医療というバグ
5月連休明け。
ゴールデンウィークが明け、環の「大学通い」第2章が幕を開けた。
場所は、県立医科大学。
母・裕子は、環の手を引きながら、ガチガチに緊張していた。
彼女にとって「大学病院」とは、畏怖の対象でしかなかったからだ。
(……ああ、お腹痛い。)
以前、実父の手術でここに来た時の記憶が蘇る。
廊下を歩く医師団の厳格な列。
患者が若手の先生に質問しても、「上の判断を仰がないと……」と萎縮する姿。
そして、回診に来る「教授」と呼ばれる存在の、神のごとき絶対感。
(教授なんて、雲の上のまた上の人よ……。失礼があったら、環が解剖されちゃうんじゃ……!)
裕子の妄想は膨らみ、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
一方、環は「……消毒液の匂い。エタノール濃度が高い」と、相変わらずマイペースに周囲を観察している。
◇
病院棟の裏手にある、赤レンガ造りの「基礎医学研究棟」。
その最上階にある教授室の前に立った時、裕子の心臓は早鐘を打っていた。
『 解剖学第一講座・教授室 鬼頭 源五郎 』
重厚な木の扉。
裕子が震える手でノックすると、中から野太い、しかし落ち着いた声がした。
「どうぞ。」
恐る恐るドアを開ける。
そこには、巨大な男が立っていた。
鬼頭教授(50代後半)。
身長185センチ、体重100キロ超。白衣の上からでも分かる、岩のような筋肉の塊。
柔道かラグビーの選手のような威圧感を持つ男だ。
「ヒッ……!」
裕子が思わず息を呑んだ瞬間、鬼頭は破顔一笑した。
「やあやあ、ようこそ桜庭さん! 待っていましたよ!」
鬼頭は、その巨体を小さく折りたたむようにして近づき、驚くほど丁寧な所作で裕子に椅子を勧めた。
「遠いところをご足労いただき、恐縮です。……さあ、粗茶ですが。」
「あ、ありがとうごじゃいます……!」
鬼頭の物腰は、高級ホテルのコンシェルジュのように洗練されていた。
言葉遣いも丁寧で、威張り散らす様子など微塵もない。
「教授」というよりは、「気さくな大きな熊さん」といった雰囲気だ。
「竜崎から聞いていますよ。環さんは非常に優秀だと。……いやあ、こんな可愛らしいお嬢さんが、未来の医学を背負ってくれるとは、頼もしい限りだ。」
裕子は、すっかり毒気を抜かれてホッとした。
(よかった……。怖い先生じゃなくて、優しい紳士な先生だわ。)
「ではお母様、夕方まで責任を持って私がお預かりします。」
「はい! どうか娘をよろしくお願いいたします!」
裕子は何度も頭を下げ、安堵の表情で部屋を出て行った。
パタン、と重いドアが閉まる。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、鬼頭と環、二人だけが残された。
「…………。」
「…………。」
静寂が支配する。
鬼頭は、ドアの方を向いたまま動かない。
やがて、ゆっくりと振り返った。
その顔からは、先程までの「紳士的な笑み」は完全に消え失せていた。
口角が吊り上がり、瞳孔が収縮し、獲物を前にした「肉食獣」の相貌へと変貌していた。
「……ふん。母親はただの一般人か。」
鬼頭は、白衣のボタンを乱暴に外し、ソファにドカッと座り込んだ。
先程までの丁寧語はどこへやら、ドスの利いた低い声が響く。
「おい、ガキ。」
鬼頭は、環をジロリと睨みつけた。
「竜崎の野郎は『100年に一人の天才』と言っていたが……俺は自分の目しか信じねぇ。」
「ここはロボット遊びの場所じゃねぇぞ? 血と臓器と、腐臭が漂う現場だ。」
鬼頭の体から発せられるプレッシャーは、物理的な質量を伴っているかのようだった。
並の子供なら、いや医大生でも泣き出して逃げるレベルの威圧感。
彼は、環を「子供」として見ていない。
「捕食対象」あるいは「実験動物」としての値踏みをしていた。
「俺を退屈させたら、即刻ホルマリン漬けにしてやる。……覚悟はいいか?」
しかし、環は眉一つ動かさなかった。
彼女は、鬼頭の机の上に置かれた『人体解剖図譜』を勝手に開きながら、淡々と答えた。
「……おじさん、筋肉量が多い。」
「あ?」
環は、鬼頭の分厚い胸板を指差した。
「大胸筋と僧帽筋の発達が著しい。……でも、右肩が少し下がってる。古傷がある?」
「……ほう。」
鬼頭の目が細められた。
「紳士のフリをしてたけど、心拍数が安定してた。……嘘をつき慣れてる。」
環は本を閉じ、鬼頭を真っ直ぐに見上げた。
「私はロボット遊びに来たんじゃない。……生命の設計図を見に来た。」
「ホルマリン漬けにできるものなら、やってみて。……その前に、私がここの知識を全部吸い尽くす。」
鬼頭は数秒間、環を凝視し……そして、獰猛に笑った。
「カカッ! ……いい度胸だ。」
「気に入った。合格だ、クソガキ。」
鬼頭は立ち上がり、白衣を翻した。
「ついて来い。……まずは『ご献体』への挨拶からだ……
………………いや、待てよ。」
彼は環を見下ろした。
身長120センチちょっと。
ピンクのリュックサック。
どう見ても無垢な小学3年生。
いくら天才とはいえ、いきなりホルマリン漬けのご献体と対面させ、メスを握らせるのは、現代社会の倫理規定があまりにも許さない。
「万が一、お前がPTSDで夜泣きでもして、母親にバレたら俺の首が飛ぶ。」
「……夜泣きはしない。」
「うるせぇ。俺のリスク管理の問題だ。」
鬼頭は舌打ちをして、踵を返した。
「実物は、お前が『覚悟』と『知識』を身につけてからだ。……まずは、お前の頭の出来をテストする。」
◇
鬼頭は本棚から大量の書籍を運び出し、デスクの上に積み上げた。
ドサッ、ドサッ、ズドン。
その高さは、環の身長を超えそうだった。
•基礎医学: 解剖学、生理学、生化学、薬理学、病理学……。
•臨床医学: 内科、外科、小児科、産婦人科、精神科……。
•社会医学: 公衆衛生、法医学……。
それは、医学部生が6年かけて学び、最終的に「医師国家試験」で問われる全範囲の教科書と参考書だった。
鬼頭は、国試対策委員も務めているため、最新のガイドラインと資料が全て揃っていた。
「いいか、ガキ。医学ってのは『暗記』だ。」
鬼頭はニヤリと笑った。
「工学のような綺麗な数式じゃねぇ。意味不明なラテン語の名称、例外だらけの症例、複雑怪奇な代謝経路……。この膨大なデータを脳みそに入れなきゃ、スタートラインにも立てねぇんだよ。」
普通の医学生なら、この量を見ただけで吐き気を催す。
しかし、環は目を輝かせて、その「塔」を見上げた。
「……これ全部、人体のソースコード?」
「そうだ。」
「……ごちそう。」
環は一番上の『標準生理学』を手に取り、椅子によじ登った。
そして、いつもの儀式が始まった。
シュパパパパパパッ……!
「……は?」
コーヒーを淹れようとしていた鬼頭の手が止まった。
環の手の動きは、本を読んでいるようには見えなかった。
ページをめくる風圧で、前髪が揺れている。
1ページあたり1秒。
視線はZ型に走るのではなく、見開き全体を「画像」として瞬時に撮影している。
「おいおい、ふざけるな。絵だけ見てるのか?」
「……静かにして。海馬への書き込み中。」
環は手を止めず、呟いた。
「……ナトリウムポンプの能動輸送。ATP分解酵素の構造的欠陥……なんでこんな非効率な設計にしたの? 神様は。」
(……読めてやがる。)
鬼頭は戦慄した。
生理学の核心部分を、一瞬で理解し、あまつさえ「設計ミス」だと批判している。
1冊読み終わるのに、10分とかからなかった。
環は次々と『内科学』『薬理学』へと手を伸ばす。
鬼頭は、面白半分で意地悪な質問を投げかけた。
「おい。交感神経β1受容体を遮断するとどうなる?」
環は、読みかけの『薬理学』から目を離さずに答えた。
「心拍数低下、心収縮力抑制。……副作用として気管支収縮の恐れ。喘息患者には禁忌。」
「……じゃあ、クエン酸回路(TCAサイクル)で生成されるATPの総数は?」
「解糖系を含めて38個。……でも、膜輸送のロスを考慮すると実質30から32個。」
「……クックック。」
鬼頭の喉の奥から、笑いが漏れた。
完璧だ。 単なる丸暗記ではない。
生理学の知識と、薬理学の知識、そして生化学の知識が、彼女の脳内で瞬時にリンク(結合)されている。 現役の医大生でも、ここまで有機的に知識を繋げられる奴は少ない。
夕方になる頃には、デスクの上の「塔」は、すべて環の脳内に移築されていた。
「……ふぅ。大体わかった。」
環は、最後の『公衆衛生学』をパタンと閉じた。
「人間は、絶妙なバランスで動く、欠陥だらけの精密機械。」
「その通りだ。」
鬼頭は、満足そうに頷いた。
目の前にいるのは、ランドセルを背負った少女ではない。
知識量だけで言えば、すでに「医師免許」を取得できるレベルの怪物がそこにいた。
「ハハハハ!! 傑作だ!」
鬼頭は高らかに笑い、環の頭を鷲掴みにして、力が強すぎて環の首が少し縮むくらいガシガシと撫でた。
「……いたい。」
「いいぞ、桜庭環! お前の脳みそは最高だ!」
「これなら、ご献体を見せてもビビることはねぇ。……お前はもう、人間を『物体』として客観視できている。」
「……次は、中身を見せてくれる?」
環が上目遣いで尋ねる。
「ああ、約束しよう。」
鬼頭は、肉食獣の笑みを浮かべた。
「来月の休日、誰もいない解剖室へ連れて行ってやる。……教科書の絵とは違う、本物の『混沌』を教えてやるよ。」
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5月中旬。
環の生活リズムは、完全に「大学生(変則)」のそれになっていた。
週の半分、小学校の授業がつまらない日(ほぼ毎日だが)は、朝からリュックを背負って旅に出る。
1.市営バス(20分): 自宅最寄りのバス停から駅へ。車内で『標準看護学』を読む。
2.ローカル線(50分): ガタンゴトンと揺られながら、県庁所在地の鳴和市へ。車内で『理学療法概論』を読む。
3.大学病院行きバス(30分): 終点の医大病院前で下車。
片道計2時間弱。
往復4時間。
8歳児には過酷な移動だが、環は全く苦にしていなかった。
(……移動時間は、誰にも邪魔されない読書タイム。コスパは悪くない。)
病院の正門をくぐる頃には、彼女の頭の中には新たな分野のデータベースが構築されている。
受付や警備員も、最初は「迷子か?」と不審がっていたが、すぐに「ああ、鬼頭先生のところの『お孫さん(と認識)』か」とスルーするようになった。
◇
教授室に着くと、環はソファに座り、開口一番に言った。
「……おじさん。看護学、読み終わった。」
「ほう。どうだった? ナイチンゲールの精神は理解できたか?」
鬼頭がニヤニヤしながら尋ねると、環はバッサリと切り捨てた。
「……非効率。」
「感情労働の比重が高すぎる。」
環はホワイトボードに、病棟の業務フロー図を書き始めた。
「患者の体位変換、排泄介助、配膳。……これらはすべて重労働で、腰痛リスクが高い。」
「人間がやる必要ある? パワードスーツか、自動搬送システムで代替すべき。」
「『手当て』という精神論で、現場の労働搾取を正当化してるように見える。」
「ブハハハ!!」
鬼頭は膝を叩いて大笑いした。
「言うねぇ! 看護師長が聞いたら卒倒するぞ!」
「それに、記録業務(カルテ記入)のアナログさ。……バイタル測定と同時に自動転送すれば、業務時間の30%は削減できる。」
「違いない。……だがな、患者は『機械』に介護されるのを嫌がるんだよ。」
「……贅沢なバグだ。」
◇
午後は、リハビリテーション医学のだ。
環は、PT(理学療法士)やOT(作業療法士)の教科書を積み上げ、眉間に皺を寄せていた。
「……リハビリも、おかしい。」
「どこがだ?」
「脳卒中後の機能回復訓練。……『頑張って動かしましょう』って、根性論すぎる。」
「神経回路が断線してるのに、末梢を動かして可塑性を期待するのは、確率論的に効率が悪い。」
環は、工学的な視点で断じた。
「もっと早く、BMIを使って、脳から直接筋肉を電気刺激すべき。」
「1万回の手動運動より、10回の正確な電気信号の方が、再学習は早い。」
「今のやり方は、壊れたパソコンを叩いて直そうとしてる昭和のテレビみたい。」
環は、この数日でインプットした「コメディカル(医師以外の医療従事者)」の業務について、冷徹な総括を下した。
「……結論。現在の医療・介護システムは、非効率極まりない経済活動。」
環は、冷めたお茶を飲みながら淡々と言った。
「人件費がかかりすぎている。その割に、治療効果の数値化が曖昧な分野が多い。」
「『QOL(生活の質)』という数値化できない指標を盾に、無駄なコストを垂れ流している。」
「私が病院長なら、スタッフを半分にして、全フロアをオートメーション化する。」
「クックック……アーッハッハッハッ!!」
鬼頭は、腹を抱えて笑い転げていた。
涙が出るほど楽しかった。
「最高だ、お前は最高だよ、環!」
「あてにならない『優しさ』や『心』を徹底的に排除し、数字と効率だけで医療を斬る!」
「その通りだ。お前の言うことは、経済的には100%正しい!」
鬼頭は、環の前に身を乗り出した。
「だがな、環。……人間ってのは、その『無駄』に金を払うんだよ。」
「優しくされたい。話を聞いてほしい。手を握ってほしい。……その非効率なサービスに、莫大な価値が生まれる。」
「……理解不能。」
環が首を傾げる。
「今はそれでいい。」
鬼頭は、満足そうにコーヒーを啜った。
「お前はその『冷徹なメス』を磨いておけ。」
「今の医療界は、情に流されて腐敗している部分もある。お前のようなサイコパス……いや、合理主義者が、いつか必要になる。」
鬼頭にとって、環は最高の劇薬だった。
医学生たちが「患者さんのために!」と目をキラキラさせて語る綺麗事を、8歳の少女が「コストの無駄」と切り捨てる。
その背徳的なまでの切れ味。
「……さあ、そろそろ日が暮れるぞ。また明日も来るのか?」
「うん。……明日は『公衆衛生』と『医療統計』をやる。」 「いいねぇ。国の医療費を削減するプランでも考えてくれよ。」
こうして、鬼頭教授は、環という「小さな怪物」を育てることに、研究以上の生きがいを感じ始めていた。
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6月の日曜日。
人気のない大学キャンパス。
セミの鳴き声が遠く聞こえる中、環は鬼頭に連れられ、解剖実習室の重い扉の前に立っていた。
「……入るぞ。」 鬼頭がIDカードをかざし、ロックを解除する。
プシュー……。
扉が開いた瞬間、強烈な化学薬品の臭気が鼻腔を襲った。
ホルマリン(防腐剤)の匂いだ。
ツンとする刺激臭が、目と鼻を刺す。
「……うっ。」 環は思わず顔をしかめ、手で鼻を覆った。
「……有機溶剤の濃度が、基準値を超えてる。」
「換気はしてるが、染み付いてるんだよ。」
鬼頭は淡々と言った。
「これが『医学』の匂いだ。……慣れろ。」
広大な実習室には、数十台の解剖台が整然と並んでいる。
その上には、白い布で覆われた隆起があった。
鬼頭は、一台の解剖台の前まで歩き、足を止めた。
環もトコトコとついていく。
「環。……この布の下にいるのは、ただの『物体』じゃない。」
鬼頭の声は、いつになく厳粛だった。
「生前、自らの遺体を医学の発展のために捧げると決意してくれた、崇高な志を持つ『ご献体(篤志家)』だ。」
「我々は彼らを『無言の教師』と呼ぶ。……まずは、敬意を表して黙祷だ。」
「……はい。」
環は背筋を伸ばし、鬼頭に倣って手を合わせ、深く頭を下げた。
静寂。
換気扇の回る音だけが響く。
環の中で、「怖い」という感情はなかった。あるのは、未知への敬意と、少しの緊張感だけだった。
黙祷が終わると、鬼頭はゆっくりと白い布をめくった。
そこには、皮膚を剥離され、筋肉と血管が露わになった人体(上肢)があった。
環は、目を大きく見開いた。
グロテスク? 気持ち悪い? いや、違う。
(……情報量が、多すぎる。)
環は、食い入るように覗き込んだ。
すでに脳内には、『解剖学アトラス』の完璧な図版がインストールされている。
彼女は、目の前の「実物」と、脳内の「設計図」を照らし合わせる作業(差分検出)を開始した。
「……おかしい。」
数分後、環が口を開いた。
「どうした?」
「教科書と違う。……上腕二頭筋の停止部、腱の太さが違う。」
「それに、正中神経の走行ルート。……図版では動脈の裏を通るはずなのに、これは表に乗ってる。」
「血管の分岐も、左右で非対称。……これじゃ、標準モデルが適用できない。」
環は、次々と「バグ(仕様との食い違い)」を指摘した。
長掌筋が欠損していること、脂肪組織の癒着が激しいこと、血管が複雑に蛇行していること。
「……この個体、設計ミスだらけ。」
「フッ……。」
鬼頭は、マスクの下で笑みを漏らした。
(恐ろしいガキだ……。)
医学生の多くは、初めて解剖台に立つと、恐怖で震えるか、あるいは教科書通りに見ようとして現実を捻じ曲げて解釈する。
「教科書にはこうあるから、これはそのはずだ」と。
だが、環は違う。
彼女は「教科書(平均値)」を完全に理解した上で、目の前の「個体差」を正確に指摘している。
それは、何年も経験を続けてきた研究者や臨床医だけが到達する領域だ。
「環、それが『個性』だ。」
鬼頭は静かに言った。
「教科書に載っているのは、何万人ものデータを平均化した『理想の人体』に過ぎない。」
「だが、現実は違う。血管一本、神経一本、誰ひとりとして同じ人間はいない。」
「俺たちは工場製品じゃない。……だから、手術は難しいんだ。」
夕方。
西日が実習室の窓から差し込む頃、環はまだ解剖台の横に張り付いていた。
彼女は、ご献体の指先にある、小さな古傷の跡を見つめていた。
(……この傷は、治癒の痕跡。生きていた証拠。)
(筋肉のつき方から見て、右手をよく使う仕事をしていた?)
(肺の黒ずみ……喫煙歴か、工場の排煙か。)
環は、今まで「人体=非効率な機械」だと思っていた。
しかし、ここにあるのは、数式や合理性だけでは説明がつかない、積み重ねられた時間の塊だった。
「……おじさん。」
「ん?」
「……人間は、カオス(混沌)だね。」
「フラクタル構造みたいに、どこまで拡大しても複雑で、予測不能。」
環は、布を丁寧に戻し、再び手を合わせた。
「……ロボットなら、設計図通りに作れる。でも、人間は勝手に分岐して、勝手に修復して、違う形になる。」
「……計算できない。」
その言葉には、いつもの冷徹な響きとは違う、ある種の「畏敬の念」が混じっていた。
「そうだ。だから面白いんだろう?」
鬼頭は、環の肩に大きな手を置いた。
「計算できないからこそ、俺たちはメスを握り、顕微鏡を覗き、必死になって『生』を理解しようとする。」
「どうだ? ……ロボットよりも、手強い相手だろう?」
環は、コクリと頷いた。
「……うん。すごく、難しい。」
「でも……解いてみたい。」
その日、環は「合理性の限界」を知った。
そして同時に、計算できないからこそ愛おしい「生命科学」という底なし沼に、頭のてっぺんまで浸かったのだった。
帰り道、鼻に残るホルマリンの匂いは、もう不快ではなかった。
それは、彼女にとって「探究」の香りになっていた。
モチベーションの維持のため評価だけでも。
できれば感想を頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
次回は明日19時ごろ投稿予定です。




