育てやすい?「不思議ちゃん」
世の中では、人々はまだガラケー(という言葉もまだ無い)のボタンをポチポチと押してメールを送っていた時代。
地方都市・鳴和県長閑市。
新興住宅地に建つ、35年ローンの小さな建売住宅。
ここに、いたって平凡な三人家族が住んでいた。
父:桜庭 博
中堅商社の地方営業所に勤める、真面目が取り柄のサラリーマン。
母:桜庭 裕子
スーパーのレジ打ちパートをしている、明るく現実的な妻。
そして、この平凡な夫婦の間に生まれた、最初で最後の一人娘。
それが、後の日本の救世主であり最強総理や国母と称えられたり。
「たまちゃん」の愛称で親しまれたり、「魔王」と野党議員や記者から恐れられたりした存在。
葛城 環
――当時はまだ、ただの「桜庭 環ちゃん(0歳)」であった。
◇
「……おい、裕子。また環がやってるぞ。」
仕事から帰った博は、ベビーベッドを覗き込んで苦笑した。
生後3ヶ月の環は、泣きもせず、天井から吊るしたメリー(くるくる回るおもちゃ)を凝視していた。
普通の赤ちゃんは、もっと視線が定まらず、ぼんやりとしているものだ。
しかし、環の目は違った。
黒目がちな瞳が、メリーの回転に合わせて、カッ、カッ、カッと鋭く動いている。
「なんというか……『見ている』というより、『検査』してるみたいなんだよな。」
博が指を目の前で振ると、環の瞳は即座に指を追尾する。
そして、プイッと興味なさげに視線を外し、また部屋の四隅や、エアコンのランプなどをキョロキョロと見回し始めた。
「好奇心が旺盛なのよ。将来は学者さんかしらね?」
台所から裕子の能天気な声が聞こえる。
博は娘の頬をつついた。
(……学者、か。俺たちの子だから、精々が公務員くらいだろうけど。)
父は知らなかった。
彼女が今、その脳内で凄まじい速度でシナプスを結合させ、空間認識能力と物理法則の基礎データを収集していることを。
◇
環のもう一つの特徴は、「止まらない」ことだった。
起きている間中、手足をバタバタと動かし続けている。
それも、不機嫌で暴れているわけではない。
真顔で、右手を突き出し、引き戻す。 左足を蹴り出し、角度を変えてまた蹴る。
シュッシュッ。
空気を切る音が聞こえそうなほど、リズミカルで規則正しい運動。
「元気なのはいいけど、疲れないのかね?」
休日の昼下がり、博は娘の横で寝転がりながら呟いた。
「自分のお手々とあんよが、どう動くか確かめてるのよ。」
裕子が洗濯物を畳みながら言う。
博には、それがまるでロボットが「駆動系の初期設定」を行っているように見えた。
自分の肉体というハードウェアの性能限界を、0歳児なりにテストしているような、妙な切迫感。
(……まあ、夜泣きされるよりはずっといいか。)
◇
そして、博が最も不思議に、そしてありがたく思っているのが、彼女の「睡眠システム」だった。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」(翻訳:燃料切れです。補給を要求します)
空腹時だけは、人並みに泣く。
裕子が抱き上げ、授乳を始める。
ゴクゴクゴク……。
勢いよくミルクを飲み干す環。
そして、飲み終わってゲップをさせた、その瞬間。
スンッ。
糸が切れたように、環の首がカクンと落ち、瞼が閉じる。
0.1秒前まで開いていた目が、完全に閉じている。
呼吸はすでに、スースーという寝息に変わっている。
「……毎回思うけど、スイッチでも付いてるのか?」
博は目を丸くした。
「寝つきが良くて助かるわー。背中トントンしなくても、満タンになったら勝手に寝るんだもの。」
裕子は楽観的に笑い、娘をベビーベッドに降ろした。
置いても起きない(背中スイッチが存在しない)。
泣いてエネルギーを浪費することなく、摂取したカロリーを即座に脳と身体の成長へと回す。
恐ろしいほどのエネルギー効率。
◇
夜、夫婦は寝室で、すやすやと眠る娘の寝顔を見つめていた。
「今のところ、手がかからないな。」
「ええ。夜泣きもしないし、黄昏泣きもないし。……ちょっと愛想はないけど、賢い子よ。」
博は、娘の小さな手を自分の指でそっと握った。
環がギュッと握り返してくる。その力は、驚くほど強かった。
「……どんな子に育つかな。」
「健康で、普通に幸せになってくれれば、それが一番よ。」
「そうだな。……普通が一番だ。」
桜庭博は、安月給のサラリーマンとしてのささやかな願いを込めて、娘の頭を撫でた。
彼らはまだ知らない。
この「育てやすい不思議な娘」が、やがて「普通」の枠を粉々に破壊し、日本を変え、世界を変え、人類を重力の鎖から解き放つ怪物になることを。
今はただ、平成の穏やかな夜風が、長閑市の小さな家を包んでいた。
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桜庭家の長女・環(1歳)は、ついに二足歩行を獲得した。
「歩いた! ク〇ラが……じゃない、環が歩いたぞ!」
ビデオカメラ(DVテープ)を回しながら歓喜する博。
しかし、環の歩行は、感動的な「よちよち歩き」とは少し趣が異なっていた。
彼女は立ち上がると、重心を確認するように数回屈伸し、スタスタと部屋の隅へ移動。
そして、テレビの裏側の配線や、コンセントの差込口を、真剣な眼差しで凝視し始めた。
「……探検っていうより、『巡回』だな。」
環は休むことを知らなかった。
キッチンの引き出し(開けられる場所すべて)、ソファの下、網戸の建付け。
家中のあらゆる構造物を、見て、触って、叩いて確認する。
まるで、自分が住む世界の物理演算エンジンをテストしているかのように。
そして、この頃の環が最も固執したアイテム。
それが、博の愛用していた携帯電話、折りたたみ式ガラケーだった。
博が会社から帰ると、環は玄関までトコトコと出迎え、博ではなく、博のスーツのポケットを指差す。
「あい(それ貸せ)。」
「はいはい、携帯ね。ヨダレつけないでよ?」
渡されたガラケーを、環は神妙な顔で開く。
アンテナを伸ばしたり縮めたり。
ボタンをポチポチと押す。
カチッ、カチッ、カチッ。
当時の携帯電話特有の、しっかりとしたクリック感。
画面が変わる反応速度。
環は、画面に映るロゴやメール作成画面の意味は分かっていないはずだが、「入力→ 出力(画面変化)」という論理構造に魅了されているようだった。
「……もしもしー? ……はしないんだよな。」
耳に当てる真似は一切しない。
ただひたすら、キー配列と液晶の相関関係を解析する1歳児。
博は、娘が将来エンジニアにでもなるのかな、とぼんやり思った。
◇
ある雨の日曜日。 公園で遊べないため、博は環を連れて、長閑市立図書館へ出かけた。
これが、運命の分かれ道だった。
「ここは本がいっぱいある所だよー。静かにしようねー。」
児童書コーナーに入った瞬間。
環の目が、カッと見開かれた。
視界を埋め尽くす、色とりどりの背表紙。
無限に並ぶ情報の貯蔵庫。
彼女は博の手を振りほどき、本棚へ突進した。
適当な絵本を一冊引き抜く。
床に座り込む。
開く。
ペラッ。ペラッ。ペラッ。
「……え? 速くない?」
博は目を疑った。
環は、1ページあたり数秒という驚異的なスピードでページをめくっていた。
絵を楽しんでいるというより、情報を「吸い込んでいる」ように見える。
読み終わると(スキャンし終わると)、すぐに次の本へ。
図鑑、紙芝居、文字の多い童話。 ジャンルは問わない。
彼女の小さな脳みそは、乾いたスポンジのように、活字と図形を渇望していた。
◇
夕方5時。 館内に『蛍の光』が流れ始めた。
「さあ環、閉館だって。お家に帰ってご飯にしよう。」
博が環を抱き上げようとした時だ。
それまで「育てやすい子」だった環が、初めて牙を剥いた。
「イヤァァァァァァァッ!!!」
本棚の柱にしがみつき、全身で抵抗する。
その泣き声は、「寂しい」とか「お腹すいた」ではない。
「まだデータのロード中だ! 電源を落とすな!」という、魂の抗議だった。
「ちょ、環ちゃん!? 離して! 係の人困ってるから!」
結局、博は本にしがみつく娘を無理やり引き剥がし、泣き叫ぶ彼女を小脇に抱えて、逃げるように図書館を後にした。
車の中でも、環はずっと睨みつけるように泣いていた。
「私の知恵を返せ」と言わんばかりに。
◇
その夜、疲れ果てた博は、妻の裕子に報告した。
「……凄かったよ。本に対する執着が。」
「あら、いいじゃない。本好きなんて知的で。」
裕子は笑った。
「じゃあ明日から、毎日のお散歩コースは図書館にするわね。」
それ以来、桜庭家の日課が変わった。
平日の昼間、裕子に連れられた環は、毎日図書館に通い詰めた。
図書館の司書たちの間でも、「あの高速ページめくりの赤ちゃん」はちょっとした有名人になった。
0歳で物理法則を観察し、1歳で情報の海に溺れた少女。
彼女の中の「知の怪物」は、こうして静かに、しかし確実に育ち始めていた。
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