夏が始まる瞬間
「私戻るよ。ここじゃない夏に」
嗣朗の方眉がピクリと動いた。
「思い出したの。私は17歳の時、殺された。ノコギリを持った太ったおじさんに。」
咲はこれまで自分自身の身に起こった出来事を鮮明に思い描くことが出来た。
「私は永遠の夏に居た。誰かが作ってくれた夏の中に。そうでしょう?」
咲は少し照れくさそうにして「でも、神様がいるのかは正直信じられないけど」頬を染める。
「でも、ここが本当の世界じゃないってことは分かった。教えてくれたの。私だけの記憶が。だからこそ、私は帰らなくちゃいけない。ここじゃない本当の現実に」
両目を少し細めてはにかむ嗣朗。
「念のために聞くけど本当に良いんだね?ここに居れば傷つくことなく時間を過ごすことが出来るよ」
永遠の夏が続く時間。争いもなく穏やかな空間。
咲がここから旅立つということは、日常に戻るということ。
すなわちあらゆる苦しみを引き受けることになる。
「キミがもし現実に戻ったとすれば、今後キミの元へ様々な苦しみが訪れる事になる。
それでも、キミは現実に戻る選択をする?」
おそらく咲が戻った世界では多くの理不尽な事や苦しいことが待ち受けているだろう。
大概の努力は報われないし、理不尽な事が多くある。
それならば、退屈を噛みしめて夏にとどまっていた方がいいのかもしれない。
それでも。どれほど世界が理不尽で意地悪でろくでなしでも。
彼女は決断する。
「確かに嗣朗さんの言いたいことはなんとなくわかるよ。苦しいことも辛いこともたくさんあると思う」
女の子はゆっくりと力強く言葉を残す。
「私は帰るよ。元の世界に。私が生きていた世界に」
確かに嫌な事や苦しいことが多くあるかもしれない。友達のみきちゃんとは正直喧嘩中だし、お母さんとはおこずかいが少ない件でいつも揉めている。
でも、生きているからこそ苦しいことが起こる。苦しいことは生きていることの証明書のようなものだ。
「ほんとうに、いいんだね?」
「うん。大丈夫」
咲は自分に言い聞かせるようにおまじないをかける。
大丈夫。きっとうまくいくと。願い事は私たちに希望を与えてくれる。
帰ろう。あの夏へ。
「そっか。短い時間だったけれど楽しかったよ」
「
私も。カプチーノ美味しかった」
ふふと嗣朗は愉快そうに笑う。
時計の針はもうじき12時を回ろうとしていた。
「
そろそろお別れだね。咲。キミに出会えてよかった。キミがこれからの時間を大切に過ごせるように願っているよ」
「
「私も嗣朗さんが楽しい時間を過ごせるように願ってる」
「残念だけれど僕達、こっちの世界の人間は時間なんて存在しないんだ。だから、記憶も存在しない。ここであった出来事は物事が終わってしまった瞬間に消滅してしまう」
「私と嗣朗さんの思い出は消えちゃうんだね」
「でもね。大切なことは記憶が存在していた事実そのものなんだ。確かに、僕も咲も夜の喫茶店で起こった出来事を覚えてはいない。それでも、確かに僕と咲はこの場所に存在していたんだよ」
「忘れてしまったとしても大丈夫。大切なことは残っているさ」
嗣朗が口にした瞬間。
咲の視界が次第にぼやけてくる。
景色はゆっくりと揺れ動き、だんだんと物事の離隔が失われていった。
「さよなら。咲。元気でね」
ミーン。ミーン。ミーン。蝉が叫び声を上げる。
「んん、、。うるさいな」
咲はうだるような暑さにたたき起こされた。
変わらない夏。高校生の村田咲は夏休みの真っただ中。
あくびをかみ殺しながらリビングへ向かう。
冷蔵庫を開けて麦茶を一口ごクリ。
乾いた喉に水分が染み込む。
今日も一日が始まろうとしている。
今日は何をしようかな。咲は眠気眼で考える。
みきちゃんと仲直りの為に駄菓子屋に行ってみてもいいかも。
あの駄菓子屋、おばあちゃんが高齢でそろそろつぶれそうだし。
うだるような夏の中に女の子が一人、彼女は寝癖まみれの黒髪。
「大丈夫。元気でね」
咲は今日も夏をゆっくりと進めていく。自分のペースで。好奇心の赴くままに。
時刻は12時を少し過ぎた頃。
夏はまだまだこれからだ。