魔を注ぐ者
「『黒川切人』……! 35歳。婦女暴行容疑が8件、殺人未遂容疑が3件で、現在警察の目を逃れて逃亡中……!?」
メイが差し出したスマホのディスプレイを眺めて、シュンは驚きの声を上げた。
夜の公園でシュンたちを襲った狼男は、紛れも無い人間だったのだ。
それも強姦と暴力事件の常習者。
逃亡中の凶悪犯罪者だというのだ。
「やはり人間。それも札付きのならず者であったか。あの邪悪な気配、魔を注がれただけでは身に纏えぬもの……!」
「でも……そんなヤバイやつに、一体だれが魔物の力を?」
ヤギョウが納得いったようにうなずいた。
シュンとメイは、再び顔を見合わせ首を傾げた。
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「ガア……ガア……ガア……!」
人気のない夜の河川敷だった。
夜の闇を、冷たい前照灯や車窓から漏れ出る灯でゴウゴウと切り裂きながら列車の行きかう高架橋。
その橋の支柱にもたれて、一匹の異様な獣が苦しげな呻きを漏らしている。
全身を覆った真っ黒な剛毛。
耳まで裂けた口から生えた鋭い牙。
獣の右の肩口は、内側から爆ぜたかのようにザックリと割れている。
創口からズブズブと立ちのぼった煙が、辺りに肉の焦げる厭な匂いを漂わせていた。
夜の公園でメイを襲い、シーナとシュンと一戦を交えた、あの人狼だった。
「グオア……創が……塞がらねえ……くそが! あのガキどもぉ……」
砂利道を鉤爪で掻き毟り、裂かれた肩を押えながら。
人狼が忌々しげに吼えた。
狼の創からは、ピンク色の無数の肉芽組織がプツプツと盛り上がり、肩に開いた大穴を覆い塞ごうとしていている。
だが通常の生物ならば間違いなく絶命しているだろうその創を完全に修復するには到底足りていないようだった。
そして、その時だった。
「失敗したのね。キリト……」
苦しげな狼に、まるで鈴を振るような澄みきった声がそう呼びかけてきた。
ザザザアアアアア……
河辺を冷たい風が渡った。
「お前は……!」
狼が、声の主を見上げた。
いったい何時からそこにいたのか。
暗い高架橋の下、獣の前に立ち、獣を見下ろす影がある。
まるで河辺の闇にそのまま溶け込んで行くように、長い黒髪が夜の風に靡いている。
身にまとっているのはビロードのワンピース。
色は血のような深紅。。
ワンピースからスラリと伸びた剥き出しの四肢。
肌は雪をも欺く透き通るような白さだった。
獣を見下ろしていたのは、一人の、少女だった。
対岸の街灯の光を背にして、その顏は定かに見えない。
まるで触れば壊れてしまいそうな体躯の年端もいかない少女が、狼を見下ろしていたのだ。
「でも、大丈夫よキリト」
少女が、優しげな声で狼に語りかけた。
「その体はまだ動く。その創もじき癒える。さあ、もう一度やり直すのよ」
玲瓏とした声で、狼にそう言う少女。
「ま……待ってくれ! イヤだ!」
キリトと呼ばれた狼は、慌てた様子で少女を見上げた。
「あいつらが……あんな武器を使うなんて聞いてねえぞ!」
シュンに左目を潰された狼が、残された右目で恨めしそうに少女を睨む。
「いいえ、キリト。『力』を使役する者がいることは教えていたはずよ。あなたと同じ力。あなたが滅ぼし得る力。あなたを滅ぼし得る力。何も嘘は言っていないわ……」
少女は気に留める様子も無く、そう答える。
「なあ、もういいだろ? 『他のヤツ』に頼んでくれよ。あんなのともう一度やっても、とても勝てねえよ……」
哀れっぽく鼻を鳴らしながら、少女にそう懇願する狼に。
「駄目よ」
先ほどの優しげな調子とは一転、少女の声は冷やかだった。
「『彼』が動けるようになるまで、まだ時間がかかる。本格的に『接界』が始まるまでに、『あの子』を捕えておきたいの。『あの子』を試しておきたいの」
少女が訳の解らない事を呟きながら、狼に近づいてきた。
「そのために、あなたに『力』を注いだのよ、キリト。それにもう、あなたの身体は人間の食事では持たないわ。生き続けたいのならどのみち、あの子を守る者達を倒し、私たちの側に加わる以外に道はないのよ……」
「グアア……イヤだ、死にたくない!」
恐怖の呻きを漏らして、少しでも少女から遠ざかろうとする狼だったが、少女は意に介さずに、
「ほら、お腹が空いているんでしょ?」
狼にそう囁いておもむろに。
少女は真っ白な手首を自身の口元に運び、朱をさした様な唇を押し当てた。
そして、ツプン。
少女の真っ白な歯が、自分の手首を噛み裂いた。
「キリト。舐めていいわよ……」
少女はそう言って、狼向かって自分の手首をかざした。
ポタリ、ポタリ。
川辺の砂利に、少女の真っ赤な血がしたたり落ちてゆく。
狼の傷の焦げたイヤな匂いが、更に濃厚な何かの匂いに塗りつぶされていった。
甘く、腐った果実のような、少女の血の香だった。
「グ……グ……グ……」
狼の身体が震える。
口元から涎が滴る。
狼が呻く。
耐え難い衝動にその身を委ねる、歓喜の呻きだった。
次の瞬間、
「ガウッ!」
狼が、地面に滴った少女の血にむしゃぶりついた。
真っ赤な舌を出し、なりふり構わぬ様子で血を舐め取り、ズルズルと啜り上げて行く狼。
そして見ろ。ズズズズズ……。
シュンに裂かれた狼の右肩に、異変が起きた。
創口が蠕動していた。
それまでとは比較にならないスピードで、ピンク色の肉芽が盛り上がる。
肩に開いた大穴を見る見る修復し、塞いでいくのだ。
「いいわ。もっとお舐めなさい」
少女が嗤っている。
彼女の真っ赤な唇もまた、歓喜に歪んでいるかのようだ。
「女を犯したいのでしょう? 女を殺したいのでしょう? その望み、もう誰も邪魔したりしないわキリト。今一度、私との約束を果たしさえすれば……」
剛毛に覆われた狼の頭を撫でながら、少女が囁く。
「ング……ング……わあった……あいつら……全員殺す!」
地面に垂れた血を全て啜り切り、そう呻いて少女を見上げた狼。
獣の右目は、ドロリと赤く濁っていた。
その口はだらしなく弛緩し、その声は何かに酩酊しているかのように呂律が回っていない。
そして肩の傷の癒えた狼の肉体に更なる変化が起きた。
肩や、手や、脚、盛り上がった全身の筋肉が収縮してゆく。
長く鋭い鉤爪が、指先に潜り込んでいく。全身を覆った真っ黒な剛毛が次第に薄れてゆく。
今少女の前に跪いているのは、人間の姿に戻った年は三十半ばの一人の男だった。
全身には何も纏っていない。あばらの浮いた胸、ヒョロ長い手足、ボサボサの頭髪。卑猥な顔つき。
公園でメイに話しかけ、警官を殺したあの男の顔だった。
その眼だけは狼の時と同様真っ赤に濁っている。
呆けた表情で少女を見る男。
「ふふ……いい子ね、キリト。私の坊や……ご褒美を上げるわ」
少女がそう言って、男の蓬髪を撫でた。
少女が、自身の右手に目を遣った。
ズルン……
突然、紫色の妖しい輝きとともに、少女の真っ白な手の中から、何かが湧き上がった。
一体何処に隠れていたのか。
少女の内から這い出てきたのは、蛇だった。
真っ黒な鱗でその身を覆い、二又に別れた舌をチロチロと口から漏らした、双頭の蛇だったのだ。
「これなるは『ムルデの黒蛇』。私が『彼』から預かった、獣の谷の蛇の内でも最も強い魔と執拗な毒を持つ蛇……」
紫の燐光を放った双頭の黒蛇が、少女の腕を這い、胸元を上り、少女の髪に潜り、再び少女の内へと消えて行く。
「さあ、おいでなさいキリト。あなたにこれを、『あげる』……」
少女の真っ赤な唇が、再び妖艶に歪んだ。
「う……あ……あ……」
男が焦点の定まらない目で少女を見上げ立ち上がった。
全裸の男の筋張った首に、少女は自分の顏を寄せた。
そして、ツ……
朱をさした様な少女の唇から伸びているのは、真っ白な、二本の尖った犬歯だった。
少女の牙が、呆けた男の首筋に、ゆっくりと潜り込んでいく。
「いぃぐぅあぁぁあああぁ……!」
男の口から、苦痛と歓喜が綯交ぜになったような掠れた声が漏れだした。
男の濁った眼が中空を見据えて見開かれる。
男の首筋、次いで男の全身のそこかしこが不気味に隆起して脈動をはじめる。
人気のない河川敷の高架の下の闇の中、二つの影がしばし絡み合い、男の異様な呻きが、夜の河辺に長々と渡り続けた。




