5;深い森の記憶の果てに(1)
注意
今回、登場人物の会話中に性行為を暗示する言葉が出て来ます。
本作は性行為を描写する事を主眼としておりませんし、
行為そのものを直接描写することもありませんが、
15歳以下の方、及びその手の表現に不快を覚えると言う方は回避をお勧めします。
*5
彼は森の中にいた。 枝だけになった木々の間から寒々とした蒼い空が覗いている。 踏みしめる落ち葉は湿って滑りやすく、日陰の部分では凍ったままの場所があり、踏めば、ばりばりと小気味よい音を立てる。 子供がよくやるように、わざと日陰の凍った地面を選んでばりばり、ぎゅっぎゅっと盛大な音を立て、彼は歩いた。 木漏れ日は弱々しく一向に日差しの温かみを伝えない。 明るく見通しのよい森なのに何とも陰気で、空気までもが淀んで黴臭さを漂わせていた。
彼がなぜこの森の中を歩いているのか、理由は分かっているはずだった。 目的があり行き先がある。 それに向かってひたすら歩いている。 そう意識していた。 が、肝心の理由や目的を改めて考えて見ると、何一つ分からない、頭は真っ白で何も浮かんでこない。 頭も身体もしっかりと意識しているのに、精神にはそれが見えない、そんな感じがする。 それを考えると焦り始めた。 この感覚、何処かで経験している。 デジャブではない。 はっきりと覚えている。 そう、微かに甘い香りと共に・・・。 それは吐き気を催すほどの恐ろしい体験で――
余りにも生々しい夢に飛び起きた彼は、暫く飛び起きたまま辺りを見回し、現状を把握する。
― 大丈夫だ、自分はここがどこで、何のためにここにいるのか、分かっている。
膝を引き寄せ顔を両手で覆い、呼吸が落ち着くまでそのままでいた。 やがて、安らかな寝息を立てていた彼女が、気配を察したのかふと目覚め、横で彼が頭を抱えているのを見ると身体を起こした。
「どうした?」
「いや・・・なんでも。」
ドアの脇に灯る足元灯以外、遮光カーテンで月明かりも差さない闇の中、夜目にぼんやりと映る彼の姿は身体に汗が珠となって浮かび、なんでもない様には見えない。
彼女が身体を延ばしてベッドサイドの読書灯を点けようとすると、彼の左手が伸び、彼女の肩を引き寄せる様にして、
「明かりを点けないで。」
擦れた声で頼んだ。 彼女はそのまま身体を彼の方へ倒すと、自分の胸に彼を引き寄せる。 彼はされるままに彼女の胸に顔を埋めた。 汗が彼女の胸を濡らし、手をやって撫でた彼の髪もびっしょり汗をかいていた。
彼女は見かけの若さの裏に、子供を産み育てた母としての経験がある。 彼女の子供も彼より5歳程度年上なだけ、彼とは全く彼女の子供と呼んでも差し支えない歳の差なのだ。
「いい子、大丈夫、怖くないわ。」
彼女は幼子をあやすつもりで彼を包む。
「怖いものなんていないから。」
彼はじっと彼女にしがみついたまま、目を閉じ、悪夢が晴れるのを待つ。 そのまま10分程もそうしていたが彼女は時折、いい子、大丈夫と声を掛け、優しく身体を撫で続けた。 漸く彼は身を起こし、一つ大きく首を振ると、
「ありがとう、情けないとこ見せちゃった。」
「いいの、気にしないで。 それより、どうしたの?」
「ひどい夢を見た。」
「どんな?」
しかし、彼は被りを振り、
「どうでもいい、それより、寝た方がいいよ、まだ3時だ。」
「目が冴えたわ、貴方こそ寝なさい。」
「でも、」
「いいから寝なさい。 見ていてあげる。 貴方が寝たら私も寝るわ。」
「済まない。」
彼は疲れた様に身体をベッドに沈める。 彼女はその横に添い寝の形で横たわると、彼の背中に腕を回し、彼の顔が彼女の胸元に来る様にした。 2人で闇に微かに見える天井を見つめ、まんじりともしない時がゆっくりと過ぎて行く。 彼の呼吸は次第に落ち着き、時折深く吸い込む音がするだけとなっていた。
彼女はじっと動かず、彼の頭を抱えたまま、何も考えず、ただ機械的に彼の背中の窪みに沿って右手を往復させていた。 ふと気付くと何かが太股を突くのを感じ、彼女は喉の奥で笑いながら、
「したい?」
と聞く。 彼は、逆に、
「したいの?」
「好きにしていいよ。」
彼女が言うと、
「こうしている方がいい。」
彼は呟く様に言う。
「そう。」
彼女はそう言うと彼の髪に唇を押し付ける。 暫くそうしていると彼は彼女から離れ、仰向けに寝転ぶ。 そして彼は唐突に身の上話を始めた。 今まで一切自分の話はせず、どこで勤めている、とか、どんな身分か、などの情報が欠如したまま、背景の説明なしに次の話をしたのだが、彼女は黙ったまま話に耳を傾けた。
「5年程前、あれは北海道、訓練をしていたんだ。 割り当てられた目標にアクセスし、指揮系統をマヒさせ様と・・・対象は200キロ離れた函館にいる、こちらは夏でも寒いくらいの森の中で、そう、今見た夢の状況そっくりで・・・」
―――――――――――
長距離での思考潜入。 彼には慣れたものだった。 ものの数分、対象の思考をねじ曲げ、幻惑し、誤った方向へと思考を誘導した。 対象が自身気付かない内に、本来考えていた事とは全く異なる命令を下すと、彼は離れ、あっという間に自分自身を見下ろすところまで戻って来る。 そこでいつもの様に意識を身体に残した意識と重ね・・・彼は押し戻される。 自分自身に精神が入れない。 身体に戻れなかったのだ。 もう一度、今度は集中して・・・。 だめだった。
彼にとり、こんな事は初めての経験で、さすがに焦りが生じ、動揺が始まる。 すると自分の身体がひょいと空を仰ぎ見た。 自分はそんな事を考えていない、なのに勝手に身体が動いている。 しかも、無意識下の行動だとしてもこの表情は!
それはとても自分自身とは思えない、笑顔のカリカチュアとも言うべき凄まじい笑顔とでも呼べばよいのか、背筋が思わず硬直しそうなほどの異様な表情だった。 硬直すべき背筋はその嗤う身体にあるのだ、という不条理に気分が悪くなる。
彼の精神が驚愕で固まる中、それを見つめる目は狂気を示して見開き、すると身体は右手を上げ、親指を上に、人差し指を真っすぐ伸ばし、残る三本を握って、上空に漂う彼の精神を狙う。
ぱーん。 口の形がぎこちなくそう動くと、拳銃を撃つ真似をした。 そして、身体は右手を下げ、そのまま腰のホルスターから32口径の特殊部隊仕様の拳銃を取出し、にたにた笑いながら安全装置を外し、スライドさせて初弾を送り込む。
― まさかそんな!
そのまさか、を、にたにた笑いを浮かべた彼の身体は、あくまで遣り遂げようとするらしく、そのまま右手を上げ、銃を右のこめかみに当て、そのまま引き金を・・・
― やめろっー!
精神は叫ぶが間に合わない。 銃は発射された。 乾いた銃声が響くと、彼の身体は糸が切れたマリオネットの様に崩折れた。
離れた所にいた彼の護衛4人は、銃声で我に返ったかの様で、慌てて駆け寄るが正しく後の祭り。 その時、鋭いホイッスルが短く3回吹かれ、左腕に白地に黒く『審判』と書かれた腕章をした野戦服の士官が2名、駆け寄って来る。
「大丈夫か?」
一人がしゃがんで彼の身体に手をやり、呻きながら起き上がろうともがく彼を支えた。 彼の視界は突然開け、彼は自分が身体に戻っているのに気付く。 すると彼が無事で、怪我もない事を確認したその腕章の男は、
「エスツー戦死。 確認されたい!」
大声で宣言すると、20センチ四方の赤いプラスチックの板に、紐を付けてゼッケン状にしたものを彼の首からさげた。
「やられたな。」
彼の所属する隊の指揮を採る中佐がやって来て、
「一体どうしたんだ? うまく行っている様子だったのに。」
彼は未だぼんやりする頭を振り、
「分かりません。 多分認知していなかった敵のサイに隙を突かれたかと。」
「珍しいな、少尉が不覚を取るとはね。」
「申し訳ありません。」
「状況は?」
とこれは審判に、
「新開少尉が最後に行った思考攻撃が有効かどうか確認しています、暫らく休止のままお待ちを。」
ハンディトーキーを耳に当てたままの腕章の男が言う。 中佐は、
「小休止だ、全員その場で待機!」
命令は口伝えに広がり、カチャカチャと装備を下ろす音が広がった。 腕章の片割れが彼に近寄り、
「どうする? ここにいてもいいが、再開したら動けなくなるぞ。 死体は動かんからな。」
自らのジョークを面白くもなさそうに笑うと、
「本当に撃ち抜くかと思ったよ。」
「僕もですよ。」
右の側頭部の髪が焦げて、火薬の匂いがする。 込み上げるものをぐっと堪え、脂汗を浮かべた彼は、
「自分で離れます。」
「了解した。 この下、林を下った所に野戦偵察車が停めてある。 審判のステンシルボードがボンネットに止まっている。 鍵は開いているからね、おとなしくそこで待っていなさい。 司令部に連れていってあげよう。」
「了解しました。」