黒獅子城の影
「王は変わってしまわれた。牙蜘蛛一族との戦争でキルシエ様を失くされてから。何よりも、あの忌まわしい吸血鬼が黒獅子城にやって来てから……!」
翼の少女リートの肩が、やり場のない怒りに震えていた。
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翼人の一族、リートの故郷である獣の谷は、魔影世界の内でも最も勇猛で気の荒い獣族の集う戦士たちの国として知られていた。
独立心が強く、部族の誇りを重んじ、事あるごとに他の部族と張り合い、揉め事を繰りかえす。
そんな彼らが曲がりなりにもここ千年、大きな戦いや殺戮を起さずに一国としてまとまっていたのも、この地を治めていた獣王バルグルの剛腕によるところが大きかった。
無用な諍いを許さず、対立する各部族の言い分を分け隔てなく訊く。
通すべき筋は通し、罰すべき蛮行に至ったならず者は、国中のいかなる戦士も太刀打ちできない魔王の力を以て、果断に罰した。
獣王に反目する者は多かったが、彼を慕い忠誠を尽くす者の数は徐々に、やがて急速にその数を上回っていった。
バルグルの居城、黒曜石の砦『黒獅子城』には、魔王に仕えようと国中から腕に覚えのある戦士が集った。
魔王は、部族の別なくただ戦士の手腕を以て彼らを取り立て、勇猛に戦った者、谷の平定に力を尽くした者には、惜しみない褒章を与えた。
リートも、そんな戦士の一人だった。
バルグルの強さと高潔さに惹かれ、魔王に仕える戦士。獣の谷を乱すならず者を見張る空の番人。
それが、リートがバルグルから与えられた務めだったのだ。
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「それで、バルグルのいない今でも、ずっとこの谷を見張っていると……?」
「ええ。私も、正直あなたたち人間は好きじゃない。接界のたび、こちらに入り込んで来ては鉄の武器やおかしな術を使って、私たちを傷つける。無用な争いを引き起こすし、中には私たちの仲間を攫って行く者もいる……」
「攫うって……そんな、それって逆だろ!?」
シュンを見据えながら微妙な表情のリートに、シュンは戸惑いの声を上げた。
人間世界に迷い出た魔物たちと同様だった。
人間もまた、昔から魔影世界に入りこんでは、リートたち……この世界の住人に嫌われているというのだ。
「でも……だからこそ、この谷で私たちが同じ事をしてはいけないの。それが、あの方のお考えだった……」
リートが、美しい金髪を波うたせながら首を振り、ため息をついた。
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リートを始め、黒獅子城に集った臣下が魔王に寄せる信頼は絶大なものだった。
バルグルの強さには微塵の翳りも見えず、臣下は国の平定と外敵からの守りに力を尽くした。
獣の谷を束ねる獣王の治世は、長らく揺るぎないもののように思えた。
だが、崩壊の始まりは唐突に訪れた。
獣の谷全体を巻き込んだ、牙蜘蛛の一族との争いを突端として。
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「『牙蜘蛛の一族』って……?」
「獣の谷を囲んだ黒鉄山脈の地下深く……『隠の洞』に巣食った貪欲な大蜘蛛どもよ。下僕の大長虫をつかって谷に至る地下道を執念深く掘り進めていた奴らが、一族の長、魔王マガツに率いられて突然谷に攻め込んで来たの。そう、丁度バルグル様と私たちが石鰐の一族を討伐するために黒獅子城を留守にしていた隙を狙って……!」
首を傾げるシュンに、リートは厳しい顔でそう答えた。
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獣王バルグルにも、いや獣の谷の全ての者にも蜘蛛たちの襲来は予想もつかないことだった。
牙蜘蛛一族は貪欲で危険な存在だったが、それでもバルグルと獣の谷の戦士に比べれば力に劣り数でも劣った。
一族の長マガツにはどのような野心があったのだろう。
そのバルグルと戦士の留守を狙って、蜘蛛たちは谷に入り、そして一方的な殺戮を開始したのだ。
森には火が放たれた。子供、非力な者、戦士の力を者持たない者達は、次々に蜘蛛の牙にかかり命を落としていった。
谷の奥地より自身の居城に舞い戻った獣王は、城下の惨状を目にして怒りの咆哮を上げた。
バルグルは文字通りの鬼神と化した。
彼の斧の一薙ぎは数十の蜘蛛を叩き潰した。
黄金の翼の羽ばたきは嵐となって蜘蛛を蹴散らし、露わになった爪の一振りは疾風の刃となって蜘蛛を切り裂いた。
風に靡いた銀色の鬣は幾本もの鋭い剣に変じて蜘蛛たちを串刺しにした。
リートたちもまた奮戦した。
剣を振い、翼を撓らせ、谷に侵入した蜘蛛たちを次々に仕留めて行った。
蜘蛛たちはその数を半減して地下に逃げ去り、獣王と配下の戦士たちによって、獣の谷は奪還は果たされた。
だがその頃には既に、蜘蛛たちの凶行は獣の谷の住人、そしてバルグル自身の心に決定的な深手を与えていたのだ。
バルグルの妃キルシエが、魔王マガツの手にかかりその命を奪われたのだ。
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「キルシエ様は、誰にでもお優しかった。バルグル様が唯一心を許された方。桃色の花。美しい千年樹の花。そう、王妃キルシエ様は花の精だった……」
リートは遠くを見るような目で、ポツリとそう呟いた。
王妃キルシエは、獣の谷の切り立った断崖に根を下ろした桜の花。
魔影世界でもただ一樹、永遠にその花を絶やすことがないといわれる千年樹の花の精だった。
列強の魔王に匹敵する強大な力を持ちながら、争いを好まず誰にでも優しく接するキルシエを、獣王は愛した。
彼女を妃に娶り、周囲の断崖を切り取り削り、居城とした。
それが黒獅子城だった。
その愛する妃を目の前で殺され、永遠に失ったバルグルの悲しみと怒りは、いかほどのものだったのか。
リートは、直接目にしたわけではない。
だが玉座の間に巣食い獣王を待ち伏せていた牙蜘蛛の長マガツに炸裂した彼の制裁は凄まじいものだったという。
大蜘蛛マガツの腹は裂かれ、脚は全て引きちぎられ、頭部は潰されていた。
臣下たちがようやく玉座の間に辿り付いて目にしたのは、もはや原形さえとどめないかつて魔王だったモノの成れの果て。
そして玉座の間に呆然と立ち尽くした、血塗られた獣の王の姿だった。
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「バルグルと、獣の谷に、そんな過去が……!?」
「そうよ。魔影世界の魔王とその眷属の力は、私たちよりも遥かに強く、その命は永遠に等しい。千年樹の花の精キルシエ様も同じだった。故にその死は、限られた命しか持たない私たちよりも、遥かに恐ろしくいたましい……。バルグル様があのような事をしたのも、あるいは悲しみのあまり、お心を乱されたのかもしれない……王が兵をあげたその時ですら、私たちはそう自分に言い聞かせていた。あのような者の言葉を王が受け入れたなど、とても信じられなかった。でも……!」
リートは悲しそうに頭を振ってそう言ったが、顏を上げてシュンを見据える青い目には、怒りの炎が燃えていた。
「あなたたちの話を聞いて確信した。間違いない。バルグル様をそそのかし、操っていたのは、やっぱりアイツだったのよ。あの忌まわしい下賤の者。闇の森の吸血鬼……!」
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「お前は一体……!?」
「言え! 誰の許しを得て、此処に居る!」
獣の谷、黒獅子城の玉座の間だった。
牙蜘蛛一族との戦から三月が過ぎていた。
王妃を亡くした悲しみからか、それからは言葉を失い、まるで抜け殻のようになってしまったバルグル。
彼の身を案じて玉座を拝したリートの前に、その者はいた。
「貴様は、まさか……!」
リートも、彼女と共に王の許を訪れた黒犬の戦士、ゲブリュル兄弟も、皆一様に言葉を失っていた。
「これはリート殿、ファング殿、クラーレ殿、ナーゼ殿。お初にお目にかかります……」
玉座に着いたバルグルの傍ら。
緋色の衣に身を包んだ見たこともない女が、妖しく微笑み、リートたちに恭しく一礼をしたのだ。
「私は、闇の森のリーリエ。今日よりバルグル様にお仕えする、獣王の端女にございます。以後、お見知り置きを……」
「闇の森の……吸血鬼!」
「馬鹿な! 貴様の様な下賤の者が、なぜこのような場所に……!」
「何故です獣王よ、お答えください!」
愕然として次々に怒りの声を上げるリートと黒犬の兄弟。
だがバルグルは無言のまま答えなかった。
あの誇り高く偉大な獣の王が……!
リートの全身を、得体の知れない恥辱と戦慄が走った。
バルグルの傍らに立った緋衣の少女の姿。
長い黒髪、真っ白な肌、黒珠のような瞳、まるで人形の様な顏。
一見人間と変わらないその姿は、だがリートにも、周囲の者にも強烈な不安と嫌悪感を抱かせずにはいない、ある種の特徴があった。
それは『何も無いこと』だった。
少女からは、いかなる魔気の力も、脈打つ生命の輝きも感じられなかった。
ただ他者の魔気や生命を啜って生きながらえる、魔影世界で最も非力で忌み嫌われた負の存在。
少女は、吸血鬼だった。
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「それが、全てが狂う、始まりだった……」
リートは美しい顔を歪めて、シュンにそう吐き捨てた。
「うーん、ちょっと待ってくれ……なんかそれ、変な気がするな……」
シュンは頭を掻きながら、不思議そうにリートを見た。
「お前らの王様のバルグルは……誰でも公平に話を聞いて、部族に関係なく手柄を認める……そこが凄いって、さっきそう言ってただろ? なのに何でそのレ……じゃなくてリーリエだけ、そこまで嫌がるんだよ? お前ら……」
そう言えば、タヌキのヤギョウもレイカのことは忌み嫌っていたようだ。
匂いが何もない……。
あのシーナも、リートと同じような事を言っていた。
早々にレイカのことを怪しんでいたっけ。
「黙りなさい! 人間に何がわかるって言うの、確かに獣王は公平だった。でも、あいつは、あいつだけは駄目だったのよ!」
そう叫んでシュンを睨んだリートは、完全に冷静さを失っているようだった。
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黒獅子城に現れた吸血鬼の少女。
彼女が獣王に取り入ったという話は瞬く間に獣の谷を走った。
「獣王狂す」との噂が臣下や住人の間に広がる。
バルグルを信奉していた幾多の戦士が吸血鬼を滅ぼすか、黒獅子城から駆逐しようと試みたが、無駄な事だった。
城に潜んだ吸血鬼は自身に迫った危険を察すると、何処かに姿を消してしまう。
その姿や気配を捕えることは、戦士たちには不可能だったのだ。
やがて、城からは完全に緋衣の少女の姿が消えたように見えた。
バルグルに影の様に付き従っていた少女は、その影を何処かに潜めた。
吸血鬼が獣王の許から去ったのでは、と胸をなでおろす者もいた。
だが夜の城を知る従者たちは、忌々しげに首を振った。
従者たちは知っていたのだ。
月も射さぬ夜更け。
松明に赤く照らされた玉座の間をハサハサと舞う何頭もの黒翅の蝶、その声とも言えない囁きに耳を傾ける獣王の姿を。
あるいは、月の光の輝りかかる城の中庭。
燃え尽きた古木の残骸を前にして、姿も見えぬ何者かと熱っぽく語らう獣王の姿を。
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「そしてついにその日、獣の王は、吹雪の国にむけて兵を挙げた……。あとは、あなたたちも知っている通りよ……」
「レイカが、バルグルに……」
リートは虚ろな表情でシュンとメイを見回した。
シュンは言葉を継ぐことができない。
自身の私兵……魔王の肉体より生じた分身である、300匹の魔狼を従えたバルグルは、魔王シュライエの領土である『吹雪の国』に向かって進軍を開始したのだ。
あとは、タヌキのヤギョウが比良坂の館で話した通りだったのだろう。
バルグルは、国境の辺境、吹雪の塔に封印された魔剣『裂花の晶剣』を目覚めさせた。
薔薇の蔓が空を覆って、常軌を逸した二界の融合『大接界』が始まる。
メイの母、魔王シュライエがそれを阻止しようとバルグルに挑む。
シュライエが、命がけで自身の身の内に魔剣を封じる。
力を使い果たして人間世界に落ちるシュライエ。それを追うバルグル……
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「私は絶対に許さない。バルグル様に取り入り、そそのかし、お心を乱したあいつを……! あの吸血鬼を! 次に会った時こそ、あいつが地獄に落ちる時……!」
リートはしばしうつむいて、金色の髪を怒りに震わせていた。
「あなたたちと、バルグル様に、人間界でそんな縁があったなんて、複雑な気持ちね……。でもそれはそれ、これはこれ。さっきの約束は守るわ。行きましょう……」
だが自分の気持ちを吐き出して少し落ち着いたのか、再びスタスタと森の中を歩き出した。
「行くって何処に? 宛てはあるの?」
「ええ、多分ね。その子たちがこの辺りの住人と出合っていたら、その場で殺されるか、食べられるかしているはずよ。『捕まった』というのなら、そいつは多分流れ者だわ。『あいつら』が、怪しいかも……」
リートは、メイを向きもせずにサラリと恐ろしい事を言うと、歩みを速めた。




