表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

育てやすい?「不思議ちゃん」

世の中では、人々はまだガラケー(という言葉もまだ無い)のボタンをポチポチと押してメールを送っていた時代。


地方都市・鳴和県なるわけん長閑市のどかし


新興住宅地に建つ、35年ローンの小さな建売住宅。


ここに、いたって平凡な三人家族が住んでいた。


父:桜庭さくらば ひろし

中堅商社の地方営業所に勤める、真面目が取り柄のサラリーマン。


母:桜庭さくらば 裕子ゆうこ

スーパーのレジ打ちパートをしている、明るく現実的な妻。



そして、この平凡な夫婦の間に生まれた、最初で最後の一人娘。



それが、後の日本の救世主であり最強総理や国母と称えられたり。

「たまちゃん」の愛称で親しまれたり、「魔王」と野党議員や記者から恐れられたりした存在。



葛城かつらぎ たまき



――当時はまだ、ただの「桜庭さくらば たまきちゃん(0歳)」であった。



「……おい、裕子。また環がやってるぞ。」


仕事から帰った博は、ベビーベッドを覗き込んで苦笑した。

生後3ヶ月の環は、泣きもせず、天井から吊るしたメリー(くるくる回るおもちゃ)を凝視していた。


普通の赤ちゃんは、もっと視線が定まらず、ぼんやりとしているものだ。

しかし、環の目は違った。

黒目がちな瞳が、メリーの回転に合わせて、カッ、カッ、カッと鋭く動いている。


「なんというか……『見ている』というより、『検査』してるみたいなんだよな。」


博が指を目の前で振ると、環の瞳は即座に指を追尾ロックオンする。

そして、プイッと興味なさげに視線を外し、また部屋の四隅や、エアコンのランプなどをキョロキョロと見回し始めた。


「好奇心が旺盛なのよ。将来は学者さんかしらね?」


台所から裕子の能天気な声が聞こえる。


博は娘の頬をつついた。


(……学者、か。俺たちの子だから、精々が公務員くらいだろうけど。)


父は知らなかった。

彼女が今、その脳内で凄まじい速度でシナプスを結合させ、空間認識能力と物理法則の基礎データを収集していることを。



環のもう一つの特徴は、「止まらない」ことだった。


起きている間中、手足をバタバタと動かし続けている。

それも、不機嫌で暴れているわけではない。

真顔で、右手を突き出し、引き戻す。 左足を蹴り出し、角度を変えてまた蹴る。


シュッシュッ。


空気を切る音が聞こえそうなほど、リズミカルで規則正しい運動。


「元気なのはいいけど、疲れないのかね?」


休日の昼下がり、博は娘の横で寝転がりながら呟いた。


「自分のお手々とあんよが、どう動くか確かめてるのよ。」


裕子が洗濯物を畳みながら言う。


博には、それがまるでロボットが「駆動系の初期設定キャリブレーション」を行っているように見えた。

自分の肉体というハードウェアの性能限界を、0歳児なりにテストしているような、妙な切迫感。


(……まあ、夜泣きされるよりはずっといいか。)



そして、博が最も不思議に、そしてありがたく思っているのが、彼女の「睡眠システム」だった。


「おぎゃあ! おぎゃあ!」(翻訳:燃料切れです。補給を要求します)


空腹時だけは、人並みに泣く。

裕子が抱き上げ、授乳を始める。


ゴクゴクゴク……。


勢いよくミルクを飲み干す環。


そして、飲み終わってゲップをさせた、その瞬間。



スンッ。



糸が切れたように、環の首がカクンと落ち、瞼が閉じる。


0.1秒前まで開いていた目が、完全に閉じている。

呼吸はすでに、スースーという寝息に変わっている。


「……毎回思うけど、スイッチでも付いてるのか?」


博は目を丸くした。


「寝つきが良くて助かるわー。背中トントンしなくても、満タンになったら勝手に寝るんだもの。」


裕子は楽観的に笑い、娘をベビーベッドに降ろした。

置いても起きない(背中スイッチが存在しない)。


泣いてエネルギーを浪費することなく、摂取したカロリーを即座に脳と身体の成長へと回す。

恐ろしいほどのエネルギー効率。



夜、夫婦は寝室で、すやすやと眠る娘の寝顔を見つめていた。


「今のところ、手がかからないな。」


「ええ。夜泣きもしないし、黄昏泣きもないし。……ちょっと愛想はないけど、賢い子よ。」


博は、娘の小さな手を自分の指でそっと握った。

環がギュッと握り返してくる。その力は、驚くほど強かった。


「……どんな子に育つかな。」


「健康で、普通に幸せになってくれれば、それが一番よ。」


「そうだな。……普通が一番だ。」


桜庭博は、安月給のサラリーマンとしてのささやかな願いを込めて、娘の頭を撫でた。


彼らはまだ知らない。

この「育てやすい不思議な娘」が、やがて「普通」の枠を粉々に破壊し、日本を変え、世界を変え、人類を重力の鎖から解き放つ怪物になることを。


今はただ、平成の穏やかな夜風が、長閑市の小さな家を包んでいた。


________________________________________


桜庭家の長女・環(1歳)は、ついに二足歩行を獲得した。


「歩いた! ク〇ラが……じゃない、環が歩いたぞ!」


ビデオカメラ(DVテープ)を回しながら歓喜する博。


しかし、環の歩行は、感動的な「よちよち歩き」とは少し趣が異なっていた。

彼女は立ち上がると、重心を確認するように数回屈伸し、スタスタと部屋の隅へ移動。

そして、テレビの裏側の配線や、コンセントの差込口を、真剣な眼差しで凝視し始めた。


「……探検っていうより、『巡回パトロール』だな。」


環は休むことを知らなかった。

キッチンの引き出し(開けられる場所すべて)、ソファの下、網戸の建付け。

家中のあらゆる構造物を、見て、触って、叩いて確認する。

まるで、自分が住む世界の物理演算エンジンをテストしているかのように。


そして、この頃の環が最も固執したアイテム。

それが、博の愛用していた携帯電話、折りたたみ式ガラケーだった。


博が会社から帰ると、環は玄関までトコトコと出迎え、博ではなく、博のスーツのポケットを指差す。


「あい(それ貸せ)。」


「はいはい、携帯ね。ヨダレつけないでよ?」


渡されたガラケーを、環は神妙な顔で開く。

アンテナを伸ばしたり縮めたり。

ボタンをポチポチと押す。


カチッ、カチッ、カチッ。


当時の携帯電話特有の、しっかりとしたクリック感。

画面が変わる反応速度。

環は、画面に映るロゴやメール作成画面の意味は分かっていないはずだが、「入力ボタン→ 出力(画面変化)」という論理構造に魅了されているようだった。


「……もしもしー? ……はしないんだよな。」


耳に当てる真似は一切しない。

ただひたすら、キー配列と液晶の相関関係を解析する1歳児。


博は、娘が将来エンジニアにでもなるのかな、とぼんやり思った。



ある雨の日曜日。 公園で遊べないため、博は環を連れて、長閑市立図書館へ出かけた。


これが、運命の分かれ道だった。


「ここは本がいっぱいある所だよー。静かにしようねー。」


児童書コーナーに入った瞬間。

環の目が、カッと見開かれた。


視界を埋め尽くす、色とりどりの背表紙。

無限に並ぶ情報の貯蔵庫。


彼女は博の手を振りほどき、本棚へ突進した。

適当な絵本を一冊引き抜く。


床に座り込む。


開く。



ペラッ。ペラッ。ペラッ。



「……え? 速くない?」


博は目を疑った。


環は、1ページあたり数秒という驚異的なスピードでページをめくっていた。


絵を楽しんでいるというより、情報を「吸い込んでいる」ように見える。

読み終わると(スキャンし終わると)、すぐに次の本へ。


図鑑、紙芝居、文字の多い童話。 ジャンルは問わない。

彼女の小さな脳みそは、乾いたスポンジのように、活字と図形を渇望していた。



夕方5時。 館内に『蛍の光』が流れ始めた。


「さあ環、閉館だって。お家に帰ってご飯にしよう。」


博が環を抱き上げようとした時だ。


それまで「育てやすい子」だった環が、初めて牙を剥いた。



「イヤァァァァァァァッ!!!」



本棚の柱にしがみつき、全身で抵抗する。


その泣き声は、「寂しい」とか「お腹すいた」ではない。

「まだデータのロード中だ! 電源を落とすな!」という、魂の抗議だった。


「ちょ、環ちゃん!? 離して! 係の人困ってるから!」


結局、博は本にしがみつく娘を無理やり引き剥がし、泣き叫ぶ彼女を小脇に抱えて、逃げるように図書館を後にした。

車の中でも、環はずっと睨みつけるように泣いていた。

「私の知恵を返せ」と言わんばかりに。



その夜、疲れ果てた博は、妻の裕子に報告した。


「……凄かったよ。本に対する執着が。」


「あら、いいじゃない。本好きなんて知的で。」


裕子は笑った。


「じゃあ明日から、毎日のお散歩コースは図書館にするわね。」


それ以来、桜庭家の日課が変わった。


平日の昼間、裕子に連れられた環は、毎日図書館に通い詰めた。

図書館の司書たちの間でも、「あの高速ページめくりの赤ちゃん」はちょっとした有名人になった。


0歳で物理法則を観察し、1歳で情報の海に溺れた少女。

彼女の中の「知の怪物」は、こうして静かに、しかし確実に育ち始めていた。

感想や評価いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ