二話
久しぶりに心地よい目覚めだった。
窓から差し込む朝焼けの中、ポポルちゃんの意識はゆっくりと微睡みの中から浮上していく。
「……?」
おや。背中が随分と柔らかい。確か昨日は宿に泊まったのだったか。いや、しかし無一文になってから久しい自分にそんな金はない。宿代が後払いの筈がないし、だとすれば適当な人間から奪いでもしたか。
ポポルちゃんが目を開ける。汚い天井が見えた。随分なあばら屋のようだ。
続いて周囲を見渡す。あの天井を見た時点で期待はしていなかったが、やはりボロの掘っ建て小屋だ。調度品もまるでゴミ捨て場から掻き集めてきたような物ばかり。いや、事実としてそうなのだろう。覚えている限り、自分が最後に身を隠したのはトロメアの汚らしい裏路地だ。となれば、自分をここまで運んで休ませてくれた物好きも、貧民街の住人と考えて間違いはない……この少年のことだ。
「うぅん、むにゃ……」
「…………」
己がいま横になっている寝台に上半身を寄りかからせ、伏せる様にして眠っている。
ーーいや、眠っているふりをしている。
ポポルちゃんの冷徹な観察眼が告げていた。
目の前の少年のそれは狸寝入りであると。
現に、少年の右肩の肩甲骨が不自然な強張りを見せている。これはポポルちゃんの経験からいって右手に何かを隠し持っている証拠。
「(……おそらく手の平と袖口に隠しきれるくらいのナイフ)」
当たりをつけ、今度は少年自体を注意深く観察する。
年の頃は自分とそうは変わらないだろう。
ワインレッドの珍しい髪色をしている。瞳の色は閉じられていてわからないが、全体的な印象として顔立ちは中々に悪くない。優れていると言っても差し支えないだろう。
次に体つき。ここからは上半身の背中しか見えないが、こちらも年の割には中々に鍛えられているし、貧民にしては必要な肉もちゃんと付いている。
服装こそボロだが、ちゃんとした身なりをすればいち市民として大手を振って街を歩けるだろう。
「……っ」
ポポルちゃんがスッと目を細める。
少年の背中を見ていて、昨夜の事を思い出したのだ。
そうだ。自分は六人組に追われ、あの裏路地で絶体絶命の危機に瀕していた。そのとき、突然自分の前に現れたのがこの背中だった。
目を閉じれば鮮明に思い出せる。
あのとき自分が感じていた恐怖も、死の実感も、突然現れた少年の頼もしさも。
「…………」
手を伸ばす。
ポポルちゃんにしては珍しい、何の含みもない咄嗟の行動だった。ただこうしたいと思った通りに、何の計算も働かせず、ただ手を伸ばした。
そして少年の背中に触れる。
「ーー!」
触れた瞬間、ピクリとその背中が震えた。服越しに、少年がじっとりと汗ばんでいるのがわかった。
ーー自分を警戒しているのだ。
そんな当たり前のことを今更自覚して、ポポルちゃんはフッと笑った。
そして触れたままにしている手を動かして、少年の背中をゆっくりと撫でる。
「……ありがとう」
そうポツリと呟いて寝台を降りると、そのまま少年の小屋を後にしようとする。
今の自分は一文無し。杖やアミュレットはこの二年のうちに売り払ってしまった。
少年への礼が出来ないのが少し心残りだったがーー
「待ってくれ!」
出入り口の前に立つポポルちゃんの背に向かい、少年がそう叫んだ。
「話を聞いてほしい」
「…………」
ポポルちゃんは無言でもって振り向き、先ほどまで閉じられていた少年の灰色の瞳を真正面から見据えた。そうして本当に、少年に自分への害意がないことを悟ると、一つ頷いて手頃な所にあったボロ椅子に座るのだった。
「私に……魔術を教えて欲しいの?」
「そうだ」
あのあと、二人は互いに簡単な自己紹介をしていた。
それによると少年の名はアッシュ。親類は居らず、つい数ヶ月前にこのトロメアの貧民街にやって来た新参者であるらしい。
ポポルちゃんも己の今置かれている立場を正直に話したが、やはり少年は頷くだけで逃げることも人を呼ぶこともしなかった。
そしてポポルちゃんが本当に手配書の「火の悪魔」だということを確認したアッシュ少年が、先のような願いを申し出たところまでが、これまでの一連の流れであった。
「アッシュ」
「あ、はい」
「私に殺されるとか思わないの?」
ポポルちゃんの冷徹な口調に、アッシュが思わず黙る。
「さっき寝たふりしてたよね」
「……バレてたか」
「今もこっそり武器持ってるし」
アッシュは咄嗟に自身の右袖をめくり上げ、所々刃の欠けた小振りのナイフを床に落とした。そしてきまりが悪そうに俯く。
「別に見咎めた訳じゃないんだけど」
「いや、でも。何ていうか。仮にも俺、教えを請う立場なんだし……」
アッシュが済まなそうにそう言う。
「私はただ、そこまで警戒しておいて、何でその上で魔術を教わりたいなんて言い出すのかなって思っただけ」
「それは、その…」
「言いたくないなら良いけど」
「んー、じゃあ言いたくないから言わねぇ」
「……わかった。じゃあ、どうして私に対する警戒を解いたのか。これだけ教えて。武器を隠して寝たふりしてたってことは、少なくとも私が起きるまでは敵対する気あったんだよね」
「それは……まぁ、事によっては? っていうか」
「まさか背中を撫でられてお礼を言われただけでーーってことは無いだろうし」
「えっ」
アッシュが目を瞬かせて黙り込む。どうやら、本当に撫でられて礼を言われただけで極悪指名手配犯への警戒を解いたようだった。
思わず赤面するアッシュを、ポポルちゃんは冷徹に観察し続ける。
「……いいよ」
「?」
「だから、いいよ。こんな犯罪者で良ければ教えてあげる。魔術」
「ほんとか!」
「ただし」
満面で喜びを露わにするアッシュだったが、人差し指と共にポポルちゃんからある条件を突きつけられる。
「ただし、授業料として私もこの家を使わせて」
「もちろん良いけど……そんだけ?」
「うん。あ、それと私がここにいることは誰にも言わないでね」
「そりゃ言わないけどさ」
「じゃあそんだけだよ。あと、私のことはポポルじゃなくてエメレナって呼んでね、アッシュくん」
ポポルちゃんがそう言ってニコっと笑う。
その美少女指名手配犯の無邪気な笑顔に、アッシュはほんのり顔を赤くして応えたのだった。
取引とも呼べない、簡単な口約束を交わした二人は、それから揃って朝食の準備を始めた。
アッシュはとあるツテから入手したという芋を焼いて食うのだと言ったが、ポポルちゃんが「せっかくだから」と芋を使って簡単なスープを作り、アッシュに振る舞った。
なぜ芋と塩だけでここまで美味くなるんだ、と驚くアッシュに、塩加減って大事なんだよ、とニコニコ顔で答えるポポルちゃん。
二人は仲良く朝食を終えると、手早く皿を洗って再び顔を付き合わせた。
「さて、それじゃあ早速魔術の修行を…」
「それはちょっと待って、アッシュくん」
えー! と大袈裟に肩を落とすアッシュに苦笑しながら、ポポルちゃんは昨夜の六人組の件に関して話し始めた。
「アッシュくんのこのボロ……お家って」
「いまボロ屋って言おうとしたよな?」
「まさか。お家って、昨日のあの現場からどのくらい離れてるの?」
「ん、んー。まぁ……歩いて十分? くらいか?」
「へぇ。昨日、アッシュくんは私をおぶってここまで運んでくれたんだよね?」
「ああ。あっ…べ、別に変なこととかはしてねぇからな!」
「尾行はあったかな?」
「あ、うん。えっと……一応気にはしてたけど、つけられてる気配はなかった」
「そうなんだ」
ポポルちゃんはそう言って恩人の手前胸を撫で下ろして見せたが、内心ではアッシュの言葉などあてにしていなかった。
「(最悪、この場所も既に連中に知られてる可能性がある。すぐにでも逃げた方が絶対に良い……でも)」
知らず、ポポルちゃんの体が震える。
「(宛てのない旅の中で、またあんな風に死にかけるのは嫌だ。だったら…)」
ポポルちゃんの双眸が目の前の少年を見据える。
目が合い、少年は照れ臭そうに頭をかいた。
「私、信じるね」
「え?」
「尾行されてなかったって話、信じるよ」
ポポルちゃんはニッコリ笑ってそう言った。
本当に何の根拠もなく、アッシュの言うことを信じ込むことにしたのだ。自らの生命の安全を他者に委ねる……以前の彼女からは考えられない暴挙。
しかし、ポポルちゃんにとってアッシュという少年は、この二年間で初めて出来た恩人であった。住居を提供してくれて、今もこうして嫌がることなく自分の側にいてくれる。
まだ会って一日とたたないこの少年を、ポポルちゃんは信頼し始めていた。
「じゃあ、早速魔術を教えてあげるね」
「おう!」
「何か書くものをちょうだい」
アッシュはポポルちゃんの言うことに素直に従い、部屋の隅でゴミとして丸まっていた広告紙と五センチほどの長さしか残っていない鉛筆を差し出した。
「ありがとう」
ポポルちゃんは丸まった広告紙を丁寧に引き延ばすと、短い鉛筆を持ってサラサラと何やら書き物を始めた。
「あ、しまった。アッシュくん文字…」
「ああ。大丈夫、読めるから」
「……へぇ」
再び筆を動かし始めるポポルちゃん。
そして淀みなく書き終えると、裏面がびっしりと埋まったそれをアッシュへと渡す。
「『くらげ草』『人耳茸』『赤露根花』……何だこれ? 家庭菜園でも始める気か?」
訝しむアッシュに対し、ポポルちゃんは己の長く尖った耳を指差して見せる。
「アッシュくん、この通り私はエルフだよ。エルフの魔術には草花が必要であって然るべき。そうでしょ?」
「へぇ〜そうなんだ」
「じゃあそれ、探してきてね」
「!?」
ポポルちゃんは軽く言ったものだったが、たった今広告紙の裏面に書き出された品の数は三十にも登る。それらを全て見つけ出し、ましてや手に入れるとなると、莫大な時間がかかるだろう。
一月。三月。もしかするとそれ以上かかる可能性もある。
「心配しないで。殆どがこの辺りに自生してる品種だから。ほら、植物の特徴も書いてあるでしょ? とりあえず一週間探してみて欲しいな」
「うーん」
「ねっ、絶対に後悔させないから」
「……わかった。やるだけやってみる」
「ありがとう!」
渋々といった様子で頷いなアッシュの手を、喜色満面のポポルちゃんは両手で握り込んだ。
「〜〜! み、見つけてきたら、今度こそ教えて貰うからな!」
「うん!」
顔を真っ赤にしたアッシュが少し乱暴に手を振り払い、ボロの外套を引っ掴んで外へと飛び出していく。
ポポルちゃんはその後ろ姿を笑顔で見送ったあと、椅子に座って目を積む瞑り、まるで僧侶のように瞑想を始めた。
ーー魔力とは強健な精神にこそ宿る。
現在の完全に心を折られた状態のポポルちゃんでは、以前のようなキチガイじみた魔術を使うことはできない……それどころか、見習いの魔術師にさえ敵わないだろう。
これではアッシュの師として範を示すことすらままならない。
自身を見失うということ。誇りを失うということ。これは魔術師にとって死も同然。一切の魔術を使えなくなったとしてもおかしくはないのである。
そして言うなれば、今のポポルちゃんはその一歩手前の状態。この二年間で何度も辛辣を舐め、己を曲げ、恥をかいてきた。
故に以前のような魔力を取り戻したければ、それらの出来事……『ポポルちゃんの心を弱らせる過去』と折り合いを付け、乗り越える必要があるのだ。
だからこそ瞑想をする。
この家の主であるアッシュを追い出して、外界を完全にシャットアウトし、内なる己を覗き込む。
「(殺しはもういい……自衛の為、少しでも力を取り戻す)」
逃走中は常に気を張っていたので、とてもではないが瞑想など出来たものではなかった。
逃亡の日々にただただ擦り切れ、弱る一方だった。
しかしアッシュの「追っ手はこない」という言葉を無理やりにでも信じ込んでいるお陰か、ポポルちゃんはスムーズにリラックスして、瞑想に入ることが出来たのだった。
「……レナ、エメレナ!」
「!」
それが己を呼ぶ声だと気づくのにしばらくかかった。
ポポルちゃんは己の内側から脱し、現世へと意識を戻す。すると、目の前には心配そうな顔でこちらを覗き込むアッシュがいた。
どうやら瞑想に集中し過ぎて時間の経過を忘れてしまっていたらしい。
窓の外を見ると、太陽は既に中天に差し掛かっている。アッシュが飛び出していってから、四、五時間は経過したという計算になる。
「大丈夫か?」
「うん、ボーっしてただけだから」
「なんだよ。こっちは汗水垂らしてたっつうのに」
「ごめんごめん」
ポポルちゃんは殆ど上の空で返答しながら、先ほど取り戻したばかりの意識を今度は自身の腹の奥底へと向けた。そこには黒く粘着質な、まるでタールの湖のような領域がある。
それこそはポポルちゃんにとっての魔力のイメージであった。
「(本当にほんの僅かだけど、戻ってきてる……)」
ポポルちゃんはそれを確かめると、今度こそ心からの笑顔をアッシュに見せた。