雨の革栞
僕が雨の中落とした栞は、再び僕の前に現れた。
とある土砂降りの日、文庫本を片手に傘を差し家を出た。どうやら、その時僕は左手の本の扉を下向きに持っていたらしく、栞はどこかで落としてしまった。
それに気付いたのは駅に着いて本を開こうとした時だった。蔵前で購入した革の栞だった事もあり、残念に思いながら学校へ向かった。
街を曇らせる雨は結局止まないまま、一日は流れていく。
翌日は昨日の天気を裏返した様な晴天が広がっていた。晩秋の透き通る空気が舗装路を乾かし、歩く僕の頬を街の湿った風が撫でる。
学校に行く左手には文庫本、昨日より自由なもう一方の手はポケットの中に微睡んでいた。
少し不自由な読書に我慢しながら、学校へ向かった。
無機質な紙栞、無表情な僕、この無関心を繋ぐ文庫本。
まるで友達と、その友達の友達と一緒にいる様な緊張感がそこには存在した。
この本が用事を思い出して何処かへ行った時、僕も何かの用事を思い出すだろう。
きっと、この紙の栞だってそうだろう。
最寄り駅に着いた時本を閉じて、二人の元から離れる。
気まずい読書のせいか、大学の講義のせいか、少しの疲労感を覚えて駅を出る。
斜陽の家路に、僕を待つ栞の姿があった。
家から数十歩の場所で、帰る僕を待ち続けていた。
見慣れた姿に、足が思わず早くなる。
道路の端に、捨て置かれたゴミの様な姿で横たわる小さな友人。見間違えではなかった。
再開の喜びの直後に訪れたのは、罪悪感だった。
雨に塗れ踏まれた痛々しい姿を以て、僕の落とした罪を無言で責め立てる。
鮮やかな深緑色も、艷やかな肌触りも、型押しされた僕の名前も、全部ぐちゃぐちゃだった。
ただ薄汚れて雨に濡れた醜い栞。僕を待ち続けた痕。もっと早く気付いてあげればもう少し違ったかもしれない。
油を塗っても、謝罪を払いのける様に色は褪せたままだった。
無数に入った傷に関してはどうする事も出来ない。
だが、再会の喜びは醜美の感情を蹴り飛ばす。姿形が変わっても、それでもそこにある彼が彼なのだ。
そして、これからも使い続ける事こそが、唯一の謝罪だった。それが僕の他でもない意思だ。
季節は巡り、あの雨の革栞は色褪せた傷だらけの体で僕の本と僕を繋ぐ鍵として、今も新しい世界への扉を開いてくれている。
左手に抱えた本の背を下に、今日も僕は家を出る。
春の訪れも近い、穏やかな風が僕の頬を撫でた。