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破界の魔王と吸血少女  作者: めらめら
第10章 在りし日の歌
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吹雪の女王

「いや、いや! 放して、帰して!」

「ちょっと待って……落ちついて……あなた!」

「うう……母さん……!」

 寝かしつけられていたソファーから転がり落ちて、取り乱した様子でその場から逃れようとするシュライエを見て、私の中の何かが騒めいた。

 シュライエを押しとどめようとするユウコ。狼狽えるばかりのキョウヤ。


 何かが、気になった。

 私は私の内を覗いた。

 シュライエの肉体に私の蝶を宿した時に味わった、彼女の血の味を反芻した。

 血の内に秘せられた彼女の記憶を、過去の断片を探った。


 ………ジジジ……ジジ……ジジジジ………


  ###


 最近、パパが私に乱暴をする日が判るようになった。

 そんな日は朝から首の後ろがチリチリして、景色がぼんやり霞んで見えるのだ。

 ちょうど今日みたいに。ママは一階のリビングに下りていって、いつも通り、黙ったまま。


「なんで言ったとおりにできない! 悪い子だ、悪い子だ!」

 ベッドの上で私に馬乗りになったパパが、何度も、何度も、私の耳元で犬みたいに呻る。

 仕方がないのに、身体が震えて、上手く動けないだけなのに。

 パパと一緒の夜は、本当に怖い。


「もういやだ……もういやだ……」

 私は、パパの声を聞かないようにする。

 サアサアと窓を叩く夜の雨の音だけに、耳をすます。

 パパの動きに合わせて真っ白な雪を撒き上げる、窓際のスノードームだけに目をこらす。

 パパに突かれた身体の痛みも、今は他人事のように遠く感じる。

 ベッドから伸びる重なり合った影が濃くなっていく。

 景色がユラユラ揺れる。目の前が暗くなる。

 

 影が床一面に広がって、私の心が、影に沈んでいく。

 ここがどんなに恐ろしくても、パパがどんなに恐ろしくても。

 私の心は消せない、私の背中に広がる私の深淵に底は無い。

 もっと潜ろう。もっと深く。

 より遠くまで。さらなる暗がりまで。


 私は、もうずっと前の記憶を手繰る。

 まだお祖母ちゃんが生きていた頃、私が住んでいた街、時計台の立つ街の景色を。

 イメージする。こんなお家で『こんなふう』では無い私を。

 パパに汚されたこんな身体じゃない。氷のように澄んだ、冷たい、綺麗な身体!

 昔々、死んだお祖母ちゃんが私に読み聞かせてくれたあのお話。

 重なり合う。お祖母ちゃんの話。雪の女王。氷の御殿。スノードームの雪煙のむこうに聳えた真っ白なお城の姿が。


 ああ。見えて来た。闇の中。ユラユラ揺れる蒼白い炎に包まれながら……。

 私の眼下にボンヤリと浮びあがってくる、おとぎの国の、お城みたいなシルエット。

 お城の周りに、『庭』が広がり、裏手にはこんもりとした雪山が盛り上がって、ザワザワとモミの木が生え茂っていく。

 そうだ。いい感じだ。ここにしよう。今日から『ここ』で、一人で暮らそう。

 『城壁』を築いて、『兵隊』を作って、私を傷つけるヤツを絶対に寄せ付けない、私だけの、『お城』……!


  ###


「……ヒュッ!」

 シュライエの記憶の断片に触れて、私の唇から声にならない悲鳴が漏れた。

 次の瞬間、我知らず、私はシュライエの元に駆け寄っていた。


「シュライエ様……!」

 私の腕が、彼女の半身を抱きしめていた。

 私の手が、彼女の髪をかき撫でていた。


「大丈夫です、大丈夫。此処にはあなたを傷つける者などおりません。あなたは強い方。魔王シュライエ。あなたは尊い方。吹雪の国の女王。このリーリエはあなたの端女。最後まであなたにお尽くしし、あなたをお守りします……」

「大丈夫……? 大丈夫……?」

 どうにか落ち着きを取り戻したものの、なおも不安そうに私を見上げるシュライエ。

 あどけない少女のようなシュライエの貌と、緑の瞳を見つめながら、私もまた私の内に生じた変化に強い戸惑いを感じていた。

 シュライエの記憶に動転し、咄嗟に彼女を抱きしめたのは、かつて私が取り込んだ少女の意志だろうか。

 私の心の内をこれまでにない感覚が満たしていた。

 何かが締め付けられるような、何かが千切れるような。

 それはシュライエへの、憐れみだった。

 私の世界が二つに裂かれる前。原初の世界では、彼女もまたヒトだったのだ。

 あの忌まわしい裂界の時、自身の抱えた影の濃さ故、影の世界の側に引かれた(・・・・)存在。

 自身の纏った闇の強さ故、他の魔物を寄せ付けない圧倒的で、孤独な存在。

 それが『魔王シュライエ』だった。

 私の内の少女の自我がひどく動揺し、私を突き動かしたのも、シュライエの生い立ちに何か自分と重なるものを感じた故かも知れない。


「落ち着いたかしら? 『シュライエ』さん。今暖かいお茶を淹れてくる。さあ、ここに掛けて少し休んでいて。あなたも……名前は今」

 ユウコが、怯えるシュライエを気遣うように彼女の肩に手をかけながら私の貌を見る。


「私はリーリエ。こちらの世界では、そう……」

 私もまたユウコを向き、思案しながらユウコに答えた。


「レイカと、『夜白レイカ』とお呼びください……」

 私は不思議だった。

 私が取り込んだ少女の自我は、今や私自身と分かち難く結びついてしまっていた。

 少女の傷、痛み、悲しみ、憐れみが私の行動を規定していた。

 大天使として多くのヒトの心を測り、探り、審判してきた大いなる私の魂が、今ではヒトと同じく震え、戸惑い、憐れみすら覚えている。


 だが、今の私にはそれが……悪くなかった。


  ###


 ただの一夜限りであったはずのキョウヤの家への滞在は、キョウヤと彼の母ユウコの引き留めもあり、三日に、一週間に、一月に延びて行き……

 気付けば私とシュライエは秋尽の家に身を寄せていた。

 いまだ拭えない人間世界への恐怖からか、記憶を失ったシュライエはそれからも時折取り乱し、泣き叫び、館から逃げ出そうとすることがあったが、私と、とりわけキョウヤの献身的な援助によって、徐々に落ち着きを取り戻し、その緑の瞳には安らかな光が宿って行った。

 キョウヤの母ユウコの存在も、シュライエの恢復を早める要因となっていた。

 シュライエは原初の世界での僅かな安息の記憶、自身の祖母の存在をユウコに重ねているようだった。

 秋尽の館、『工房館』に身を寄せて三月もしないうちに、シュライエはキョウヤとユウコと笑顔で言葉を交わし、街を出歩き、炊事や洗濯、ユウコの担っていた家事の手伝いさえ出来るようになっていたのだ。(もっとも料理に関しては、ユウコと私の厳しいチェックが必要ではあったが)


「シュライエ……さん、今日は、気分は大丈夫?」

 秋の日の昼下がり、仕事から戻ってきたキョウヤが、テラスに出て私と紅茶を飲んでいるシュライエに、オズオズとそう尋ねる。

 キョウヤの仕事、大接界が閉じた後もなお、この世界に迷い出た影の国の住人たちを追跡、駆逐する退魔の業。

 かつて私が人に与えた術式を受け継ぎ、独自に発展させてきた妖怪ハンターたち。魔器を振った『夜見の衆』……。


「ええキョウヤさん。今日は日も照っていて暖かくて、とても気分がいいの。レイカさんと街まで買い物に行ったの。ユウコさんからも新しい献立を教わった。今日のおかずは、麻婆豆腐とブリ大根だから!」

 シュライエは穏やかに微笑んで、キョウヤにそう答える。


「そうか、そりゃ良かった。ところで、前から気になってたんだけどなリ……レイカ……」

 自分の館だというのに、キョウヤが所在無げな様子でティーテーブルの余った椅子に腰かける。

 シュライエとは目を合わさずに、キョウヤは私にそう訊いて来る。

 私は思わずクスリと笑う。

 秋尽キョウヤ。夜見の衆では勇猛果敢な戦士として名を馳せているこの男が、女に対しては本当に奥手なのだ。


「この人の……『シュライエ』っていう名前、『魔影世界(シャテンラント)』では一体どういう意味なんだ?」

 シャテンラント……『影の世界』の事だ。


「はい……シュライエ様の御名前には、山々を渡る『叫び』という意味がありました」

 私は、内心苦笑しながらキョウヤにそう答えた。


「シュライエ様が一声を上げれば、その声は吹雪を渡る恐ろしい木霊となって、山々に棲む魔物の全てを恐れさせ、たじろがせます。魔影世界最強格の魔王に相応しい立派な御名前にございます……」

 かなり歪になっているが、その『言葉』とてヒトの世界のものだったのに。

 今のキョウヤには、いやすべてのヒトは、そんなことも覚えていないのだ。


 原初の世界では7000に及んだヒトの言葉が、今のこの世ではほぼ一種に固定されてしまっていた。

 どうやら原初の世界の言語数は、この世界の新たなる『神』には手に余る(・・・・)ようだった。

 『影の世界』はと言えば……。

 一体、この世界の言語体系には、いかなるバイアスがかかっているのだろうか?

 キョウヤも誰も、疑問にすら思わないのだろうか。

 影の世界の言葉が、原初の世界のごくごく僅かな一部、極東の島国と、西欧の一国の言語の複合物(ハイブリッド)であることに……!


「そうか。シュライエ。山々を渡る叫び……木霊(コダマ)……! 素敵な名前だ……!」

 全く疑問ではないらしい。キョウヤは少し興奮した面持ちで、しきりにシュライエの名を繰り返す。


「そんな、なんだか怖い。恥ずかしい……!」

 記憶を失ったシュライエは、震えながら下を向く。


「シュライエ……さん。その、提案があるんだ……」

 キョウヤが、顏を赤らめながら、シュライエにそう告げる。


 もうこの頃には私にもわかっていた。

 キョウヤとシュライエは、互いに惹かれ合っていた。


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