4;スクーターに乗って(1)
*4
夕暮れ時、橋の上で2人は会い続けていた。 決まって夕焼けの綺麗な日、彼女言う所の『異界』が見えるという時に。
あの日、バイクを持ち込んだ修理屋は、エンジン不調の原因を突き止められなかった。 だがそれ以来、彼のバイクのエンジンは快調で、あの時の不調が嘘の様、もっともあの時エンジントラブルが無かったら彼女の前を素通りし、出会う事も無かったかも知れない。
夕焼けの日、決まってバイクでやって来る彼に、彼女は、
「バイク、好きなの?」
「マニアってほどでも無い。 これに乗っていると、色々ラクだから。」
「私も運転出来るかな? でも、この格好ではだめね。」
彼女は自分の制服姿を見下ろし、残念そうにタイトなスカートにちょっと触れて見る。
「なら、今度私服の時、タンデムでもしてみる? 休みの時。」
「うーん、休みの日はちょっと・・・」
まだお互い全てを話している訳ではない。 彼女にアクセスさえすれば、何故休みの日に会おうとしないのかが分かるだろうが、彼にはそのつもりはなかった。 彼女が彼の事をまだ警戒しているのが分かっているからだ。 それに、覗く事で相手の本音を知ってしまう事が、折角出来上がりつつある関係を御破算にする早道となるかも知れない。
彼女の方は打ち解けながらも警戒を解かない、そんな感じだったが、彼の方は会う度に打ち解けて行き、気さくに色々な話をする様になった。
『工場』や『木更津』の人間がこの様子を見たら目を丸くしたに違いない。 子供の頃から人見知りがあり、他人に自分から声を掛けることなど滅多に無い彼が、にこやかに、楽しそうに女の子と話をしている。 普段の彼からは全く想像付かない態度だった。
次はスクーターにしよう、と彼は思う。
実験棟の若手技官が川崎重工業の大型スクーターを持っている。 あれを貸して貰おう。 そうすれば制服姿の彼女も運転する事が出来る。
「あれ! バイク、どうしたの?」
「借りた。」
「へえ、かっこいいね、これ、スクーター?」
「そう、大型のね。」
次の夕焼けの日、彼は真っ白に塗装され、ピカピカに磨き立てられたカワサキの大型スクーターで橋に乗り付けた。 実用一点張りの国産二輪車にあって、珍しく曲線を多用したフォルムと近未来的なデザインの大型スクーターで、あるお上お抱えの国民的デザイナーが、やっかみ半分に頽廃的デザインだと指摘したお陰で、却って売り上げが急増したといういわく付きのモデルだった。
この手の車両は、日産自動車がヒットさせた一連の2人乗りスポーツカーと同類で、大いに警察を刺激し、普段は見逃されるような軽微な違反も取り締まりの対象にされると信じられ、一般ドライバーやライダーからは敬遠されている。
しかし、そこに妙なスリルを求めるマニアや、絶対に検挙されないと信じる一部有力者の間では賞讃の的となり、この種の車両を運転する事はステータスシンボルと化しているのも事実。 実際、ここに来るまでに、国道や重要道に必ず設けられている緊急公用車の優先レーン、『国家優先レーン』を70キロでひた走るスクーターを、羨望半分で見返すドライバーの多かった事。
「私も乗れるかな?」
「免許は?」
「普通自動車なら。」
「原付に乗った事は?」
「こういうやつの小さいのには、以前乗っていたことがある。」
「なら大丈夫。 乗って見る?」
「いいの? これ排気量が大きそうだから、私が乗ったら違反でしょ?」
「警察が来たら何とか誤魔化すよ。」
彼女は吹き出すと、
「じゃ、お願い。」
東京側の河川敷で、まずはゆっくりと真っ直ぐ走らせる。 彼女は予想通り直ぐにコツを掴み、夕焼けが消え掛けた頃には、右に左に蛇行させたりしながら乗り回していた。
白いシャツに黒いスカート姿の彼女が運転すると、急速に暗くなって行く中、白いシャツだけが走って来る様な錯覚を覚える。 ヘッドライトを付けて暫くして、彼女は彼の前に停まる。
「ありがとう。 面白かった。 もう地面が良く見えないから、穴にでも嵌ってコケる前に止めておくわ。」
大き過ぎるヘルメットを脱いで彼に渡すと、代わりに自分の上着を受け取って袖を通す。 ハンカチで汗を拭う彼女は今まで見た中でもっとも生き生きとしていた。
「しかし爽快よね。 貴方がバイクに乗る気持ち、良く分かる。 これって独りになれるのね。」
「うん。」
彼女が満足したのなら、嫌がる技官を宥めすかし、無理してこいつを借りた甲斐があったというものだ。 彼のネイキッドではスカート姿の彼女は乗れないし、ズボン姿になっても汚れる心配もある。 それにエンジンをきちんと見なくてはならなかったから、ちょうどよかったのだ。
「じゃ、そろそろ帰る。」
「うん。」
彼はスクーターを押して土手の取り付け道を登った。 彼女は後ろから何か考え事をしながら付いて来る。 土手の上に上がると彼女は、
「それ、二人乗り出来る? 私が後ろで。 あ、跨がないと乗れないか・・・」
「大丈夫。 横に向いて乗ればいい。 ゆっくり走るから。」
「じゃ、家まで送ってくれないかな。 近くだから。」
「いいよ。」
彼はスクーターをスタンドするとヘルメットを渡し、
「それ被って、後ろに詰めて横乗りで、そう、左側に足を出して。」
彼女がそうすると、彼はスタンドを外して前に乗り、エンジンを掛けながら彼女に、
「僕に腕を回して。 そう、腰に。 しっかり持ってて。 行くよ。」
すると、彼女は、
「貴方のヘルメットは?」
「ないよ。」
「警察捕まるよ?」
「そうなったらなっただけ。 行くよ。 何処?」
「橋を渡って右、土手下へ降りる道があるから、それを150メートル行った左側、4階建ての官舎が4棟並んでいるわ。 その手前で降ろして。」
「アイ、マーム。」
「何それ?」
「了解、女性士官殿。 USマリンコ(米海兵隊)じゃそう言うんだ。」
彼は返事を待たずに走らせた。 背中の彼女が腰の締め付けを強める。 作業着越しに彼女の火照った体温を感じた彼には、少し昂揚するものがあった。
彼女は官舎に一人暮しをしている。 無味乾燥な、個性や装飾の全くない建物。 その白い4棟の官舎までは3分。 あっと言う間に着いてしまい、彼女はヘルメットを返すと、
「じゃ、またね。」
そのまま彼の返事を待たずに高い塀の中へと消えた。
暫くその建物を見つめていた彼は、どこかの部屋の窓に明かりは灯らないかを見るため、スクーターに乗ったまま官舎を眺めていたが、どうやら官舎の入り口を警備する門衛が、彼の方を胡散臭げに窺う様子が感じられたので、彼らがやって来る前にヘルメットを被り、走り出す。
彼女の被ったヘルメットは内革が微かに湿っていて、何か甘い薫りが漂っていた。