歯車が回りだす瞬間
これからの期待感に胸を膨らませて喫茶ファミリアへ向かう咲。
お店の中には人影が見えない。
「こんな時間にコーヒを飲んだら眠れなくなるかもしれないよ」
白髪の男性が声をかける
外は満面の星空に覆われ、四方八方から自然が織りなす効果音が咲の耳に響てくる。
渓流の水がしたたかに流れ出ていく水音、一歩足を踏み出す度にゲコゲコとカエルが喉元を鳴らしている。
いつもならば、咲にとってはとって付けた様な風景。そのはずなのに今は特別な風景に様変わりしていた。
家を出てから歩く度に。目的地に一歩一歩、歩を進める度に咲の中では胸の中が一杯になっていく。それはまるで季節が移り替わる際に抱く感情に似ている。
永遠と続くであろうと思われる田んぼ道を鼻歌を歌いながら元気溌剌に進む。
口ずさむ曲はsnsを徘徊していた時に偶然見つけたアップテンポの曲だ。
歌詞は売る覚えでいまいち要領を得ないけれどそんなことは今は関係ない。
咲は気にせず高揚感という魔法を維持しながら目的地まで向かっていった。
田んぼ道もそろそろ終わりが見えてきた。
どれぐらい歩いたのだろうか。
いつもなら学校に向かう時、特に夏場なんかは嫌で嫌で仕方がないことこの上ない道。汗でせっかく整えた前髪はおでこに張り付くし、汗はかくし、最悪だ。
宿敵、夏に愚痴をこぼした所でかなうわけがない。
だからいやいや学校に向かうことになる。
でも、汗をかいた状態でクラスメイトの佐々木君と会うなんて、、。
咲も立派な女の子。年頃の乙女なのだ。
それゆえに一人の男性に恋心を抱いてしまうのは仕方がないこと。
言いたいけれど恥ずかしくて言い出せない。
ただ、友達に紛れて遠巻きに佐々木くんの横顔を眺める日々。
そんな日々も案外悪くないと思ってしまったりして。
近づきたいけれど、感情が邪魔をして近づけない。片思いのお話。
ただ、このことはまた別のお話。
田んぼ道を抜けてこじんまりした住宅街に入る。
夜も更けてきたとはいえ、家々からは明かりが漏れ出ており時折笑い声が聞こえてきた。
十字路を右に曲がり、突き当りを左。ポツリポツリと立ち並ぶ街灯とオレンジ色のカーブミラーに見送られながらお寺を追い越す。
チラシに目を落とし、現在地を確認する。もう一度。
「あった。ここだ」喫茶ファミリア。ドアにかけられた木製の看板に刻印されていた。
一度深呼吸してから気持ちを落ち着かせる。
どうしよう。思わず勢いで飛び出して来ちゃったけど大丈夫かな。
心の中で今更ながら不安がわいてくる。
時刻は22時を回ったころ。
そろそろ人々は今日という日にお別れを告げ始めるころあい。
仕事で嫌なことがあったOLは酒をちびちびと飲み。
サラリーマン男性は家族の為に体を酷使してきたにも関わらず、いつもと変わらない笑顔を愛する人たちに向けて。
社会の重圧に耐えられなかった青年男性は今日も一人暗い部屋に引きこもり、社会に対するヘイトをぶちまけているかもしれない。
そんな中、一人の女の子は出来たばかりのどこか懐かしい喫茶店の前に立ち、今更緊張を噛みしめていた。
「大丈夫だよ。せっかくここまできたんだから。面白いことが待ってるかもしれない」
咲は胸の前に右手を持って来てゆっくりと深呼吸をする。
「よし、、。いこう」
咲はドアノブに手をかけてゆっくりとドアを引く。同時にキーという音が鳴る。
「こんばんはー、、。」
辺りを窺いつつに声をかける。
お店の中は咲の予想通りこじんまりとしており、時間も時間ということもあって誰も居なかった。
どうしてこんな田舎町にお店を作ったんだろう。どう考えてもお客さんが来るようには思えないし。
よくよく考えてみれば容易に想像がつくこと。咲は忘れていた。そんな簡単な事さえも。
「あの、、。誰かいませんか?」
辺りは静まり返っている。
店内にはウッド調のテーブルと椅子が4つずつセットで並んでおり、
こじんまりとしているがカウンターも併設されている。
カウンターの上にはマグカップが整理整頓されて並んでいる。
どれもアンティーク調の気品を感じさせる品々だ。
「きれい、、。これでコーヒーを飲むのかな」思わず顔を近づけてカップをのぞき込む咲。
「こんな時間にコーヒを飲んだら眠れなくなるかもしれないよ」
「え?」
振り向くとそこには白髪の男性が笑顔を浮かべて咲を見つめていた。
今日もどこかで笑い、泣き、怒り、そして絶望している誰かへ。