もう絶対にやらない!
「ウィンちゃん……その……」
スフレが顔を赤らめながらもじもじしつつ声をかけてきた。
なんだろう? 普段あまり物事を隠さないタイプのスフレが言い淀んでいるのは珍しい。
「……おしっこ」
「うん? ちょっと戻ったあたりで……」
と言ったところで気付く。
そうだ、この空中ダンジョン《ドラグティカ》は、生物の可能性があるって聞いたのだった。
だとしたら、ここで用を足すのは憚られる。
では、どうするか。ここに至るまで考えなかったなんて、我ながらなんて迂闊なんだろう。
ここがだめなら地上に戻るしかない。地上に降りて少しの間なら、ボクの《テレポート》でもドラグティカに戻ってこられるだろう。問題は地上への降り方だ。ドラグティカは動いているから、ここに来る前に居た街へは、もう《テレポート》は届かないだろう。スフレの手を取り、駄目元で唱えてみたけどやはり無駄だった。
「……飛び降りるしか、ないか。」
横から「ひっ」とスフレの怯えた声が聞こえたけど、当然だと思う。ボクも怖い。
そもそも、ここへは長居する気はなかったので、帰りは《テレポート》で安全に帰る予定だったのだ。
でもこうなってしまったからには仕方ない。他に方法もないのだ。
「行くよ、スフレ」
「……うん」
まずはドラグティカの入り口へ《テレポート》で移動する。
急に開けた場所に出たせいで、陽光を反射し皓々とした雲が目を刺す。眩しい! 今度からいきなり外に出るのはやめよう。
目が慣れてきたところで、ようやく周囲を見渡す。一面の青に大きかったり薄かったり様々な雲が漂っている。なんとも開放感のある光景で気持ちがいい。
思えば、ずっと暗がりに居たから余計にそう感じるのかもしれない。
ドラグティカに辿り着いて、道中を抜けて、アレクを倒して、勇者たちを追い返して、眠りについて……
とはいえ、まだ丸一日も経過していないのに、随分懐かしさを感じてしまう清々しさだ。
「ウィンちゃん……」
スフレが袖を引っ張りながら呼び掛けてくる。
そうだった。事態は急を要するのだった。
おそるおそるドラグティカの外側に近づき、下を覗き見る。
結構緑色の部分が多い。草原かな?
とりあえず海ではなさそうだ。尤も、下が海でも陸でもこの高さから飛び降りたのであれば普通に死ぬだろうけど。でも陸のほうがいくらかやりようはあるので助かった。
「どうしよう。やめる? さすがにボクもこの高さを見たら絶対に生きられる自信はちょっとないかも……」
「……ううん、行こ。ウィンちゃんが信じられなくても、スーはウィンちゃんのこと信じられるから」
スフレにこう言われると『やってやる!』と思えるけど、下を見るとスフレのためならなんでもやってみせるという、いつもの自信が委縮してしまう。
なにせ失敗すればそのスフレを失ってしまうかもしれないのだ。
本当にやる価値のあることだろうか? そのリスクを負ってまで……。
でも心優しいスフレのことだ、ドラグティカで用を足すなんてもう考えていないのだろう。
ドラグティカで済ませてしまったが最後、その心を痛め続けるに違いない。
ならば、もう迷わない。
覚悟は決めた。
やるぞ!
ボクたちはおしっこをしに行くために、この遥か上空から飛び降りるのだ!
そうと決まったら、ローブを脱いで軽く畳んでから抱え込む。
「スフレ。しっかり掴まって、絶対にボクから離れないでね」
「うん!」
いい返事とともに、スフレはボクの腰に腕を回す。
ふにょり。
スフレの柔らかい感触が伝わってくる。
いいなー。……ボクも成長すれば、もう少しくらい大きくなるよね。
なんだか緊張がほぐれた。ありがとうスフレ。ありがとうスフレのおっぱい。あとで触らせてね。
そんな僅かに芽生えた余裕は瞬く間に消えた。
「行くよ、スフレ。」
「「せーのっ」」
二人でドラグティカを蹴って中空へと身を投げ出した。
――風が冷たい!
地面は全然近づいてこなくて、落ちている現実感がないのに、耳を打つ音と風の冷たさが物凄い速さで落ちていることを実感させる。
――怖い!
体の自由が効かない。それがこんなに怖いことだったなんて!
ローブと杖を抱えて、スフレがしがみついてるから余計に身動きが取れないのだけど、そんなことがなくても恐怖で体が固まってしまう。
目を開けるのも辛いけど、地面までの距離を確認しないと衝突して死んでしまう!
片手で顔を覆って、指の隙間からなんとか片目だけを薄く開いて狭いながらも視界を確保する。
まだまだ地面は遠いけれど、見ていなければ。
目を瞑るのも怖いけど、目を開けているのも怖い。
なんでこんなことしてるんだろう。
尿意を催すたびにこれをしないといけないの?
絶対に嫌だ!
二度と御免だ!
強くなるのだ! 魔力を鍛えるのだ! 魔法に込められる魔力が増えれば、《テレポート》で跳べる距離が伸びる。そうすればこんなことしなくて済む! やった!
いろいろ考え事をしていたおかげで、少しは気が紛れた。
そうしているうちに地面が近づいてきた。もう少し。もう少し……
地面の近づく速度が段々と上がっている気がする。
そろそろ、と思ったときにはもう間に合わないのかもしれない!
そう思ったらもう待てなかった。
スフレの腕に自分の左手を添えて合図を送る。
同時に身を少し捻って、ローブを投げる。広がってふわりと風に揺蕩うローブに向かって、魔法を唱える。
「《シャドウエンブレス》!」
ボクとスフレはローブに吸い込まれる。正確にはローブの下側、影になった部分に、である。この魔法は、影に物体を入れる魔法だ。これでローブが地面に辿り着くまで、やり過ごすというわけである。影の世界には何もない。外の世界が見えれば良いのだけれど、ボクの中にこの地の情報はないに等しい。来たこともない土地で、上空から遠目に見ただけの場所なのでほとんど投影できない。ローブが地面に着くのを待つしかない。と言っても、そこそこ地上も近かったし、そんなにはかからないはず。
「スフレ。大丈夫だったかい?」
「うん! 最初は怖かったけど、ウィンちゃんの匂い嗅いでたら安心した!」
「……ボクはずっと怖かったのに。でも、スフレだけでも怖がらずに済んだのなら良かったよ」
そんな会話をしつつ、時間に余裕をもって魔法の行使を止め外に出ると、無事草原に降り立つことができた。
風に流されている途中だったり、木に引っかかってたりしなくて良かった。
本当はボクとスフレをロープで繋いでおこうかとも思ったんだけれど、ローブの影に入るのに失敗した時に、動きが制限されたりロープが木に引っかかったりして、別の死因に繋がりそうだからスフレの身体能力を鑑みて止めておいたのだった。実際、スフレはボクが苦しくない程度にしっかり掴まってくれていた。
でも、恐怖心からとか、パニックになったりだとかで空中で離ればなれになるかもしれなかったし、どちらが良かったかは今でもちょっとわからない。とりあえず、二人とも無事着地できたのだから良しとしよう。
ボクたちは用を足し、ドラグティカに置いて行かれる前にと、速やかに《テレポート》で帰還した。
出来れば最寄りの村で買い物したり、陽の光を浴びながら地上を散策したりしたい心持ちだったのだが、落ちてきた距離があまりにも長く感じたので帰れるか不安になり、最低限の要件だけ済ませて帰ることにしたのだった。
冒険モノのトイレ事情って気になりますよね。気になるので書きました。
これを書くにあたって、スカイダイビングの動画をいくつか見ました。
とても参考になりましたが、360度グリグリマウスでいじれるやつは頭痛と吐き気がすごかったので注意が必要です。