アリスと名乗る女の恋物語
私はアリスと名乗りたかった。
実際の肌は健康的な黄色で、唇も元々は真っ赤ではないけれど、画面の中の私は、生気のない白い肌で、血を食べたような唇をしている。目は元々大きくて本当に救われている。鼻はもっと人工的であって欲しかったから、影を強めに書いている。いずれにせよ、それらはルイスキャロルの忠実とは大きくかけ離れている。しかし、そもそもアリスの表象は殊にこの国においては、都合が良い解釈と誤読に塗れ、彼が愛した金髪の無垢な幼いアリスの面影はなく、ただただ自己愛とルッキズムの偶像と化している。恐らくアリスというハンドルネームはマリアと同数以上存在している。私としては、アリスと名乗りたい女よりもマリアと名乗りたい女の方が、業が深いと思うのだが、理由を語るのは止めておく。
とにかくアリスと名乗りたい私は、それ相応の身なりを整えるために努力をしているのだ。私は古着屋で買ったヴィンテージのワンピースを着て、チュチュを履いてスカートを膨らませると、姿見の前でポーズを撮った。もう出掛けなくてはならない時間だけれど、丁寧に肌色を整え、目を大きくし、顎を尖らせる。アプリを何個か替えながら、それぞれの仕様で最適な修正をパーツごとに施していく。上目遣いで、目を逸らして微笑むそれが、私では無くなったことを確認して写真を投稿する。出掛ける時間は当の昔に過ぎていたが、どうせ午前中など開店しても大した客入りはない。私は満足いくまで写真を投稿しては、削除し、何回目かで妥協して、部屋を後にした。
表参道の裏道をぐるぐると歩いていると現れる、小ぢんまりとした服と雑貨を売る店が私の仕事場だ。ずっと前に裏原、なんて造語が流行ったが、流行が廃れた後は、客も、働く側も、メインストリームから外れた人たちが残った気がする。メインストリームから外れた、なのか、外された、なのかは今となっては、大した論点ではないし、語ったところで何にもならない。私は通用口から入ると、携帯で音楽をかけながら、オープンの準備を始めた。こんな狭い土地に集まる人間でも、音楽の話が合うことは殆ど無くて、最近はクラブで流れる曲の話をすればいいと思っている。それでも、ひとりでいる時くらいは、聴きたいものだけを選ぶ。聴きたいものも、2種類ある。本当に好きなものと、好きということにしておきたいもの。私はJoyDivisionのアルバムをシャッフルで起動させると、レジの立ち上げを始めた。
この店は、実業家のオーナーの道楽で保たれている、各国の蒐集品を売る店だ。彼女の琴線に触れた雑貨は、統一感の無いようで、いずれも死の匂いを纏っている。それは、メキシコの祭りの骸骨も、ルーマニアの死の十字架も混在して、ポジティブな死もネガティブな死も混在しているが、どうも彼女の嗜好はネガティブなものに寄っている。来店するのは、自意識を拗らせた少女や、備品を調達しに来る自称アーティスト、間違った日本のイメージを持った外国人観光客だ。まず繁忙することはなく、働き手の人数も当然少なく、私は必然的に孤独になる。
唐突にギターのリフが遮られ、メッセージが届く。孤独な世界に垂らされた糸はしかし、私を苦々しくさせる人間からのメッセージだった。私は暫く無視を決め込んだが、そうもいかない欲が沸いてくる。どうせ開店直後に訪れる客など今は殆どいない。私は開店から数時間、誰も来ない店で、何を防ぐのかわからないマスクをしたまま、だらだら通販の受注を裁くだけだ。ワンクリックで商品は誰かの手によって出荷され、注文者の玄関に置かれる。気味が悪過ぎて、店頭に置かなかった死体の手を模したランプが売れていた。私は、切り取られて変色した誰かの手が倉庫を飛び出すのを想像した。手は彷徨いながら、異国の故郷を思いながら、緑色の制服の男に望まぬ場所に運ばれてしまう。そのイメージは私に愛着を呼び起こし、通販に出さないで店頭に置いておけばよかったと思った。あの、気味が悪いのに素材が安っぽく軽いそれを店頭で見てもきっと誰も買わないだろう。
携帯をアンロックすると、予想された名前がそこに表示されている。
「今日泊まれる?」
真っ赤な髪に顔が殆ど隠れた詐欺のようなプロフィール写真が語りかける。これに関して私も人のことは言えないが、何というか、見る度にザワザワと、圧倒的に恋じゃない気持ちが沸き上がる。サカイという、フルネームも漢字も伏せた表記も、その気持ちを加速させる。
内容も無に近い。泊まれたなら何なのだろう。泊めたら何になるのだろう。どうせまた同居人か、彼女に追い出されたのだろう。だから何なのだろう。
私はまた携帯にロックをかけ、やたらと増えた通販の処理を続けた。
諸事情で店で夜を明かしたいという、店長に閉店処理を任せ、私はサカイの待つドトールに向かう。開店中は殆ど煙草が吸えなかったから、ドリンクの完成を待たずに火を付けると大きく息を吸い込んだ。奥の席に身を隠すように潜んでいたサカイがやってきて、隣に座った。
「アリス、久しぶり。」
長らく此処に居たことで染み付いた煙草の香りは彼だけでなく蓄積された愛おしい全ての過去を思い起こさせる。私に向けた横顔の、眉毛に開けたピアスに血が滲んでいる。安全ピンと銀色のピアスに縁取られたようなサカイの顔は、随分と無垢で貧相に見え、だからシルバーばかりでなくゴールドのデザインも選べばいいのに、といつも思う。吐き出せない思い事はタールと一緒に換気扇に吸い込まれていく。
「今日はどんなものが売れた?」
どうでもいいことしかサカイは言わない。
「今日も暇だった。あ、気持ち悪い手が売れたわ。」
「手?」
「そう。死んだ手?東欧かどこかの。」
「偽物でしょう?」
サカイは面白がるような声色をした。まるで、本物の切り取った手、死んだそれが店にあって欲しいとでも言うように。
「そう。ランプだよ。ゴムで出来た。」
「そう。」
紫煙だけが空間で交わり、すべて満足したように霧散していった。
結局青山通りをだらだらと歩いて、渋谷まで向かうことになる。私の部屋に来たいという言葉は言わなかったが、結局そういう着地を見込んでいることは確かだった。名の知れたショップのシャッターが並ぶ道を、ジンロを飲みながら、ふざけながら歩いていく。いつか、こんな瞬間を懐かしむことができるのだろうか。
「なんか、何の臭い、これ。」
何か香料が腐ったような、熟れたような臭いがする。ゴミとも違う、嫌悪とも言いきれない異臭に一瞬眉を潜めたが、どうでもよい気がして、酒とともに飲み込んだ。サカイは煙草を取り出して火をつけ、天を仰ぎながら煙を吐き出した。意外と繊細で求めてない刺激に弱いところがある。異臭など都市ではよくあることで、何かが腐るなど日常ではないか。
「何の音?」
サカイの動きが止まる。何か吸い出されるような、半液体のものがアスファルトに擦れている。音からそう感じた。誰か何か変なものを捨てようとしているのだろうか。サカイは本当にそういう感性が弱いのか、異音の正体に怯えてすらいる。別にそんなこと気にしなくていいのに。私はサカイの手を繋ぐと、少し早歩きで彼を連れ去った。
クラブの轟音の中、どこかの誰かと酒を飲んでいた。ダンスミュージックなんて聴かないが、何となく、音楽の最大級の無駄遣いなような気がして、喜んでアルコールとともに消費していく。深夜3時くらいになるとさすがに飽きて、私は一人でエントランスを出て地上に戻った。サカイはまだ中にいるのか、どこかホテルの一室にいるのかもわからないが、どうでもよくなって、酔っ払いが寝転ぶセンター街を歩く。タクシーを捕まえて帰るのは気が乗らない。私は店に店長がいることを思い出して、泊めてもらおうと思った。途中のコンビニでミルクティーを買って飲みながら、二人で来た青山通りを歩く。スケーター集団の練習している中をやりすごして通過すると、また先ほどの異臭が残っている。残っている、というより強まったな、と感じた。辺りは人気がほぼなく、車道はタクシーが行き交っている。私は嗅覚を頼りに道を外れて、源を探した。路地に入るとすぐ、雑居ビルの灰色の壁に血の色が見えて目を逸らした。色彩のショッキングさよりも、様々な面倒事が頭を過り、私はとりあえず煙草を取り出して、火をつけた。臭気は先程よりも限界値まで高まっていて、煙は何も打ち消せなかったから、諦めて視線を戻そうとした瞬間、視線を感じた。ドロドロとした血液にゼラチンを入れたような半固体が壁に広がり、轟いている。それは徐々に黒っぽい色になっており、黒を固めた中央に、顔があった。