時の針、ものみの鏡
「ルナ……? ルナ……! いない……何処行ったんだよルナ!」
暗い夜の歩道で一人、シュンは辺りを見回しながら狼狽の声を上げていた。
シュンに刃を突き立てた藤枝ルナともみ合いになり、思わず彼女を突き飛ばしてしまった、あの場所だ。
通りを一本隔てた公園でようやくみつけた公衆電話から119番通報。
激しく痛む腹部を押えながら、這うようにしてルナのいた場所に戻って来たというのに、肝心のルナの姿がその場から消え失せているのだ。
ルナの倒れていたガードレール脇に残っているのは、点々と滴り落ちた赤黒い血痕だけ。
ルナは何処に消えたのだろう。意識を取り戻して、この場から立ち去ったのだろうか? それとも……。
「ぐっ!」
不意に、シュンの喉から苦し気な声が漏れた。
シュンの視界がグニャリと歪む。足に力が入らない。
ガクリ。シュンはそのまま歩道に膝を着く。
「くそ、パワー切れか……こんな時に……!」
朦朧として行くシュンの意識の中に、悔しさと歯がゆさがザワザワと波立った。
バルグルとの戦いでは、これまでの限界を超えるような力で魔王と張り合った。
ルナから被った創は深かった。傷口は薔薇の蔓に塞がれたとはいえ、シュンの体力の消耗はもう限界に達していたのだ。
視界が暗くなってゆく。遠くの方から、何かが近づいてくるのがわかる。
あの音。救急車のサイレンの音……。
「救急車……まずい……隠れないと……メイ……ルナ……みんなのところに、いかないと……」
気ばかり焦るが動かない身体。動かない足。ボンヤリした頭でそんな事を考えながら、やがてシュンの眼の前が、すっかり暗くなった。
#
「こ……これが新しい拠点……新しい『基地』……!」
シュンの姉、如月カナタが、眼下に広がる眺望に驚愕の声を上げていた。
今、カナタとナユタが居るのはヒラサカインダストリーの輸送用ヘリの機上だった。
ヘリの丸窓から機外覗いたカナタの眼下には、湾岸のイルミネーションの様な外灯の輝きを映した、黒い夜の海が広がっていた。
オートパイロットシステムで操縦されたヘリコプターが飛んでいるのは、丁度、東京港晴海埠頭の上空だったのだ。
普段ならば国内外の豪華客船が壮麗な船姿を晒すその東京の海の玄関先が、今夜はなんだか様子がおかしかった。
客船ターミナルに接岸している、というよりも聳えていると形容した方が相応しい、白亜の巨大な塊があるのだ。
カナタには一瞬、それが客船……というか船であると認識することも出来なかった。
海上からせり上がった、方形の多層構造建築。まるで地上の複合商業施設を、そのまま埠頭に接岸させたような、海上の街としか形容しようのない異様な姿は!
「あれって、確か、フランスから試験航海中の……」
「ええ、そうよカナタ。そして、あれが私たちの新しい拠点……」
眼下の巨船の異様さに息を飲むカナタに、母親のナユタはそう答える。
「全長400メートル。総重量25万トン。収容人数10000人超。現在ヒラサカ・マリン・システムズによる試験航海中。運用が始まれば世界最大の超豪華客船……てことになるわね。一応……」
ナユタはカナタを向いて、悪戯っぽく笑った。
「でも、実はあの船、ボスお気に入りの玩具なの。ボスが……比良坂財閥が国境を越えた魔器の研究開発のために建造した巨大海上研究施設。その名も海の交響曲号! ボスもこの船の病院に収容されているわ……」
「シンフォニー……オブザシーズ………!」
長ったらしい船名に舌を噛みそうになるカナタに、
「ええ。長ったらしいから『SOS号』でいいわよ」
ナユタがあっさりそう答えた。
パラパラパラパラ……。
カナタとナユタを乗せたヘリが、『SOS号』屋上のヘリポートに向かって降下してゆく。
「母さん、ユウコさんの方は?」
「今、お屋敷に迎えのヘリが行ってる。あの子とも連絡がついたから、付き添いをお願いしたわ。それに……」
カナタの問いに答えながら、ナユタは胸ポケットの内からブルブルと振動する携帯電話を取り出した。
「アイツも戻って来たみたい。ついでだから、ここまで運んでもらいましょう……」
携帯のディスプレイに表示された着信者の名前を確認して、ナユタは満足そうにニヤリと笑った、その時だ。
「もしもし、え? あ、はい……」
今度はカナタが携帯を取り出して通話に出た。
どこからか着信があったらしい。
「ええ。そうです、弟です……はい。わかりました……」
「カナタ?」
ナユタは怪訝そうに娘のカナタを向く。
電話に受け答えするカナタの貌が、みるみる不安に曇っていくのが判ったからだ。
「母さん……」
通話を切り、カナタは暗い貌で母の方を向き、電話の要件を彼女に伝えた。
「シュンが……見つかった。今、病院だって……」
#
「こいつは……? 何が、どうなってるんだ!?」
夜の比良坂邸、通称『お化け屋敷』の庭先に立って、シュンの父、如月リュウガは驚愕の声を上げていた。
魔影世界から通じた『接界点』を検知して、こちら側に戻って来たのがつい一時間前だった。
シュンもカナタも、どうにか無事らしい。
電話で連絡のついたナユタの指示の元、ユウコと合流するために比良坂の屋敷にやって来たリュウガだったが、何か様子がおかしかった。
ガランとした邸内、普段なら庭先を闊歩しているモノノケたちも、何かに怯えたように、木の影や池の中にその身を潜めている。
邸内に、何かが燃えたような焦げ臭さが漂い、硫黄の匂いがプンと鼻を突く。
「ユウコさん……? いるんですか、ユウコさん!?」
庭内を見回して、リュウガがユウコの名を呼んだ、その時だった。
「ううう……リュウガ殿……」
そう苦しげに呻きながら、襖を開けて屋敷の縁側から庭先に、ドサリと転がり出だ人影があった。
「……ホタルちゃん!」
声の主の正体に気づいたリュウガが、縁側の方に駆け寄った。
三つ編みに結えられた紫紺の髪、身に纏った黒装束。
学校での戦いで墜落する輸送ヘリから脱出した後その姿を消した、忍者箕面森ホタルの姿だった。
ホタルの黒装束は、そこかしこが引き裂かれ、焼け焦げてベッタリと血に濡れていた。
手や、貌の皮膚のあちこちが、酷い火傷を負っていた。
「しっかりしろ、大丈夫か!?」
「すみませんリュウガ殿、ユウコ殿が、あの犬どもに……早く、シーナ様と御屋形様に……御伝えしなければ!」
リュウガの腕の中で、ホタルは吐き出すようにそう呻くと、緊張の糸が切れたのだろうか。そのまま目を瞑り意識を失った。
「ホタルちゃん! ホタルちゃん!」
狼狽して何度もそう呼びかけるリュウガの頭上から、パラパラパラ……
近づいてくるプロペラ音。ナユタの遣った無人ヘリが、屋敷で待つ者たちを迎えに来たのだ。
#
「……『開けゴマ』! ……『スタートアップ』! ……『リンクアウト』! 『時は動き出す』!」
ガランとした鏡張りの大広間に、よくわからない気合いの声が響いている。
声の主は燃え立つ炎のような紅髪、比良坂シーナだった。
ここは、彼女が怪盗シュヴェルトに連れられて訪れた、透明な水晶製の奇妙な城の内部。
城のメイドを名乗る少女コチョウが言うところの『狭間の城』だった。
その城の大広間の片隅、次々とおかしなまじないを唱えながら、シーナはしきりに右手に持った何かを振っている。
彼女がその手に持っているのは、まるで羅針盤のないコンパスの針のような奇妙な形。怪盗シュヴェルトから奪った『時の羅針』だった。
シーナの正面、彼女の振る針の先に佇んでいるのは、一見してシーナと同じくらいの大きさの人形のようだったが、よく見ればそうでは無い。
怒りを滲ませた表情。冷たく輝いた緑の瞳。そこに立っているのは、シュヴェルトの術で凍れる彫像に変えられてしまった、秋尽メイの姿だった。
「あーもう! どうやったら戻せるんや、この術!」
「うーん。やっぱり駄目みたいですねぇ。この針、人間には使えないのかしら?」
苛立たしげにそう叫んで、頭を抱えるシーナ。
シーナの背後で無邪気な貌で首を傾げているのは、黒のメイド服に身を包んだコチョウだった。
この城は昼も夜も良く解らないが、時間にすれば半日は過ぎているだろう。
シーナはシュヴェルトから奪った『時の羅針』で、何とかメイにかけられた術を解こうとしているのだ。
#
事の始まりは、シーナとコチョウの茶席からだった。
「それでコチョウちゃんはずっと……その『ご主人様』が帰って来るのを、此処で待ってるんや?」
「ええ、その通りですわ。強くて、偉大で、そして誰よりもお優しいご主人様を、コチョウはずーっと待っているのです。もう15サイクルもの間……あれ、30サイクルだったかしら、えーと、60、75、300……!?」
主人の話になると記憶に混乱をきたすのだろうか、つぶらな目をパチパチさせながらしきりに首を傾げるコチョウに、
「でも、ええのんかコチョウちゃん?」
シーナは広間の片隅に倒れたシュヴェルトに目を遣ってから不審そうにコチョウを見る。
「いくら留守の間だからって、泥棒を城に上げて、好きに使わせても?」
「構いませんわ。それがご主人様のお考えですもの。シーナ様やシュヴェルト様が此処に来られたのもご主人様のお許しあってこそ、それこそは、ご主人様が生きておられる証。まだこのお城の事を忘れておられない証ですもの!」
シーナの問いに、コチョウは涼しい貌でそう答えた。
「それに、シュヴェルト様は色々な宝物をお城に持って来てくださるの。今はお城がガランとしてますもの。少しは華やかになって楽しいですわ! そのうち模様変えしなくちゃ……」
「宝物……! そや!」
コチョウの言葉に、大事な何かを思い出したシーナは、椅子から跳ね上がった。
「コチョウちゃん。ウチはそのシュヴェルトに誘拐されたダチ探して此処まで来たんや! 教えてくれん? ウチくらいの齢の女の子が、この城のどこかに監禁されてへん?」
「女の子、女の子……うーん、監禁とは違う気がしますけど、もしかしたら……」
愛らしい貌を曇らせて思案に暮れるコチョウに、
「知ってるんか? 教えてや!」
紅髪を震わせてシーナが飛びついた。
#
「これが、シュヴェルトの『コレクション』……」
コチョウに案内されて、鏡張りの大広間に通じる螺旋階段どれくらい下っただろう。
不意に階段の壁沿いに生じた銀色の扉の奥。これまた冷たいガラス張りの様な広間の中。
黄金の刀身をした剣。白い角笛。真っ赤な瓢箪。大人の握り拳くらいある紅玉。不気味な人面の浮かび上がったボロ布……。シュヴェルトが魔影世界の各地から集めていたという様々な『宝物』の飾られたその広間の奥に……。
「メイくん!」
声を上げるシーナ。メイはそこに立っていた。
あの時、緑の瞳でシュヴェルトを睨みつけ、人差し指で彼を差し、破壊の魔氷を放とうとした、まさにその瞬間のまま凍りついた姿で。
#
「あーもう埒があかん! ここからシュンのトコ戻れても、肝心のメイくんがこの格好じゃあ……」
そんなわけで、宝物庫からメイを抱え出て鏡張りの大広間に戻って来たシーナは、『時の羅針』でどうにかメイを元に戻そうとしているのだが、今のところその努力は徒労に終わっていた。
「やっぱり上手くいきませんわねー。そうだ! シュヴェルト様が目を覚ましたら、頼んでみるというのは?」
「アホかー! ダメに決まっとるやろ!」
無邪気に笑うコチョウに、切れ気味のシーナ。
「しかしマズイな。あいつ以外この針が使えないんじゃ、メイくん戻すのはおろか、此処から出られんやんか……」
「あら、その心配はありませんわ?」
手の中の羅針を見つめて暗い貌のシーナに、コチョウは不思議そうにそう答えた。
「心配ないって、どういうことやコチョウちゃん?」
「ここは『ものみの間』ですもの。その鍵と『ものみの鏡』を使えば、どんな場所だって……」
「どんな場所だって……!?」
「ええ。シーナ様、それ、貸してくださる?」
コチョウの言葉の意味が解らずに首を傾げるシーナ。
コチョウはシーナの傍らに寄ると、シーナの右手ごと『時の羅針』を握りしめた。
「ちょ、コチョウちゃん!」
「ほら、チョン、チョン、チョン……」
狼狽えるシーナに構わず、コチョウは羅針の針先を広間を覆った一面の鏡の方に向けた。
すると、ボオオオオオオ……
「これは!」
最初はボンヤリと、やがて鮮明に鏡に映し出される景色の数々に、シーナは息を飲んだ。
鏡には、シーナとリート、そしてリュウガの居た猫人の村が映っていた。
獣の谷の、鬱蒼とした森の風景が。
ぼんやりと緑の燐光に照らされた、何処とも知れない暗い洞のような場所が。
荒波のたたきつける、灰色の大海原が。
あのゴブリンのガングの仲間だろうか、何人もの小人たちが行き交う街の路地が。
魔影世界の風景なのだろうか。鏡の上で移ろってゆく、シーナがこれまで見たことも無い様な奇妙な景色の数々!
「さすが『接界期』。魔影世界は感度良好ですわ。人間世界の方はまだ接続がいまいちですけど、あと少しすれば……」
鏡に映った景色を眺めて、満足げなコチョウ。
「ね? シーナ様。こうして鍵を使って『ものみの鏡』を通り抜ければ、鏡に映った好きな場所に行けるのです。シュヴェルト様もそうしてませんでした?」
「なるほど……。そういうことやったんか……!」
コチョウの説明に、シーナは合点が行った様子で頷いた。
あの時、リートたちの動きを見透かしたように猫人の墓地に現れたシュヴェルト。
彼はこの場から魔影世界の各地の様子を見ることが出来、そして瞬時にその場に移動できたのだ。
「ん!?」
その時だ。シーナは気づいた。
「その鍵で、その鏡って……。もしかしてコチョウちゃんも、この針使えるんか!?」
「あたりまえですわ。このお城の鍵ですもの。わたくし、このお城の一切を取り仕切っていますの!」
シーナの疑問にキョトンとした貌で答えるコチョウ。
「な、なんで先にそれ言うてくれんかったんやコチョウちゃん!」
「えーと……訊かれなかったから……ですぅ」
怒りでプルプルするシーナに、ケロリとした貌でそう答えるコチョウ。
「じゃあ、この針でこの……メイくんの術を解くことも出来るんやな?」
「それは出来ますけれど、この子はシュヴェルト様の……お城の宝物ですし……」
「いいから、やってやコチョウちゃん! ウチとメイくんは、此処から帰らなあかんのや!」
煮えきらない様子のコチョウに、シーナが思わず声を荒げた、その時だった。
「な、何をしているお前たち……!」
コチョウとシーナの背後から、くぐもった動揺の声。
「あ、お前は!」
「まあ、シュヴェルト様、お目覚めになりましたのね!」
シーナとコチョウが振り向けば、其処に立っていたのは、黒いマントで全身を包んだ男の姿。
両の手は男の背後でシーナの鞭に結び取られている。
砕けた仮面の内からは、奇怪な飛蝗のような顏が覗いている。
目を覚ました、怪盗シュヴェルトの姿だった。
#
――意識はありませんが容体は安定しています。極度の疲労とストレスによる昏睡でしょう……
―――左手と、左顔面の一部、そして腹部に奇妙な……疥癬が認められます。サンプルの採取と分析を……
――――この子の顏、知ってるいぞ。テレビに出ていた……
―――――ヒラサカグループの実験動物か……
――――――厄介なモン抱え込んだな。感染したりしないよな?
―――――――さあな、とにかく、家族とヒラサカの方にも連絡を……
何もわからなくなったシュンの頭の中を、何人もの声が通り過ぎていく。
何か固い物の上に乗せられて、身体に振動が伝わってくるのを感じる。
車? 何処かに運ばれているのだろうか?
そういえば、ルナを助けようとして救急車呼んだんだっけ?
ルナ、ルナ。結局何もわかってもらえなかった。コウ。あいつは無事だろうか。
シーナ。無事にメイを探しあててくれただろうか。
そして、メイ、メイ、メイ。あいつは今何処に……。
「うあ、メイ!」
ルナの怒りに歪んだ貌と、メイの冷たい貌が視界を交錯したような気がした。
シュンは悲鳴を上げて飛び起きた。
「ここは……」
シュンは辺りを見回す。
カーテンに遮られた窓の外が明るい。今は昼間だろうか。
シュンが寝ていたのはベッドの上だった。
白い壁、リネンのシーツ。リノリウムの床。
どうやら此処は、病院の一室のようだ。
そして、
「シュン……。目を覚ました?」
シュンのベッドの傍らから、心配そうにそう声をかけてくる者がいた。
「姉ちゃん……!」
声の主の姿を認めて、シュンは何だか全身の緊張の糸が弛緩して行くのを感じた。
不思議とシュンの右目から、一筋涙が零れた。
そこにいたのはシュンの姉、如月カナタだった。




