【シサマ通算199作目】CDから教わった大切なこと
皆様こんにちは! シサマという者です。
早いもので、今年も残す所あと50日。
私シサマの『小説家になろう』サイトに於ける執筆作品も、通算199作を数えることになりました。
このサイトに来て、5年と1ヶ月。
今振り返れば、果たして発表するべき内容だったのか疑わしい作品もいくつかありますが(笑)、私自身は削除も検索除外設定もすることなく、全てを活動の記録として並べることに誇りを持っています。
さて、そんな私ですが、2024年は仕事の量と責任が一気に増して創作活動は停滞気味。
特に小説に関しては、全くもって作家とは言い難い程のスローペースでした。
しかしながら、今年は『小説家になろう』サイトが20周年ですし、私も記念すべき通算200作目を今年中にキレ良く合わせたい……。
そんな野望が頭をもたげたため、今回はその助走としてエッセイジャンルに回帰したのです。
今回のエッセイは、私の最大の趣味である音楽について。
とはいえ、音楽ジャンルやアーティストについての話ではなく、音楽を楽しむメディアのひとつである『CD』(コンパクト・ディスク)に関するものですので、知っているか知らないか、好きか嫌いかを問わずに目を通していただけると幸いですね。
1970年代、「クラシック音楽などで見られる長い楽曲を、レコードやカセットテープの入れ替えなしで楽しむ、より高音質のメディア」というコンセプトで、ソニーとフィリップスの共同開発がスタートしたCD。
商品化は1982年で、記念すべき世界CDソフト第1号はアメリカのポップ・アーティスト、ビリー・ジョエルの『52nd Street』(邦題:ニューヨーク25番街)でした。
当時はアナログ・レコードに比べて「音が冷たい」「音に厚みがない」などと言われましたが、後に音楽の録音環境の大半がデジタルと化し、アナログ録音の音源以外の違和感を解消。
ノイズや劣化もないその音質は、80年代に急成長したテクノやダンス・ミュージックと相性が良く、世の経済と音楽業界もバブル景気だったため、CDはあっという間に主力メディアに躍り出ます。
また、CDの規格と技術はゲームや映像にも利用され、CD-ROMやDVDなどで音楽ファン以外にも浸透しました。
そんな時代が思春期を直撃したのですから、年齢を重ねても音楽なしでは生きられない私が、CDに愛着を持つのは当然でしたね。
現在、2024年の時点では、音楽や映像をネット配信やサブスクで楽しむユーザーが一般的となり、CDは音楽メディアとしてその役目を終えたと言われています。
事実アメリカでは、配信やサブスクに次ぐ音楽メディアの座を人気が復活したアナログ・レコードに奪われており、未だにCDの発売数が比較的多い日本盤の再発洋楽CDを欧米のマニア達が血眼で買い漁っている……そんな報道もありました。
ちなみに、私は音楽のリスニング環境は現在でもCDかMP3(ウォークマン)が主体。
興味のあるアーティストの試聴にはYouTubeなどを利用することが多いですが、その結論は「CDアルバムを所有するか、そのアーティストの作品を所有しないか」のオール・オア・ナッシングです。
カラオケで1曲だけ歌いたい……みたいなアーティストは、YouTubeなどで曲の展開を粗方覚えたあと、ひとりカラオケのガイドメロディーを身体に叩き込んでマスター(笑)。
オリジナルとは微妙に違う節回しなども生まれてしまいますが、そこは「名曲をシサマがカヴァー」という概念にまで引き上げる練習を積み、聴き手を捻じ伏せるという、元バンドマンならではのスタンスを貫くのでした。
私がCDにそこまでこだわる理由は一体何なのか?
そこには特殊な環境にプラスして、CDというメディアから教わった「大切なこと」を、これからの人生に於いても心の支えにしたいという確固すぎる信念があるからです。
私は30代後半に『うつ病』を発症し、克服後もかつての職場環境から、パソコンを見ると忌まわしい記憶がフラッシュバック(笑)。
仕事でパソコンを使うことは出来ますが、それ以外ではパソコンに余り触れたくないという本音がありました。
このサイトでの執筆もスマホで行っているのですが、1台のスマホで執筆しながら音楽を聴いたり、途中で曲を変えたりするのは至難の業です。
加えて、自分の一部とも言える作品を執筆するBGMが、自分の一部にない楽曲であることは受け入れられません。
ですから、カフェでの執筆などもあり得ませんし、自室で執筆するか、BGMになる様な音楽のない場所での作業になるでしょう。
小説やエッセイでは、未知の楽曲による展開や歌詞の流れに内容が左右されてしまう……そんな事態は回避しなければならないのですが、詩の場合はそれがプラスになる時もあります。
ですから、車を走らせている時に流しているFMラジオから突然アイディアが湧くことも多いですね。
そして、私がCDから教わった「大切なこと」。
それはCDのパッケージやブックレットから得る情報から、アーティスト本人や制作に関わる数多の人達が、自分と何ら変わらない「この世界を生きる人」であると実感することでした。
CDに触れたことのある人なら分かると思いますが、CDにはプラケースやデジパック、紙ジャケットの中に歌詞カードや解説文、アーティスト以外のミュージシャンやスタッフを記載した「ブックレット」が封入済み。
ごく稀に安い輸入盤やベスト盤などでブックレットのない、ジャケットペラいち(ジャケットと曲目兼用の紙1枚だけ)仕様がありますが、通常のブックレットはまさに情報の宝庫なのです。
一例を挙げると、アマチュア時代は自分でメイクしていたビジュアル系のバンドも、メジャー・デビューしてCDアルバムを出せる様になれば、ブックレットにヘアメイク・アーティストさんがクレジットされますね。
また、現在では100万円を下らない様なフェンダー、ギブソンなどのオールド・ギターを常備する大物ミュージシャンも、デビュー・アルバムでは日本のメーカーからの楽器提供を示すクレジットがあったりしますよ。
「プロデューサー」という表記も、いわゆる音楽面を取り仕切る「サウンド・プロデューサー」と、資金集め協力やスタジオなどのブッキングに奔走する「頭下げ役プロデューサー」が存在しており、洋楽では後者を「エグゼクティブ・プロデューサー」などと表記。
ここの名前で、所属プロダクションや個人人脈なども想定出来、仕事としての仕組みも理解出来ます。
そして何より、洋楽のヘビー・ユーザーだった私にとってブックレットの解説文は、自分自身の人生を支える最高のモチベーションアップ・アイテムでした。
新人アーティストの場合、その生い立ちからデビューまでの道程が記述されており、夢に向かうための下積み生活や運命の出会いなど、才能だけで世の中を渡ってきた訳ではない決定的な真実を知ることが出来ます。
また、5年に1枚アルバム発表とライブ・ツアーを行う様な悠々自適のベテラン・アーティストでさえも、沈黙の間に自身の健康や家庭の問題に直面していたなど、普段慌ただしく流れるテレビやネットでは追いきれない情報を目の当たりにする……。
更に加えて、ブルースやソウルなどの黒人アーティストともなると、プロとして活躍しながらも堅気の仕事を本業にしていたり、60歳を過ぎてようやくアルバムが出せた、ハードワークと不摂生が祟ってCDデビューを目前にして世を去った……などといった、厳しい現実を見せつけられるのでした。
アーティストの大半は、その才能だけでは生活出来ない。
アーティストを支えているのは、私達がやり甲斐と不満の中で日々揺れ動く「普通の仕事」である。
私は物心ついた頃からこの情報と接していたので、アーティストの華やかな面だけを見て、勝手な憧れや嫉妬を抱くことはありません。
そして自分自身も、執筆した作品が評価されないという現実で塞ぎ込む様なことはありません。
現在の私の人格形成は、音楽とCDの存在なしに語ることは出来ません。
しかしながら、CDが大好きな音楽ファンの中にも、歌詞以外のブックレットを全く読まない人が多くいるとききます。
それは人生に於いて無限大の損失だと思いますね。
近年では80〜90年代の音楽の再評価が進み、輸入盤再発CDにも英語の解説文がつく様になりました。
時折単語の意味を調べながら解説文を読むと、懐かしさと生きる力と、失われた高卒レベルの英語力までを取り戻せますから(笑)。
結論。
私はこれからもCDを聴く。
音質云々とか配信の危うさ云々とか、そんなオーディオ・マニアやコレクター的な視点ではなく、卑屈にならず、おごり高ぶることもない、自分自身の人生を守るために……。
ちなみに通算200作目は、敢えて物議を醸しそうなエッセイにする予定です。