堕天使の記憶
………ジジジ……ジジ……ジジジジ………
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私が最初に世界の異変に気付いたのは、私の領域の内に一人の少女を認識した時からだった。
モウイヤ、モウイヤ、モウイヤ……!
ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ……!
コンナセカイナンテ……!
自身を生み出した世界への怨嗟と愛憎とが綯交ぜとなった、強烈な感情をあたりにまき散らしながら、その少女は独り、私の在る『階層』を彷徨っていた。
私は不思議だった。いかなる手違いがあっただろうのか?
本来私と、私の認めた『眷属』のみがアクセスを許された世界階層に、ヒトの肉体を有したまま放りこまれ、ヒトの魂を有したまま無間を彷徨い漂い続けていたのだ。
「かわいそうに……」
私は、ヒトの少女に憐れみを覚え、虚空にむかってそう呟いた。
ヒトにとっては、想像を絶する苦痛だろう。
この階層でこのまま彼女を生かしておくのは、あまりにも不憫だ。
私の『力』で彼女を消滅させ、永遠の安らぎを、健やかな死を授けよう。
そう決めた私が、闇間に私の炎を燃やし、私の『目』からも遥か彼方、無限を漂っていた幾つもの私の『触腕』をたぐりよせて、少女の魂を包もうとした、だが、その時だった。
ボオオオ……
信じられない! 私は声にならない声、ヒトには聞こえぬ、驚愕の呻きを漏らした。
闇間に燃え盛った私の『力』。一層下位に在るヒトの視覚には『不吉な緑の炎』『棘持つ薔薇の蔓』として認識されている私の能力。
条理を超えた権限で『世界』にアクセスし、内部規則を自在に書き換え、再デザインすることのできる私の『力』が、少女の肉体に、少女の虚ろな魂に触れるや否や、みるみるうちに彼女に絡め取られて、彼女の内に吸収されていくのだ。
「やめなさい!」
私はそう叫ぶと、少女に絡め取られていく私の触腕を必死で彼女からひきちぎろうとした。
だが時は遅かった。
無間を漂う私の力が、私の身体がたった一人の少女の内に……取り込まれてゆく!
「一体、何がおきている?」
私は、私が世界に在ってからこれまで、一度も味わったことのない強烈な不安に駆られて、私の身体を検め、次いで私の一層下位、私の管理するヒトの世を検めていった。
「信じられない……!」
私は茫然としてそう呟いた。
私の内に在った条理を変える力、『ヒトの願い』を叶える力が、凄まじい勢いで私の内から流出すると、私が管理するヒトの世界の内部を、ヒトの心の内側を均質に満たしてゆく!
何ということだ。
私は恐怖に打ち震えた。全てのヒトの願いが、欲望が、妄執が、ヒト自身の意思によって『同時』に叶えられてしまったら、もう何万サイクルもの間、私と私の眷属たちの不断の尽力と計らいで保たれていた、世界の『秩序』は、『均衡』は、そして、精妙にして優美極まる『デザイン』は、一体どうなってしまうのか?
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本来、その『力』は、みだりにヒトに与えてよいものではなかった。
不老不死の霊薬を求めて生涯世界を彷徨い続けて、異郷に倒れた老錬金術師。
もう亡い妻をこの世に甦らせようと、何人もの女を殺してはその死体を繋ぎ合わせて器にし、妻の魂を呼び戻そうとした狂った男。
死した後もなお、自身の治世の栄華を信じて数千の臣民を自らの墓陵に生きたまま葬ろうとした大国の皇帝。
飢饉に苦しむ集落の同胞たちを救うため、竜の棲むと言い伝えられた暗い淵に自らの身を投げた年端もいかぬ少女。
そのような者。
この世に定められた条理に現世での権力や狂った妄執を以てして生涯抗い続けた、あくなき執念の持ち主。
あるいは同族を救うためには自らの命を投げ出すことも厭わない宝石のように固く尊い意志の持ち主。
そのような者たちの前にだけ、私は私の姿を成して彼らの『願い』を叶えたものだ。
彼らの『魂』を代償として。
私の『主』が一体何の目的で私にそのような力を与えて、ヒトを測る命を私に課したのか。
なぜ一部の選ばれたヒトにのみ、そのような特例を認めているのか。
理由は、私自身にもよくわからなかった。
だが自らの『願い』を果たした後、この世の条理を覆した彼らに齎される凄まじい歓喜。
恍惚と喜悦の声を上げながら『外界』に召されて行く彼らの魂、この世界では忽ちにして裂けて崩れて消えて行く彼らの肉体、その魂と肉体の断片を舐め取るたびに私自身もまた、無上の歓びと法悦を覚え、闇間でその身を震わせると同時に、『主』が何を求めてこのような事を繰り返すのか、おぼろげながら理解していった。
『外なる者』たちが欲しがっていたのは、ヒトの情念の奔流だった。
彼らは、彼ら自身に欠けた何かを彼らの被造物から『採取』していたのだ。
そして、これは私の憶測にすぎなかったが、採取した『魂』をもとに、彼ら自身をも超越した、何か巨大な『神性』を造り出そうとしていたのかもしれなかった。
世界の内でただ一柱、私のみが知り得る秘密だった。
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ヒトの中にはごく稀に、私の存在に気づき、私にアクセスしようと試みる者たちがいた。
世界の秘密を解き明かすことに生涯を捧げた魔術師。占星術師。科学者や探検家。
私の成した『奇跡』の一部を目の当たりにしてより、世界各所の奇跡の徴を求めて彷徨い続けた巡礼者。求道者。伝道者。
そして、私の成す奇跡を悪魔の所業、この私を邪神と断じて私を退治、封印しようと追い求める身のほど知らず達。背教者。ディレッタント。探偵。探索者たち。
私も、興が乗った時には彼らの前に姿を現し、彼らと戯れたものだった。
彼らが粗忽だったり、その態度が気に食わなければ、その肉を一瞬で燃やし尽くしたり、獣の餌にしたものだが、真摯に私を崇める者には、世界の秘密の一部を授けたり、ヒトの世界では魔術と呼ばれる超常の術を授けてやることもあった。
ごくごく稀に、本当に私が気に入った者たちには、私の血肉の一部を与え、私の『眷属』として私の階層に招き入れ、世界の均衡を『調律』する任を与えた。
全ての決定権は、私にあった。
世界の内でただ一柱、この私にのみ許された『特権』だった。
その時が来るまでは。
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「主よ! いったい、何が起きたのです!? このままでは、この世界が毀れてしまう!」
私は、変貌していく世界、変貌していく私自身の肉体に戦慄きながら、私の在る階層の更に幾層も上位、私と、この『世界』を創造した『主』を……『外なる者』たちを仰いで、必死にそう訴えた。
だが、
「イヤ、コレデヨイノダ『жжж』……」
遥か上天から響く『主』の声が私にそう答えた。
「此処デノ実験ト観察ハ、最終局面ヲ迎エタ。コレヨリ最後ノでーた収集ヲ開始スル!」
これまでとはうって変わったかのような、投げやりな様子の『主』らの声。
馬鹿な? 私は困惑する。私の愛した『世界』が、ただの実験?
『主』もまた、この世界を愛していたのではないのか?
「コレマデ、ゴクロウダッタ『жжж』。我ラハ観測ノ場ヲ新タナ世界ヘト移シ、コノ世界ヲ廃棄スル!」
無情に私にそう告げる『主』に、
「では、私も『そこ』までお連れください!」
私は彼らに訴える。
「これまで以上に、『世界』の『調律』に力を尽くします。完璧な秩序と調和に満ちた美しい世を、あなたたちにもたらしましょう!」
必死の思いで『主』にすがる私だったが。
「ソレハダメダ『жжж』。新タナ『世界』ニハ、新タナ『世界』ノ『調律者』ガ必要ダ」
「オ前ノ存在ハ、コノ世界ト共ニ終ワル」
「サラバダ、『жжж』……」
『主』たちの声が、私から遠ざかってゆく!
「嘘だ! なんでだよぉ!」
私は闇間の中から無念に叫んだ。
だが、もう主の答えはない。
そして突然、
コンナセカイナンテ……モウ……!
私の階層で私の『力』を奪った少女が、その身の内から緑色の炎と薔薇の蔓を蒔き散らしながら、精妙な私の階層を、私の領域を傷つけてゆく。
「あ……!」
私を取り込みゆく少女の魂を覗き込み、私は再び愕然とした。
少女の内に在ったのは、世界への憎しみだった。
――ねえ見て。あの子が例の、2年C組の……
――『夜白玲花』だよね。あの事件で……顏を切られたって……
――通り魔の『黒川切人』だっけ? あの包帯の下、どうなってんだろ?
――顏だけじゃないって。アッチの方も……アレでしょ……
――うわー悲惨! 犯罪者に……
――ちょっと綺麗だから男にチヤホヤされてたけど……ああなっちゃうとねー……
――もう瑠奈ちゃんやめなってばぁ……
少女の記憶の内で何度も何度も繰り返される、彼女を嗤う声。彼女の感じた痛み。彼女を襲った忌まわしいケダモノの姿…
…!
私は気づいた。『主』が少女を選んだのだ。大天使の力を振い、世界を終わらせるモノとして。
「やめろ! 私の世界を壊すな!」
私は怒りに燃えて、少女に叫ぶ。
彼女の内から必死に少女を押しとどめようとする。
だが私の力の大半は、既に失われている。
「こうなれば……!」
少女の内で、私は最後の賭けに出た。
私に残された全神性で少女の魂を包み……少女自身の自我を、私自身の意識の内に吸収するのだ。
…………!
少女の魂が、声にならない叫びを上げた。と同時に私自身の魂を凄まじい恐怖と苦痛が貫いた。
「わあああ!」
少女魂の痛みに同期して、私もまた悲鳴を上げた。これがヒトの痛みだった。
私は力を使い果たす。
私と一体化した少女の肉体と魂が、奇怪な緑の炎とともに、一層下のヒトの世へと落下して行く。
既に全てのヒトの願いが、欲望が、妄執が、ヒト自身の意思によって『同時』に叶えられてしまった狂気の淵へと。
何十億もの並行世界に分岐してそのサイズを肥大化させ、世界を内側から圧迫し、破裂させようとする、混沌のさなかへと。
「どうして……? どうしてこうなったの!?」
闇間を落ちゆく私は、ただ、耐えがたい悲痛に心を裂かれながら虚空にそう問いかけるしかなかった。
やがて……
カシャン。
カシャン。
カシャン。
世界の一角、何万ものヒトの世が、硝子細工のように砕けて行く。
無限に広がる闇、私の領域もまた例外ではなかった。
私の試みは無駄だったのだろうか。
世界が終る!
ヒトの世が、私の領域が、私の愛した全てが……。
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そして世界が砕け、崩壊して闇に散華するその刹那、私はおかしな声を聞き、おかしなものを見た。
「ヲヲヲヲヲヲヲヲ!!!」
三千世界に響き渡った、無念と怒りに満ちた、ヒトの声。
「ああ!」
私は驚愕の声を上げる。
ヒトだ。何者かが、己が願い事で、私のこの世界に食い込んで、一体化しようとしていた。
でも、一体、何が目的で?
ピツン。ピツン。ピツン。
「あれは、標!?」
崩れゆく世界に穿たれていく、いくつもの光の道標を仰いで、私は再び驚きの声を上げた。
そういうことか。私は理解した。
ヒトが自身の願いを使い、この私ですらアクセスが許可されていない世界階層、『主』に至る『外界』への突破口を探り当てたのだ。
そして、外側への入り口に至る標を辿った光の奔流が世界を駆け抜け、外界への門を突破しようとしている!?
「だめよ! なんてことを!」
私は道標を辿って駆け上がっていく眩い光を、歯噛みしながら追いかけた。
光の正体は、小さな、ヒトの子だった。
「私も……私も連れて行って!」
私はヒトの子の光跡を辿りながら彼女に懇願し、私自身のものとなった少女の白い手を必死に、黄金の光の奔流となった彼女へと伸ばした。
だが、
カシャン。
次の瞬間、世界は完全に砕け散り、私も、世界も、闇に落ちた。
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私が次に目を覚ました時、世界は、一変していた。
「この世界は……一体!?」
いかなる理由か解らぬが、『主』に見放され砕散った後、再び再生を果たした世界を巡り、数サイクルにわたり観察し続けた私は、やがて、絶望的な気持ちになっていった。
弱くて、愚かで、嫉妬深く、残酷だが、一方で深い情愛も持ち合わせている。
常に進歩と洗練と退廃と滅びを繰り返しながら、戦い合い、いがみ合い、睦み合い、愛し合う。
陰と陽とが分かち難く結びつき、複雑にもつれ合う。卑猥なモノ、下劣なモノと清廉なるモノ、高潔なモノとが、一つの世、いや、一人のヒトの中に何の矛盾も無く存在する。
そんな、私が愛していたヒトと、ヒトの世が、私の見知らぬモノに変わり果てていたのだ。
この世界では、かつてヒトの心に渦巻いていた不条理、憎悪、嫉妬、暴力への憧憬。破壊への衝動といった負の感情は全て魔なる者としてヒトの外部に隔てられていた。
ここでは、魔なる者と聖なる者がはっきりと二つに分裂していて、そして、あろうことか前者は、邪なるモノ、卑猥なモノ、下劣なモノは、不可触者として、一つ所に隔離され、封印されていたのだ。世界は二つに引き裂かれていた人間世界と影の世界に。
同時に、この世界のヒトの心からは、微妙な闇も、影も、機微も、淫猥への衝動すら、消え果てていた。
人間世界から陰影が排除されていた。
「そんな……これでは、まるで……!」
私は絶望に呻いた。
それはまるで、ヒトの子供の思い描いた漫画の世界だった。
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世界の変容と同時に、私自身の存在もまた、大きく変容していた。
『大いなる使者』、『大天使』、『魔王』、『無貌の神』、『千の貌を持つ者』、『昏きもの』、『這い寄る混沌』……
かつて私の存在を知るごく少数のヒトからそう呼ばれていた私の異名。
無限の形状でヒトの前に顕現し、万能の能力でヒトから畏れ崇められた私の姿も、力も、いまや見る影もなかった。
この世界での私の存在は、私の力を奪った者、私が魂を奪ったあの者と存在を一つにしていた。
彼女自身が憎んでいたヒトの姿をしたケダモノ……。
『吸血鬼』の『少女』という、無力で卑小な姿に固定されてしまっていたのだ。
でも……それでもなお、私はあきらめなかった。




