ラーメン屋の男
「はー。それにしても暇ねー。先週のアレ以来……」
昼時。
シュンの姉カナタは、目の前に運ばれてきたラーメンを啜りながら気の抜けた表情でそう呟いていた。
地元聖ヶ丘駅前のラーメン店『にんにく庵』のカウンター席で、手っ取り早く昼食を済ませるつもりだったのだ。
多くの市民を巻き込んだ、怪物騒ぎが収まってから4日が過ぎていた。
メイを狙っていた怪物の元締めは、ラインハルトに掃討されたという。
母親のナユタ、まだしばらくは比良坂の家にいるつもりらしい。
久々に帰って来た父親のリュウガは、わずか1晩。
カナタたちと食事を共にしたと思ったら、今朝はまたそそくさと『調査』に出掛けてしまった。
メイの一件が落ち着いた今、カナタもまた自分のアパートに戻ってもいいかもしれない。
だが彼女はそうしなかった。
何かがカナタをこの場所に留めていた。
まだ、完全に終わったわけでは無い。
カナタの第六感のようなものが彼女にそう告げていた。
「それに……」
カナタはモヤモヤした気持ちだった。
シュンを先導して戦うはずだった自分。
それがこの前の戦いでは、シュンに助けられ通しだった。
弟に命を救われたようなものだ。
それにラインハルトの話では、接界はまだ終わっていない。
どんな怪異が起こるか、まだ誰にも分からないのだ。
次に事が起きた時には、今度こそ……。
そんな、戦いの雪辱は戦いで晴らしたいという思い。
それがカナタがこの場所に留まる理由かもしれなかった。
「あいつ……いつの間にあんなに強くなったのよ……? あのヘナチョコが……」
ラーメンを食べ終えたカナタ。
彼女が弟のシュンの横顔を思い出して、ポツリとそう呟いた。
その時だった。
「ちょっと、困るよお客さん! ウチは、そういうの、受け付けてないんだから」
カウンターから聞こえて来る『にんにく庵』店主の声に、カナタは思わず振り向いた。
「ん……そうか、このあたりはコレじゃないのか……」
レジ前に、少し戸惑った様子で1人の男が立っていた。
カウンター越しに相対した男と店主の姿は、まるで大人と子供だった。
それほど、その男の体躯は際立っていた。
2メートルは超えていそうな長身。
身に纏った黒革のロングコートの上からでもはっきりわかる、隆々たる筋肉。
肩まで伸びた、輝くような銀色の蓬髪。
外国人だろうか。
その男が店主と揉めているのは、どうやら勘定の方法だった。
どこかの国の古銭で、支払いをしようとしているらしい。
男が店主に手渡したのは、何か人の横顔だけがうっすらと判別できるだけの、すり減った銅貨だったのだ。
形も歪で完全な円形とは言い難い。
いったい、いつの時代のものなのだろう?
「わかった、わかった。このあたりの路銀は、えーと確か、ここに……」
「だから、そういうのはやってないって!」
男の行動に、店主が再び怒りの声を上げた。
次に男がポケットから取り出したのは、今度はもう少しまともに鋳造されたらしい円形の貨幣だった。
だがこれもカナタの見慣れた日本円とは遠いものだった。
男が店主に手渡したのは、鷲と王冠の刻印が施された何枚もの銀色の硬貨。
これも、外国のものだろうか。
「こっちのお金、持ってないんだ!?」
カナタは呆れた顔で、カウンターからレジの前に立つ男を眺める。
「仕方ないな、これなら何処でも使えるんだろう?」
「いいかげんにしろ! 無銭飲食で警察呼ぶぞ!」
男はブツブツそう呟きながら、再びコートのポケットに手を遣る。
だが店主の堪忍袋はもう限界らしい。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
見かねたカナタが、カウンターから立ち上がった。
店主と男の間に割って入った。
「ここは、あたしが立て替えますから。この人、外国の人みたいだし……」
「お姉さんが? 仕方ないな……。いいのかい。じゃ、2750円ね……!」
カナタの申し出に、店主が溜息をつきながら、男が飲み食いした料金をカナタに告げた。
……高!
カナタは目を丸くする。
昼時のラーメン店で1人。
いったい何を……いや、何杯食べたのだろうか。
俗にいう、ラーメンヲタクというやつだろうか……?
いや、日本の貨幣もよくわかっていない外国人が?
「わ、わかりました……」
カナタは渋々、ポーチから自分の財布を取り出した。
#
「まったくもう。こっちのお金も持たずに、お店に入るなんて……日本語はそんなに上手なのに?」
「すまなかったな、お嬢ちゃん。すっかり手間かけさせて……」
ラーメン店から出て来た銀髪の男が、店先でカナタに礼を言った。
カナタは改めて男を見上げる。
銀色の蓬髪、精悍な面構え。
その顏に刻まれてるのは……幾筋もの爪痕や……刀創!?
スジ者……とも違うようだし。
調教師やスタントマンか何かだろうか?
テレビで、そういう仕事を見たことがある。
「いえ、今度から、気を付けてくださいね。外国から来られたんですか?」
「いやまあ、そんなところさ。このあたりは初めてじゃないんだが、久しぶりだったんでな……」
男が、辺りの街並みを見回しながら、そう呟いた。
「……!」
男の様子に、カナタは一瞬息を飲んだ。
街を見回す男の目に、なにか、たまらない悲愁の色があったのだ。
「あの……」
何かに駆られて、カナタが男に声をかけようとしたその時だった。
「お嬢ちゃん。さっきはありがとな。払ったお代は、こいつで足りるかな?」
「いえ、いいんです大丈夫ですって、そんな……!」
男は真剣な面持ちで、再びカナタを向くいた。
そして懐に手を入れて何かを探り始めた
カナタは焦って男を止める。
男の気持ちは嬉しい。
だがさっきみたいにすり減った銅貨みたいなモノを貰っても……
何というか、困る。
「いや、受け取ってくれ。こいつならきっと、この世界でも」
「…………! ぁあ!」
男はカナタにそう答えながら、懐の中を探り続ける。
だがその時には、男の声はカナタの耳には届いていなかった。
カナタが凝視していたのは、男の背後。
交通量の多い四つ角の横断歩道だった。
「きゃああ! ユア!」
次の瞬間、若い女の悲鳴が周囲の空気を切り裂いていた。
まだ3歳か、4歳か。
赤信号の歩道に、転がるボールを追いかけた幼児が駆け出していた。
けたたましいクラクション。
キイイイ。
ブレーキを切る音。
だが間に合わない。
母親が目を離した一瞬をついて歩道に飛び出した小さな子供。
その子供に、軽トラックが今まさに衝突しようとしていた。
タッ!
間髪入れず、カナタは跳んだ。
考えるより先に身体が動いていた。
歩道に飛び出したカナタが、幼児を抱きすくめる。
「ウアアアアッ!」
異変に気づいて泣き叫ぶ子供。
向こう側の路側まで飛べるだろうか。
いや、間に合わない、カナタの眼前にトラックが迫る。
万事休すか、全身で幼児をかばいながら、カナタが目を閉じた。
だがその時だ!
ビュン。
風を切る音がした。
あ、何かの気配に気づいて顔を上げたカナタの傍らに、黒い影がそそり立っていた。
グン。
物凄い力で、カナタの全身が影の小脇に抱え上げられていた。
次の瞬間、ズドン!
轟音と共に、凄まじい風圧がカナタの身体を叩いた。
「あ、あ!」
カナタは再び目をつぶる。
胃が持ち上がるような感触。
全身の体重を感じない。
どこかに落下しているのだろうか。
そして、タン。
着地音とともに、カナタの全身に体重が戻って来た。
「ここは……!」
我に返ったカナタは、自分の身を検める。
抱きすくめた幼児は火が付いたように鳴いているが、まったくの無傷だった。
カナタ自身にも、痛みや怪我はないようだ。
「あ、あなたが……!」
カナタは驚愕の面持ちで、幼児と自身を救った影の正体を見上げた。
いったいどのような動きをしたのだろう。
カナタを抱え上げ、そのまま信じられないスピードで向こう側の路側帯へと跳躍したのは、黒いロングコートを纏った銀髪の男。
カナタがラーメン店で手助けした、あの男だったのだ。
車道に目を遣れば、カナタと幼児をはね飛ばす寸前だった軽トラックの車体が煙を上げて横転している。
ブレーキを切りそこねてバランスを崩したのだろう。
「やれやれ、せっかちなお嬢ちゃんだな、無謀にも程がある……だが、立派だったぜ!」
刀傷の刻まれた顔が、呆れた様子でカナタを見下ろしていた。
ゴツゴツとした大きな手が、フワリとカナタの頭をなでた。
「話の途中だろ? これがさっきの礼だ。持っててくれよ……」
そう言って、ようやく目当てのモノを探り出したのだろう。
男は懐から取り出した何かを、カナタの首にかける。
「これは……!」
カナタは再び息を飲んだ。
これは本物だろうか。
小粒のダイヤモンド、サファイア、エメラルド、ルビー……。
今、カナタの胸元に輝いているのは、何種類もの煌びやかな宝石をあしらった、黄金のネックレスなのだ。
「じゃあな、世話になったな、お嬢ちゃん……」
「まって、まってください!」
事もなげにその場から立ち去ろうとする男を、ショックでまだ立ち上がれないカナタは必死で引き留めた。
「ありがとうございます。あの、名前を、せめてお名前を……!」
「うん? ああ、俺の名は……」
呼び止めるカナタを振り向いて、男がそう答えかけた、その時。
ハサハサハサ……
男の耳元で、微かな翅音がした。
「ん? そうか、ああ、わかったよ……」
男の耳元で待っているのは、一頭の黒翅の蝶だった。
そう呟くと、男の表情が一瞬で厳しくなった。
「じゃ、またなお嬢ちゃん!」
「ちょ……まっ!」
何か急ぎの様でもあるのだろうか。
男はヒラリと身を翻すと、そのまま、カナタの前から四つ角の向こうに姿を消した。
#
「ユア! ユア! ごめんなさいユア!」
カナタの横で火が付いたように泣き続ける幼児を、駆けつけた母親が抱きすくめる。
「ありがろうごいざいます! 本当に、なんとお礼をいっていいか!」
そう言って、カナタに向かって何度も何度も頭を下げる若い母親の声。
だがその声も、今のカナタには何処か遠くから聞こえるようだ。
カナタは高鳴る胸を押える。全身がカッカと熱い。
目を閉れば瞼に浮かぶのは、銀色の蓬髪と精悍な顔立ち、ゴツゴツした掌の感触。
胸元のネックレスを茫然と眺めながら、カナタは声にならない声を漏らしていた。
あの人……なんか、父さんに似てる……!
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「まったくバルグルよ、人間に要らぬ節介などを……お戯れが過ぎますよ。だいたい獣王が人間の食事などをお召しになって、一体何になるというのです……」
暗い路地裏で、ロングコートの男の傍らに立った少女が、人形の様な顏を曇らせながら、彼にそう告げる。
「ああ、悪いなリーリエ。こっちの連中がどんな暮らしをしているのか、見てみたくてな。それに、あんな面白い女に会ったらジッとしてなんていられるかよ……。こっちの世界も、向こうと変わらねえな……。まあいい、行くぜ。仕事をはじめよう」
蓬髪の男は少女を向いて、獰猛に笑った。




