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医療というバグ

5月連休明け。

ゴールデンウィークが明け、環の「大学通い」第2章が幕を開けた。


場所は、県立医科大学。


母・裕子は、環の手を引きながら、ガチガチに緊張していた。

彼女にとって「大学病院」とは、畏怖の対象でしかなかったからだ。


(……ああ、お腹痛い。)


以前、実父の手術でここに来た時の記憶が蘇る。


廊下を歩く医師団の厳格な列。

患者が若手の先生に質問しても、「上の判断を仰がないと……」と萎縮する姿。

そして、回診に来る「教授」と呼ばれる存在の、神のごとき絶対感。


(教授なんて、雲の上のまた上の人よ……。失礼があったら、環が解剖されちゃうんじゃ……!)


裕子の妄想は膨らみ、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。


一方、環は「……消毒液の匂い。エタノール濃度が高い」と、相変わらずマイペースに周囲を観察している。



病院棟の裏手にある、赤レンガ造りの「基礎医学研究棟」。

その最上階にある教授室の前に立った時、裕子の心臓は早鐘を打っていた。



『 解剖学第一講座・教授室 鬼頭 源五郎 』



重厚な木の扉。

裕子が震える手でノックすると、中から野太い、しかし落ち着いた声がした。


「どうぞ。」


恐る恐るドアを開ける。

そこには、巨大な男が立っていた。


鬼頭きとう教授(50代後半)。

身長185センチ、体重100キロ超。白衣の上からでも分かる、岩のような筋肉の塊。

柔道かラグビーの選手のような威圧感を持つ男だ。


「ヒッ……!」


裕子が思わず息を呑んだ瞬間、鬼頭は破顔一笑した。


「やあやあ、ようこそ桜庭さん! 待っていましたよ!」


鬼頭は、その巨体を小さく折りたたむようにして近づき、驚くほど丁寧な所作で裕子に椅子を勧めた。


「遠いところをご足労いただき、恐縮です。……さあ、粗茶ですが。」


「あ、ありがとうごじゃいます……!」


鬼頭の物腰は、高級ホテルのコンシェルジュのように洗練されていた。

言葉遣いも丁寧で、威張り散らす様子など微塵もない。

「教授」というよりは、「気さくな大きな熊さん」といった雰囲気だ。


「竜崎から聞いていますよ。環さんは非常に優秀だと。……いやあ、こんな可愛らしいお嬢さんが、未来の医学を背負ってくれるとは、頼もしい限りだ。」


裕子は、すっかり毒気を抜かれてホッとした。


(よかった……。怖い先生じゃなくて、優しい紳士な先生だわ。)


「ではお母様、夕方まで責任を持って私がお預かりします。」


「はい! どうか娘をよろしくお願いいたします!」


裕子は何度も頭を下げ、安堵の表情で部屋を出て行った。


パタン、と重いドアが閉まる。

足音が遠ざかっていく。


部屋には、鬼頭と環、二人だけが残された。


「…………。」


「…………。」


静寂が支配する。


鬼頭は、ドアの方を向いたまま動かない。

やがて、ゆっくりと振り返った。


その顔からは、先程までの「紳士的な笑み」は完全に消え失せていた。

口角が吊り上がり、瞳孔が収縮し、獲物を前にした「肉食獣」の相貌へと変貌していた。


「……ふん。母親はただの一般人か。」


鬼頭は、白衣のボタンを乱暴に外し、ソファにドカッと座り込んだ。

先程までの丁寧語はどこへやら、ドスの利いた低い声が響く。


「おい、ガキ。」


鬼頭は、環をジロリと睨みつけた。


「竜崎の野郎は『100年に一人の天才』と言っていたが……俺は自分の目しか信じねぇ。」


「ここはロボット遊びの場所じゃねぇぞ? 血と臓器と、腐臭が漂う現場だ。」


鬼頭の体から発せられるプレッシャーは、物理的な質量を伴っているかのようだった。


並の子供なら、いや医大生でも泣き出して逃げるレベルの威圧感。

彼は、環を「子供」として見ていない。

「捕食対象」あるいは「実験動物」としての値踏みをしていた。


「俺を退屈させたら、即刻ホルマリン漬けにしてやる。……覚悟はいいか?」


しかし、環は眉一つ動かさなかった。

彼女は、鬼頭の机の上に置かれた『人体解剖図譜』を勝手に開きながら、淡々と答えた。


「……おじさん、筋肉量が多い。」


「あ?」


環は、鬼頭の分厚い胸板を指差した。


「大胸筋と僧帽筋の発達が著しい。……でも、右肩が少し下がってる。古傷がある?」


「……ほう。」


鬼頭の目が細められた。


「紳士のフリをしてたけど、心拍数が安定してた。……嘘をつき慣れてる。」


環は本を閉じ、鬼頭を真っ直ぐに見上げた。


「私はロボット遊びに来たんじゃない。……生命あなたたちの設計図を見に来た。」


「ホルマリン漬けにできるものなら、やってみて。……その前に、私がここの知識を全部吸い尽くす。」


鬼頭は数秒間、環を凝視し……そして、獰猛に笑った。


「カカッ! ……いい度胸だ。」


「気に入った。合格だ、クソガキ。」


鬼頭は立ち上がり、白衣を翻した。


「ついて来い。……まずは『ご献体』への挨拶からだ……

 

 ………………いや、待てよ。」


彼は環を見下ろした。


身長120センチちょっと。

ピンクのリュックサック。

どう見ても無垢な小学3年生。


いくら天才とはいえ、いきなりホルマリン漬けのご献体と対面させ、メスを握らせるのは、現代社会の倫理規定コンプライアンスがあまりにも許さない。


「万が一、お前がPTSDで夜泣きでもして、母親にバレたら俺の首が飛ぶ。」


「……夜泣きはしない。」


「うるせぇ。俺のリスク管理の問題だ。」


鬼頭は舌打ちをして、踵を返した。


「実物は、お前が『覚悟』と『知識』を身につけてからだ。……まずは、お前の頭の出来をテストする。」



鬼頭は本棚から大量の書籍を運び出し、デスクの上に積み上げた。


ドサッ、ドサッ、ズドン。


その高さは、環の身長を超えそうだった。


•基礎医学: 解剖学、生理学、生化学、薬理学、病理学……。

•臨床医学: 内科、外科、小児科、産婦人科、精神科……。

•社会医学: 公衆衛生、法医学……。


それは、医学部生が6年かけて学び、最終的に「医師国家試験」で問われる全範囲の教科書と参考書だった。

鬼頭は、国試対策委員も務めているため、最新のガイドラインと資料が全て揃っていた。


「いいか、ガキ。医学ってのは『暗記』だ。」


鬼頭はニヤリと笑った。


「工学のような綺麗な数式じゃねぇ。意味不明なラテン語の名称、例外だらけの症例、複雑怪奇な代謝経路……。この膨大なデータを脳みそに入れなきゃ、スタートラインにも立てねぇんだよ。」


普通の医学生なら、この量を見ただけで吐き気を催す。

しかし、環は目を輝かせて、その「塔」を見上げた。


「……これ全部、人体のソースコード?」


「そうだ。」



「……ごちそう。」



環は一番上の『標準生理学』を手に取り、椅子によじ登った。


そして、いつもの儀式が始まった。



シュパパパパパパッ……!



「……は?」

コーヒーを淹れようとしていた鬼頭の手が止まった。


環の手の動きは、本を読んでいるようには見えなかった。

ページをめくる風圧で、前髪が揺れている。


1ページあたり1秒。


視線はZ型に走るのではなく、見開き全体を「画像」として瞬時に撮影キャプチャしている。


「おいおい、ふざけるな。絵だけ見てるのか?」


「……静かにして。海馬への書き込み中。」


環は手を止めず、呟いた。


「……ナトリウムポンプの能動輸送。ATP分解酵素の構造的欠陥……なんでこんな非効率な設計にしたの? 神様は。」


(……読めてやがる。)

鬼頭は戦慄した。


生理学の核心部分を、一瞬で理解し、あまつさえ「設計ミス」だと批判している。



1冊読み終わるのに、10分とかからなかった。

環は次々と『内科学』『薬理学』へと手を伸ばす。


鬼頭は、面白半分で意地悪な質問を投げかけた。


「おい。交感神経β1受容体を遮断するとどうなる?」


環は、読みかけの『薬理学』から目を離さずに答えた。


「心拍数低下、心収縮力抑制。……副作用として気管支収縮の恐れ。喘息患者には禁忌。」


「……じゃあ、クエン酸回路(TCAサイクル)で生成されるATPの総数は?」


「解糖系を含めて38個。……でも、膜輸送のロスを考慮すると実質30から32個。」


「……クックック。」


鬼頭の喉の奥から、笑いが漏れた。

完璧だ。 単なる丸暗記ではない。


生理学の知識と、薬理学の知識、そして生化学の知識が、彼女の脳内で瞬時にリンク(結合)されている。 現役の医大生でも、ここまで有機的に知識を繋げられる奴は少ない。



夕方になる頃には、デスクの上の「塔」は、すべて環の脳内に移築されていた。


「……ふぅ。大体わかった。」


環は、最後の『公衆衛生学』をパタンと閉じた。


「人間は、絶妙なバランスで動く、欠陥だらけの精密機械。」


「その通りだ。」


鬼頭は、満足そうに頷いた。


目の前にいるのは、ランドセルを背負った少女ではない。

知識量だけで言えば、すでに「医師免許」を取得できるレベルの怪物がそこにいた。


「ハハハハ!! 傑作だ!」


鬼頭は高らかに笑い、環の頭を鷲掴みにして、力が強すぎて環の首が少し縮むくらいガシガシと撫でた。


「……いたい。」


「いいぞ、桜庭環! お前の脳みそは最高だ!」

「これなら、ご献体を見せてもビビることはねぇ。……お前はもう、人間を『物体』として客観視できている。」


「……次は、中身を見せてくれる?」


環が上目遣いで尋ねる。


「ああ、約束しよう。」


鬼頭は、肉食獣の笑みを浮かべた。


「来月の休日、誰もいない解剖室へ連れて行ってやる。……教科書の絵とは違う、本物の『混沌カオス』を教えてやるよ。」


________________________________________


5月中旬。


環の生活リズムは、完全に「大学生(変則)」のそれになっていた。


週の半分、小学校の授業がつまらない日(ほぼ毎日だが)は、朝からリュックを背負って旅に出る。



1.市営バス(20分): 自宅最寄りのバス停から駅へ。車内で『標準看護学』を読む。


2.ローカル線(50分): ガタンゴトンと揺られながら、県庁所在地の鳴和市へ。車内で『理学療法概論』を読む。


3.大学病院行きバス(30分): 終点の医大病院前で下車。


片道計2時間弱。

往復4時間。


8歳児には過酷な移動だが、環は全く苦にしていなかった。


(……移動時間は、誰にも邪魔されない読書タイム。コスパは悪くない。)


病院の正門をくぐる頃には、彼女の頭の中には新たな分野のデータベースが構築されている。

受付や警備員も、最初は「迷子か?」と不審がっていたが、すぐに「ああ、鬼頭先生のところの『お孫さん(と認識)』か」とスルーするようになった。



教授室に着くと、環はソファに座り、開口一番に言った。


「……おじさん。看護学、読み終わった。」


「ほう。どうだった? ナイチンゲールの精神は理解できたか?」


鬼頭がニヤニヤしながら尋ねると、環はバッサリと切り捨てた。


「……非効率。」


感情労働エモーショナル・ワークの比重が高すぎる。」


環はホワイトボードに、病棟の業務フロー図を書き始めた。


「患者の体位変換、排泄介助、配膳。……これらはすべて重労働で、腰痛リスクが高い。」


「人間がやる必要ある? パワードスーツか、自動搬送システムで代替すべき。」


「『手当て』という精神論で、現場の労働搾取を正当化してるように見える。」


「ブハハハ!!」


鬼頭は膝を叩いて大笑いした。


「言うねぇ! 看護師長が聞いたら卒倒するぞ!」


「それに、記録業務(カルテ記入)のアナログさ。……バイタル測定と同時に自動転送すれば、業務時間の30%は削減できる。」


「違いない。……だがな、患者は『機械』に介護されるのを嫌がるんだよ。」


「……贅沢なバグだ。」



午後は、リハビリテーション医学のだ。


環は、PT(理学療法士)やOT(作業療法士)の教科書を積み上げ、眉間に皺を寄せていた。


「……リハビリも、おかしい。」


「どこがだ?」


「脳卒中後の機能回復訓練。……『頑張って動かしましょう』って、根性論すぎる。」


「神経回路が断線してるのに、末梢を動かして可塑性を期待するのは、確率論的に効率が悪い。」


環は、工学的な視点で断じた。


「もっと早く、BMIブレイン・マシン・インターフェースを使って、脳から直接筋肉を電気刺激すべき。」


「1万回の手動運動より、10回の正確な電気信号の方が、再学習は早い。」


「今のやり方は、壊れたパソコンを叩いて直そうとしてる昭和のテレビみたい。」


環は、この数日でインプットした「コメディカル(医師以外の医療従事者)」の業務について、冷徹な総括を下した。


「……結論。現在の医療・介護システムは、非効率極まりない経済活動。」


環は、冷めたお茶を飲みながら淡々と言った。


「人件費がかかりすぎている。その割に、治療効果の数値化エビデンスが曖昧な分野が多い。」


「『QOL(生活の質)』という数値化できない指標を盾に、無駄なコストを垂れ流している。」


「私が病院長なら、スタッフを半分にして、全フロアをオートメーション化する。」



「クックック……アーッハッハッハッ!!」



鬼頭は、腹を抱えて笑い転げていた。

涙が出るほど楽しかった。


「最高だ、お前は最高だよ、環!」


「あてにならない『優しさ』や『心』を徹底的に排除し、数字と効率だけで医療を斬る!」


「その通りだ。お前の言うことは、経済的には100%正しい!」


鬼頭は、環の前に身を乗り出した。


「だがな、環。……人間ってのは、その『無駄』に金を払うんだよ。」


「優しくされたい。話を聞いてほしい。手を握ってほしい。……その非効率なサービスに、莫大な価値が生まれる。」


「……理解不能。」


環が首を傾げる。


「今はそれでいい。」


鬼頭は、満足そうにコーヒーを啜った。


「お前はその『冷徹なメス』を磨いておけ。」

「今の医療界は、情に流されて腐敗している部分もある。お前のようなサイコパス……いや、合理主義者が、いつか必要になる。」


鬼頭にとって、環は最高の劇薬だった。


医学生たちが「患者さんのために!」と目をキラキラさせて語る綺麗事を、8歳の少女が「コストの無駄」と切り捨てる。

その背徳的なまでの切れ味。


「……さあ、そろそろ日が暮れるぞ。また明日も来るのか?」


「うん。……明日は『公衆衛生』と『医療統計』をやる。」 「いいねぇ。国の医療費を削減するプランでも考えてくれよ。」


こうして、鬼頭教授は、環という「小さな怪物」を育てることに、研究以上の生きがいを感じ始めていた。


________________________________________


6月の日曜日。

人気のない大学キャンパス。


セミの鳴き声が遠く聞こえる中、環は鬼頭に連れられ、解剖実習室の重い扉の前に立っていた。


「……入るぞ。」 鬼頭がIDカードをかざし、ロックを解除する。



プシュー……。



扉が開いた瞬間、強烈な化学薬品の臭気が鼻腔を襲った。

ホルマリン(防腐剤)の匂いだ。

ツンとする刺激臭が、目と鼻を刺す。


「……うっ。」 環は思わず顔をしかめ、手で鼻を覆った。

「……有機溶剤の濃度が、基準値を超えてる。」


「換気はしてるが、染み付いてるんだよ。」

鬼頭は淡々と言った。

「これが『医学』の匂いだ。……慣れろ。」


広大な実習室には、数十台の解剖台が整然と並んでいる。

その上には、白い布で覆われた隆起があった。


鬼頭は、一台の解剖台の前まで歩き、足を止めた。

環もトコトコとついていく。


「環。……この布の下にいるのは、ただの『物体』じゃない。」


鬼頭の声は、いつになく厳粛だった。


「生前、自らの遺体を医学の発展のために捧げると決意してくれた、崇高な志を持つ『ご献体(篤志家)』だ。」


「我々は彼らを『無言の教師』と呼ぶ。……まずは、敬意を表して黙祷だ。」


「……はい。」


環は背筋を伸ばし、鬼頭に倣って手を合わせ、深く頭を下げた。


静寂。


換気扇の回る音だけが響く。

環の中で、「怖い」という感情はなかった。あるのは、未知への敬意と、少しの緊張感だけだった。


黙祷が終わると、鬼頭はゆっくりと白い布をめくった。

そこには、皮膚を剥離され、筋肉と血管が露わになった人体(上肢)があった。


環は、目を大きく見開いた。

グロテスク? 気持ち悪い? いや、違う。


(……情報量が、多すぎる。)


環は、食い入るように覗き込んだ。

すでに脳内には、『解剖学アトラス』の完璧な図版がインストールされている。

彼女は、目の前の「実物」と、脳内の「設計図」を照らし合わせる作業(差分検出)を開始した。


「……おかしい。」


数分後、環が口を開いた。


「どうした?」


「教科書と違う。……上腕二頭筋の停止部、腱の太さが違う。」


「それに、正中神経の走行ルート。……図版では動脈の裏を通るはずなのに、これは表に乗ってる。」


「血管の分岐も、左右で非対称。……これじゃ、標準モデルが適用できない。」


環は、次々と「バグ(仕様との食い違い)」を指摘した。


長掌筋ちょうしょうきんが欠損していること、脂肪組織の癒着が激しいこと、血管が複雑に蛇行していること。


「……この個体、設計ミスだらけ。」


「フッ……。」


鬼頭は、マスクの下で笑みを漏らした。


(恐ろしいガキだ……。)


医学生の多くは、初めて解剖台に立つと、恐怖で震えるか、あるいは教科書通りに見ようとして現実を捻じ曲げて解釈する。


「教科書にはこうあるから、これはそのはずだ」と。


だが、環は違う。

彼女は「教科書(平均値)」を完全に理解した上で、目の前の「個体差バリエーション」を正確に指摘している。


それは、何年も経験を続けてきた研究者や臨床医だけが到達する領域だ。


「環、それが『個性』だ。」


鬼頭は静かに言った。


「教科書に載っているのは、何万人ものデータを平均化した『理想の人体』に過ぎない。」

「だが、現実は違う。血管一本、神経一本、誰ひとりとして同じ人間はいない。」

「俺たちは工場製品じゃない。……だから、手術は難しいんだ。」


夕方。

西日が実習室の窓から差し込む頃、環はまだ解剖台の横に張り付いていた。


彼女は、ご献体の指先にある、小さな古傷の跡を見つめていた。


(……この傷は、治癒の痕跡。生きていた証拠。)


(筋肉のつき方から見て、右手をよく使う仕事をしていた?)


(肺の黒ずみ……喫煙歴か、工場の排煙か。)


環は、今まで「人体=非効率な機械」だと思っていた。

しかし、ここにあるのは、数式や合理性だけでは説明がつかない、積み重ねられた時間の塊だった。


「……おじさん。」


「ん?」


「……人間は、カオス(混沌)だね。」


「フラクタル構造みたいに、どこまで拡大しても複雑で、予測不能。」


環は、布を丁寧に戻し、再び手を合わせた。


「……ロボットなら、設計図通りに作れる。でも、人間は勝手に分岐して、勝手に修復して、違う形になる。」


「……計算できない。」


その言葉には、いつもの冷徹な響きとは違う、ある種の「畏敬の念」が混じっていた。


「そうだ。だから面白いんだろう?」


鬼頭は、環の肩に大きな手を置いた。


「計算できないからこそ、俺たちはメスを握り、顕微鏡を覗き、必死になって『生』を理解しようとする。」


「どうだ? ……ロボットよりも、手強い相手だろう?」


環は、コクリと頷いた。


「……うん。すごく、難しい。」


「でも……解いてみたい。」


その日、環は「合理性の限界」を知った。


そして同時に、計算できないからこそ愛おしい「生命科学」という底なし沼に、頭のてっぺんまで浸かったのだった。

帰り道、鼻に残るホルマリンの匂いは、もう不快ではなかった。

それは、彼女にとって「探究」の香りになっていた。

モチベーションの維持のため評価だけでも。

できれば感想を頂ければ幸いです。


よろしくお願いいたします。


次回は明日19時ごろ投稿予定です。

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