ねた。
環は、ソーサーをカチャリと置き、ため息混じりに答えた。
「……やっぱり、非合理的。スパゲッティ・コード(整理されていないプログラム)の塊。」
「免疫系の暴走、盲腸という無駄な遺産、直立歩行による脊椎への負荷……。」
「進化というプロセスは、継ぎ接ぎだらけの『手抜き工事』だと思う。」
環の評価は辛辣だった。 工
学者としての彼女から見れば、人体は設計ミスだらけの欠陥品に過ぎない。
「クックック……手厳しいな。」
鬼頭はニヤリと笑い、環の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、環。お前に一つ実験だ。」
「そんな『欠陥品』である脳を使って、そんな『生意気な思考』を出力している……お前自身の構造はどうなっている?」
「……え?」
「お前は今、他人事のように人間を分析したが、お前もその人間だ。」
「お前のその『意識』は、脳のどこにある? 神経細胞の発火パターンか? それとも量子的なゆらぎか?」
「さあ、その自慢の計算能力で、自分自身を解剖(解析)してみろ。」
それは、AIや哲学における最大の難問。
「観測者は、自分自身を観測できるか?」
というパラドックスだった。
環の目の色が変わり、解析モードに入った。
(……ターゲット:個体名・桜庭環。)
(……ハードウェア解析:身長128cm、体重26kg。健康。)
(……ソフトウェア解析:大脳皮質のシナプス結合、前頭葉の血流……。)
ここまでは順調だった。しかし、その先でエラーが発生した。
(……思考の発生源を検索。)
(……ニューロンの電気信号=「私」? 違う。それは物理現象。)
(……では、この「解析している私」を見ているのは誰?)
エラー:観測者が特定できません。
(……死生観の定義。私は死んだらどうなる? 物質に還元される?)
(……なら、今のこの「感情」はどこへ行く? データ消失? バックアップなし?)
(……怖い? なぜ怖い? 恐怖というシグナルの発生源は偏桃体だが、それを「嫌だ」と感じる主体はどこに……?)
警告:論理矛盾を検出。
警告:処理落ち。無限ループ(Infinite Loop)発生。
脳内のCPU使用率が100%に張り付く。
「私」の中に「私」を探し、さらにその中を……という合わせ鏡の迷宮。 計算不可能な領域。バグだらけのシステム。
(……わからない。計算できない。処理しきれな……)
「……あ、れ……?」
環の視界が歪んだ。
世界がホワイトアウトしていく。
「おい、環?」
プツン。
環の体から力が抜け、糸の切れた人形のように、コクリと前に倒れた。
「おいッ!!」
鬼頭が慌ててカップを置き、倒れてくる環を抱き止めた。
「おい、どうした!? 冗談だろ!?」
環は完全に意識を失っていた。
熱が出ているわけではない。
あまりに深すぎる思考の淵に潜り込みすぎて、脳のブレーカーが落ちたのだ。
文字通りの「フリーズ(思考停止)」だった。
◇
「……ん……。」
しばらくして、環は教授室の革張りソファの上で目を覚ました。
天井のシミが見える。
横では、鬼頭が心配そうに(そして少し面白そうに)顔を覗き込んでいた。
「……気がついたか?」
環は、ゆっくりと体を起こし、頭を振った。
「……再起動完了。メモリクリア。」
「ハハハ! まさか本当に気絶するとはな。」
鬼頭は安堵して笑った。
「どうだ? 『自分』は見つかったか?」
環は、少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、そして……ニカッと笑った。
「……ううん。バグだらけで、クラッシュした。」
「脳科学でも、物理学でも説明できないエラーがいっぱいあった。」
「……ごめんなさい、おじさん。人間のこと、ナメてた。」
環は、自分の手のひらを見つめた。
ただの細胞の塊なのに、なぜか「私」だと感じる不思議な物体。
「……非合理的で、欠陥だらけ。でも……だから、動く。」
「バグがあるから、予測不能な『意識』が生まれる。」
環は、キラキラした目で鬼頭を見た。
「……面白い。」
「ロボットにはない、この『わけのわからなさ』が、人間の機能なんだね。」
鬼頭は満足そうに頷いた。
「そうだ。その『わけのわからなさ』こそが、俺たちが一生をかけて挑む相手だ。」
「どうやら、ようやく本当の入り口に立ったようだな。」
「うん。……もっと知りたい。このバグの正体を。」
論理の極致にいた少女が、論理を超えた「生命の神秘」を受け入れた瞬間だった。
彼女の医学への興味は、単なる「知識収集」から、答えのない「哲学的探究」へと深化した。
「よし、再起動祝いだ! ケーキでも食いに行くか!」
「……ショートケーキ。イチゴ2個乗せで。」
「強欲なバグだな!」
二人の笑い声が、夕暮れの教授室に響いた。
環は、自分が気絶するほど複雑な「人間」という生き物が、少しだけ好きになっていた。
環にとっての最初の『Reboot(再起動)』でした。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




