序に代え 〜 1;黄昏の橋で(1)
TS君に捧げる
― ほら、貴方の好きな愛ある話になったよ.
* 序に代え
この危うく移り気で
個の命などケシ粒の様に
儚くちっぽけな世界では
僕たちはお互いの体温でしか
己の存在を確かめられないのだろうか
夕焼けが異世界を映す蜃気楼だと言うのなら
その茜色が藍の彼方へ塗り込められる前に
僕はその幻夢の先にあるという
まほらの中へ消えてしまおう
その方法があればの話だが
もう探す時間も残されていない
――1959年10月、解放戦争(正式には北海道奪還戦争)において、旧人民共和国の仮首都・札幌陥落後、大通り公園内で発見された北側兵士の手帳に書かれていた散文より
* 1
暑い、暑い一日だった。 7月としては珍しく気温は25度を超え、横浜の気象台は午後2時の気温を27度と発表していた。
現在、国会議事堂と首相官邸がある埼玉・大宮の7月の平均気温が19度であることから、ある大手夕刊紙の編集長は、社会面に水飲み場で喉を潤す幼児の写真と共に『首都圏・第3次大戦記念日(ドゥームズデイ)に記録的猛暑』との見出しを載せようとしていた。
快晴の空を陽が西に傾くにつれ、空には幾つかの入道雲が昇り龍の様に高く、高く伸びて行く。 その雲も及ばない、高度一万数千m上空を2機の戦闘機が西に向け飛んで行き、飛行機雲が2筋、鋭い線となってするすると伸びている。
そんな1日が暮れようとする時間、1人の青年が県境の橋の上、両脇に作られた歩道の一方を中島工業製の250ccネイキッドバイクを押して歩いていた。
彼は世田谷方向からこの橋を渡って、多摩丘陵にある官舎までそのバイクで帰ろうとしていたのだが、『工場』を出て10分ほど行ったそろそろ多摩川が見える頃、突然エンジンがノッキングし出し、スピードを出してもガタガタは収まらず、やがてタンタン、という音を最後にエンジンはうんともすんとも言わなくなった。 『工場』の装備担当に電話を掛ければ、直ぐに軽トラを走らせやって来てくれる事は分っていた。 しかし生憎、班長は休暇中、次席の中年男とは何となく、そりの会わないものを感じていた。 汗臭さが染みついた軽トラの助手席で、運転する次席から何か皮肉の一つも言われながら、あの陰気な場所へと帰るのは気が進まない。 それで国道沿いに修理屋を探したが見つからず、まだ西日が顔に当たり、汗が額を流れ落ちる中、独り多摩川へ向かった。
ちなみにガソリンや軽油は販売規制品(チケット制)なのでガソリンスタンドは決められた場所にしかないし修理など請け負ってはくれない。 仕方なしに彼は公衆電話を見つけると川の対岸にある、辛うじて知り合いと呼べる自動車修理工場に電話を掛け、1時間以内に着くからと修理を予約し、国道の路肩をとぼとぼとバイクを押して行くのだった。
陽が西空から消え、辺りが茜に染まり出す。 入道雲は濃い橙とピンク色に染まり、地平から中天に放射状に延びる雲も見事な夕焼けの前兆を示していた。 緩やかな坂の向こうに多摩川が現れたのは午後6時半。 気温が下がって行くのがはっきりと分かり、川を渡る風が心地よい夕涼みの時間になっていた。
坂を登り切るとそこは大きな橋の袂で、土手や河川敷には散歩する人の姿が見え、犬を連れ走る人、キャッチボールをする少年たち、釣竿を肩に掛け家路を辿る老人、何時もの夕暮れ時の光景が彼の前に繰り広げられる。 彼は額の汗を拭うと再びバイクを押して橋を渡り始めた。
欄干にはぽつんぽつんと川や空を眺める人間がいて、彼はその横をすり抜けるように押して行く。 すると橋のちょうど中間、川ではなく橋越しに西の空を眺める人物に注意を引かれる。
暑い一日だったのにダークなスーツ姿、ワイシャツに細身の紺色のネクタイ、タイトなスカートは膝丈で黒いストッキングにヒールの低い黒革靴、典型的な中央官庁所属女性の制服姿だった。
もっとも制服姿は彼も同じ、階級章の付いていない陸軍の作業着を腕まくりして着ている。 それだけではない。 その周辺にいる全ての人間が制服かそれに準じる服装だった。
自転車で橋を渡って家路を急ぐ少年は地域少年団の、向うから自転車でやってくる中年男性は国防自治軍の制服を一分の隙も無く着こなし、犬を散歩させる80代と思しき老婦人すら私服ではあるが何の意味か、『K-03-08』とステンシル風文字が染め抜かれた腕章を付けている。
彼はバイクを欄干の脇に寄せるとスタンドを立て、欄干に歩み寄ると胸ポケットから煙草を出し、軍標準のオイルライターで火を付け 深々と吸い込みフーッと吐き出す。 人口が戦争により激減したこの国は18歳で成人である。 であるから、19の彼が喫煙するのは違反でも何でもない。 但し10代で飲酒も喫煙も許されている事が前年厚生省のプロジェクトチームから平均寿命を短くする行為と指摘されるに至っているが、正されるとしても時間はかかるだろう。
彼も欄干に寄り掛かると西空を仰ぎ見る。 まるでオーロラの様な縞模様に陰影を深める夕焼け。 魅せられる様に空を見つめる女も10代、彼と同じ年代に見える。 間を5メートルほど開け、2人は並んで夕焼けを眺めた。
どの位そうしていたろうか、夕焼けは更に深い色を見せ、中天は褪せた藍色になって上弦の月が目立つ様になった頃、彼女の独り言のような呟きが聞こえて来た。
「夕焼けは2つの世界を繋いでいる。 あの紅いそらは、『彼方』の空を映す鏡、蜃気楼の様に彼方の街が映る時もあると言う。 けれどそれが見える者と見えない者がいるわ。」
どこか幼さが顔に残る女は欄干に凭れたまま目を瞑ると、
「このままあそこまで歩いて行き、あのそらの彼方へ行けたら、どんなにかいいだろう。」