レイカのくちづけ
カサリ……カサリ……。
夕闇のたち込めた、人気の無い路地裏だった。
表通りの街灯の明かりも届かない暗い路上から、掠れた音が聞こえて来る。
散乱するゴミの袋やポリバケツ。
放置された自転車。
その間を縫うようにして、何かがゆっくりと路上を前進して行く。
それは、1目見て、大きな白い蛇のようにも、南アフリカなどに生息する巨大なナメクジのようにも、あるいは海底を這う奇妙なウミウシのようにも思えた。
だがそれは、よくよく観察すれば、蛇やナメクジなどよりもよっぽど異様で奇怪な存在だった。
路上を這ってゆくのは、人間の腕だった。
鋭利な刃物で上腕から斬り落とされたとしか思えない真っ白な女の腕。
その腕がまるで桜貝の様な爪先で地面を掻いていた。
そして赤い血の這い跡を残しながら、ノロノロと路地裏を進んでゆくのだ。
そしてその奇妙な腕が、路地の行き止まりに達した頃。
更におかしな事が起きた。
ザザザア……。
不意に、白い腕が黒い影の塊の様なモノに包まれ、膨れた。
塊はよく見れば、まるで夜の闇に溶け込むような何百頭もの黒翅の蝶だった。
そして次の瞬間。
ハラリ。
蝶たちの合間から姿を現した人影があった。
「この体……この大きさ……」
白い腕から姿を変えて、いま路地裏に立っている者。
それはまっ黒なエプロンドレスにその身を包んだ、小さな1人の少女だった。
齢はまだ小学校に上がるか上がらないか。
つぶらな瞳。
薔薇色の頬。
愛らしい顔。
艶やかな黒髪。
頭の上には大きな黒いリボン。
「ヤギョウ将軍の剣……。雷の業……。油断した。だいぶ身体を持っていかれた……」
少女は、まるで他人事のように無表情な顔で、自身の姿を確かめて、鈴を振るような声でそう呟いた。
この場から1歩、2歩。
歩みを進めようとする少女だったが、その足取りがフラついていた。
「うぅ……」
頭を振って何かに耐えきれないように、その場にへたり込む少女。
「血が足りない。こちら側の身体を保てない。なんとかしないと……! なんとか強い血を……」
自分の両手を見つめながら。
少女が忌々しげにうめいた、その時だった。
「あなたは……いったい……!?」
少女の頭上から、困惑した様子でそう問いかける声があった。
「ああ……」
少女はその声を聞き、心の底から安堵したように溜息を漏らした。
「『御使いの蝶』に導かれ、人の世の戦士が剣を取るのを待っておりました」
少女はつぶらな両目から涙を流して、声の主を見上げた。
「わたくしはコチョウ。お助けください。もう、わたくしの力だけでは魔王メイの暴走を止められません……」
「魔王……何を言っているの? 秋尽メイのこと?」
少女の訴えに再び戸惑いの声を上げた者の手には、銀色に輝いた短刀が握られている。
少女を見下ろしている者。
それは黒蝶の声に導かれるようにしてこの場にやって来た、藤枝ルナの顔だった。
「はい、世に流れている噂など、魔王の傀儡が巧妙に仕組んだ偽りに過ぎません。人の世に潜んだ魔王の子。秋尽メイがその力を目覚めさせつつあります。このまま放っておけば、人の世により大きな災いをもたらしましょう。そうなる前に、なんとかしなければ……」
少女はルナの顔を見つめて、切迫した表情でそう答えた。
#
「おい、ルナ。どうしたんだよ? そんなの下ろせって……」
「如月シュン。言いなさい。アイツは……秋尽メイは、何処にいる……!」
夜の路上で戸惑いの声を上げるシュン。
そのシュンに、右手に秋尽ユウコの短刀『鬼刺刀』を握りしめたルナが詰め寄って来た。
「知らない。俺も探してるんだ……。ルナ、危ないからその刀仕舞えよ……!」
「嘘をいいなさい。あの子から……コチョウちゃんから、『あちら側』の事情は聞いている! メイもあなたも、元々人間じゃないって。本当のあなたは魔王メイの下で働く……バケモノだって!」
能面の様なルナの顔に、怒りの亀裂が走っていくようだった。
眼鏡の奥からシュンをにらんだルナの目が、怒りに燃えていた。
「あちら側……コチョウって、何言ってるんだよルナ。それに、メイにはメイの事情ってやつが……」
「じゃあ、その姿は何!? バケモノ! バケモノ! バケモノ! 許せない。あんたたちのせいで母さんや、コウくんまで……!」
必死でメイの身の上を説明しようとするシュンだったが。
ルナはシュンの顔を指さして彼を責める。
シュンの左眼を覆った、銀色の鱗と緑の目をさして。
「え、コウが……!」
ヒステリックなルナの声に、シュンの身体が固まった。
親友の時河コウに、なにかあったのだろうか。
「ルナ、教えろ。コウに何が……!」
「寄るな、バケモノ!」
我を忘れ、思わずルナの元に駆け寄りコウの安否を尋ねようとするシュンだったが……
ズブリッ!
「グウウウ!」
次の瞬間、シュンは苦悶の呻きを上げていた。
ルナの構えたユウコの短刀『鬼刺刀』が、深々とシュンの腹部に突き立てられていたのだ。
ザワザワザワ……。
と同時にシュンの左腕から這い出て来た緑に輝く薔薇の蔓が、シュンの半身を覆いながらその腹部に集ってゆく。
シュンが被った重傷に、刹那の灰刃が反応したのだ。
「ヒッ! やっぱり……バケモノ! バケモノ!」
自分の行為への恐怖と、シュンのへの怒り。
2つがない交ぜになったような目で、ルナはシュンから短刀を引き抜いた。
「ガアア!」
シュンの口中に血が溢れた。
息が出来ないくらい痛い。苦しい。
「もうイヤ!」
そう叫んだルナが、半狂乱の顔つきで。
ルナは腹から引き抜いた短刀でシュンに斬りかかろうとするが、次の瞬間。
「やめろお!」
必死の思いで振り払ったシュンの腕が、ルナの胸を直撃していた。
剣の力は解放されていた。
普段の数倍の力になったシュンに突き飛ばされて、ルナの身体が数メートル後方までふき飛んだ。
ゴッ!
路上のガードレールにルナの身体が叩きつけられた。
「ぐっ!」
そのまま地上に転がるルナの身体。
意識を失ったようだった。
頭からは血を流している。
「ルナ……? ルナ……!?」
グッタリとして死んだように動かないルナを見て、シュンの顔が恐怖に歪んだ。
「大変だ……病院……救急車……誰か、誰か!」
慌てたシュンは辺りを見回す。
ルナに刺された腹部を押えながら。
よろめく足で助けを呼ぶため、人通りの多い商店街の方へと踵を返した。
シュンがルナの元を離れた。
夜の路上で意識を失ったルナが、しばしその場に取り残された……その時だった。
コツン……コツン……乾いた靴音。
フラついた足取りでルナのもとに近づく、小さな人影があった。
「ルナちゃん。ありがとう。騙してしまってごめんなさい……」
そう呟きながらルナを見下ろしているのは、ルナが路地裏で出会った少女。
コチョウと名乗った、黒いリボンの少女だった。
少女はルナに握られたままの短刀に手を伸ばした。
ルナの指からそれを引き剥がした。
銀色に輝いていた鬼刺刀の刀身は、今は赤黒くベッタリと血に濡れていた。
ルナに刺されたシュンの血だった。
「この身体で血を集めるのは、少し面倒だったの。それでも彼の血なら……」
少女は赤い血の滴った刀身を愛らしい顔でしげしげと眺めまわすと。
おもむろに。
ツ――――……
自身の真っ赤な唇を刀身に近づけると、その舌先でシュンの血を舐め取っていく。
「ンクッ……ンクッ……」
少女の白い喉元が小さく上下する。
シュンの血を嚥下している。
シュンの血を……を飲んでいる!
次の瞬間。
「んああ……」
血に濡れた少女の唇から、か細い喜悦の声が漏れた。
と同時に、ザワザワザワ……。
路地裏での怪異と同じことが起きた。
少女の身体が黒い影に覆われる。
黒い蝶の塊がざわめく。
先ほどより、1回りも、2回りも大きかった。
「やはり良い。この血は……強い!」
そう満足気な声を上げて立っているのは、もはや先程の小さな少女の姿ではなかった。
深紅のワンピース。
長い黒髪。
真っ白な肌。
切れ長の目。
黒珠のような瞳。
まるで人形の様な顏。
そこにいたのは、校庭での戦いでヤギョウに討たれて消滅したはずの、夜白レイカだった。
「助かったわルナちゃん……。あなたの上存在には昔から苦しめられてきたから、今度くらいは、私の役に立ってもらわないと。それにこのままでは、あなたの心も晴れないでしょう……」
レイカは地面に転がり動かぬエナを見下ろすと、そう言って妖しく微笑む。
「決めた。この舞台にあなたもまた招待しましょう。あなたの本性は知っているの。場をかき回し皆を苦しめるのは得意でしょう?」
ルナの頭を撫でながら、何か思案に暮れるようにレイカはポツリと呟くと、ルナの半身を起し、か細い両腕でルナの身体を抱え上げた。
#
「母さん、母さん! コウ、コウ!」
暗闇の中で寂しげに微笑む母親とクラスメートの顏がよぎった気がした。
ルナは目を覚ました。
「ここは……なに……」
あの時、シュンの……バケモノの腹に短刀を突き立てたのまでは覚えている。
頭がカッカとなって、目の前が真っ赤になって、思わずシュンに短刀を振り上げた。そこでルナの記憶は途切れていた。
半身を起したルナは、混乱した様子で辺りを見回す。
そこは見知らぬ場所だった。
月の光に照らされた、夜の森の中。
ルナが居るのは、荒れ果てた何処かの邸宅の庭先のようだった。
眼前に聳えた古い洋館は、重機か何かが通り過ぎた跡だろうか。その壁面が滅茶滅茶に破壊されて、館の大部分が倒壊していた。
彼女が寝かしつけられていた場所。
それは館内からここまで運んできたらしい、古びたベッドの上だった。
「うう……」
ルナは頭を振る。
何か様子がおかしかった。
何処かで打ったのだろうか。
頭がズキズキする。
だがその痛みも、何処か他人事のように遠くに感じる。
頭がボンヤリする。
視界がぐらぐら歪む。
身体が怠い。
そのくぜ妙に全身が火照る感じがして落ち着かない。
辺り一帯にプンと、甘く腐った果実の様な奇妙な匂いが立ち込めていた。
「残念だったわね、ルナちゃん」
不意に、ルナの耳元でそう囁く者がいた。
「あなたは……夜白さん……でも……」
ルナは驚きの声を上げる。
いったい何時からソコに居たのか。
まだ夢を見ているのだろうか。
ルナの傍らでベッドに腰かけ彼女にそう語り掛けて来たのは、長い黒髪を夜風に靡かせた1人の少女。
夜白レイカの顏だった。
ルナは困惑した顔でレイカを見つめる。
レイカの顏が、路地裏で出会いルナに真相を伝えたあの少女……コチョウの輪郭に重なってゆく。
「シュンくんの事も、メイちゃんの事も、あなたは止められなかった……」
ルナの耳もとでレイカが囁く。
コチョウが囁く。
「イヤだ……! イヤだ……!」
ルナは耳を塞ぎイヤイヤをする。
ボンヤリした意識の内から頭をもたげてくる、何か悲しい記憶。
激しい怒り。
「でも……このまま終わらせる気が無いのならば、取引をしましょう。ルナちゃん」
「取引?」
「そう、取引。私の上げた力で、シュンくんを殺してちょうだい……」
ルナの問いにレイカが答える。
「あなたが私のために働いてくれるなら、私はあなたに力を与えましょう。そして私もまた、あなたの為に力を尽くしましょう。何でも一つだけ、あなたの願いを叶えてあげる……」
「願いを……だって、出来るの? そんなこと……」
「ええ、嘘は言わないわ。来るべき接界の頂きで、私の手の内に在るべき剣さえあれば、私にはそうする力がある……」
レイカが何を言っているのかルナにはまるで解らなかったが、混乱した今のルナには、そんな事はどうでもいいような気がした。
力……。
バケモノを、シュンを、メイを殺す力……。
母の復讐を遂げる力!
「わかった……」
ルナがレイカの顏を見てコクリとそう頷いた。
「ふふ。いいわルナちゃん。取引成立……さあいらっしゃい……」
レイカは妖しく微笑むと、ルナの頭を撫でた。
その指でルナの髪を優しくかき上げた。
「な……」
レイカの行為に驚きの声を上げるルナだったが、もう身体が思うように動かなかった。
辺りに立ち込めた甘い匂いのせいだろうか。
身体が痺れてきたルナは、レイカにされるがまま……
ルナのじっとりと汗ばんだ首筋に、レイカの真っ赤な唇が押し当てられた。
「ひゅ……」
ルナの喉から引きつった息吹。
レイカの冷たい舌先が、ルナの首筋をゆっくりとまさぐっていく。
やがて……ツプン。
レイカの唇から飛び出した真っ白な二本の犬歯が、ルナの内側に潜り込んでいた。
「ひぐぅ!」
ルナがうめいた。
首筋を貫く鋭い痛み。
傷口から全身に広がっていく。
だがもどかしいこの感覚……ダルい様な、痺れるような快楽!
ザワザワザワザワ……
そしてルナにしか聞こえない掠れた音を立てながら、ルナの身体の中に何かが這入ってきた。
ルナは感じる。これまで味わったことのない、何か異質な力が、ルナの内を満たしてゆくのを。
「これでいい。牙蜘蛛の長より注がれし魔王の精髄。あなたの執念なら使役することも容易でしょう。さあ、あなた自身の為に存分にその力を振いなさい……」
ルナの頭に響いて来る、鈴を振るようなレイカのその声!
月光の降り注ぐ夜の森でルナとレイカの影が重なり、絡まり合った。
「んぁ……ぅうう……ひぃうぅああああああ…………!」
レイカの牙から注がれる、凄絶な快楽の波に、ルナの口から掠れた喜悦の声が漏れ続けた。
茂った枝々の向こうから覗いた月を仰ぐルナの瞳が散大した。
ルナの瞳が真っ赤な血の色へと変わって行った。




