6;なにも、いらない(3)
次の『夕焼け』までは少し間隔が空き、彼女がグリック保安部の訪問を受けた4日後、彼と最後に会ってからは一週間が経っていた。
彼はいつもの様に夕焼けの前兆を捕らえると『工場』を定時に出て、多摩川へとスクーターを走らせた。 その時間では既に西の空には夕焼けの残滓もなく、闇が辺りを押し包み始めていた。
10月半ば、既に最高気温は10度を下回り、宵の口のこの時間、零度に限りなく近付いている。
彼は作業着の上に私物の皮ジャンを引っ掛け、向かい風に顔を顰めていた。 橋に彼女はいなかった。 夕焼け時と言うのは2人が会う合図の様なものになっていたので、夕焼けが終わったから彼女は帰ってしまった、とは考えられない。 彼女の方が待っている場合が多かったが、彼の方が早く着く時もあったので、彼は例の場所にスクーターを止め、ヘルメットを脱いでシート下に入れ、欄干に寄り掛かってタバコを吹かした。そのまま1分、彼はふと辺りの空気に妙な感覚を覚えた。そして確信すると『それ』に『声』を掛ける。
<うまいなあ、たいしたもんだ。 ほとんど気付かれないレベルだものな。 ロット・サンロクの誰か、か?>
すると今まで彼を覗き見していた『精神』が、はっきりとした軌跡を残して消え去る。 気付かれずに『玄関』まで入ったまではいいが、慌てて後ろ姿を曝しては駄目だ。 相手はまだ幼いし甘い。 逆送して居場所を突き止める事も出来そうな程、濃密な気配が漂っていた。 間違いなく現在彼が通っている『工場』の上部組織、『中央研究所』の『ヒヨコ』だ。 彼は一瞬、跡を追おうとしたが寸での所で思い止まり、ざっと周囲の『気配』を探る。
案の定、何時の間にか監視が付いていた。
橋の袂、両側にセダン1台ずつ、更にスペアかサポートか、離れて2台ずつ。 それに『レシーバー』までいる。
― 面白い。 何かの訓練かテストか?
でも違う、と彼の感性が告げている。 彼は川崎側の1台に乗っているレシーバーにアクセスする。 先程の能力者が気付かれた、と報告したのだろう、その男には緊張感が濃密に感じられた。 が、レシーバーにまでなる男、恐怖は微塵も感じられない。 さすが度胸が座っている。
<そこのレシーバーさん、聞こえているよね?>
見事に気配を消し、無心でいるが、もう繋がって―― アクセスされているのだから、それは無駄な演技とも言える。 それを察したのか、諦めの失望感が微かに漂った後に、
<降参です、中尉>
<官姓を聞いていいかな? それとも読み取ろうか?>
<ナトリハジメ、陸軍少尉、首都軍集団情報部所属>
<ありがとう少尉。 ばれたのは君のせいではない事を上司に言っておこうか?>
<その必要はありません。 『記憶』しております。 お断りしておきますが、この会話は後に証拠として採用されるかもしれません>
<了解した>
レシーバーが外部記憶装置にダブルアクセスして思考会話を記録している。 この思考会話自体が責任者にストレートに伝わるし、ひょっとするとリアルタイムで聞いているかもしれない。 なら話は早い。
<一つだけ聞いておきたい>
<何でしょう?>
<僕はあの『竹崎事件』での連座を疑われているのだろうか? 『ルシファー』はそのために拘置され尋問されていると聞くが>
彼が、半年ほど前に発生した高官の反逆事件に関与したと疑われた能力者を引き合いに出すと、少尉はきっぱり否定する。
<それはありません。 貴方は疑われておりません>
<ではこれ以上、理由は尋ねない事にする。 僕が何か重大なヒューマンエラーを起こしているのなら、君たちはコソコソしないで僕と対峙するだろうし、だから別の調査の一環だと想像するが。 考え方はその方向でよいのかな?>
<よろしいですよ、中尉>
<では君らは仕事を続ければいい。 それがまだ必要ならね>
すると相手は、明らかに誰かと相談する気配を見せた後、
<上司から伝言があります>
多分、担当官が隣で、手話か筆談か何かで指示したのだろう。
<どうぞ>
<中尉の『火遊び』が、『大宮』や『多摩』の方々の注意を引いております。 先方には引いて頂きました、どうか中尉も事を荒ら立たせませんように、とのことです>
<なるほどね。 ご忠告痛み入ります、考えて置きます、と>
<上司は、考慮の余地はない、と申しております。 ただ、突然のこと故、一晩、冷静にご自身の立場をお考え頂いたとしても、非難は出来ないだろう、とも申しております>
<譲歩して頂き申し訳ない、ありがとう、と伝えてくれ>
<了解しました>
<ではこれで失礼する、名取少尉>
彼は返事を待たずにアクセスを切ると、乱暴にヘルメットを取り出して被り、セルではなくスターターをキックする。 エンジンは直ぐに掛かりアクセルの反応も良い。 但しまもなく本格的な冬を迎えるので春までは乗れなくなるだろう。
彼はそのまま橋を渡り切るとタイヤを軋ませて右折し、土手添いの道を突っ走った。 橋の袂に停まっていた名取少尉たちのセダンを横目に通り過ぎると、その黒塗りの2000ccは土手に沿って停まっていた仲間の2台と共に動き出し、彼を尾行し始める。 勿論双方知られている事を知っているので尾行と言うより付いて来ると言う感じだ。
直ぐに彼女の官舎前に付くと、入口の警備はいつもの警備ではなく、暴徒鎮圧用のものものしい出立ちの武警の機動隊員2人で、歩哨の様に入り口を塞いでいた。
官舎の彼女の部屋を見上げると、引かれたカーテンの隙間から明かりが漏れている。 暫らくヘルメットも脱がずに窓を見上げていた彼は、やがてこちらの存在を無視して立ち続ける機動隊員に、降参、とばかり軽く両手を上げると、スクーターのエンジンを掛け、振り返らずに3台のお供を連れて国道まで戻って行った。 結局カーテンは、ピクリとも動かなかった。