獣王の剣
「リート……? 何を……している! リート!」
「バルグル様……」
黒曜石の短刀から自身に注がれる魔気の異変に気付いたバルグルは、慄然とした表情で呻いた。
短刀に込められている魔気は、王妃のものだけではなかった。
敵の命を奪うために鍛えられた牙蜘蛛の邪剣は、本来の目的と異なる使い方をした、持ち手自身の魔気をも吸い取っていたのだ。
『マーデの短刀』が、リートの小さな身体から魔気と命を吸収し、その全てバルグルに捧げようとしている!
「やめろ。やめろリート! 死ぬ気か!?」
「バルグル様。私の歌。一度はバルグル様に聞いてほしかった……でも、やっぱりだめか……」
少女の目的に気づいたバルグルが、怒号を上げて彼女を制そうとするが、その声はもうリートに届いていないようだった。
翼の少女は、輝きを失った青い目で獣王を見据えて悲し気に微笑んだ。
視界がぼやける。目前のバルグルの顔が暗闇の中に沈んでゆく。
体が冷たい。全身の力が抜けてゆく。もう、立つこともままならない。
リートの制御の離れた『マーデの短刀』が、急速にリートの命を奪い去ろうとしていた。
「バルグル様。あなたはあなたの望みを成してください。キルシエ様のために戦って……。そしてお願いします。最後まで、優しい方でいて!」
獣王の銀色の蓬髪を撫でながら、掠れた声でリートはそう囁いた。
輝くようなリートの金髪が、見る間に灰のような白へ、薔薇色だった頬が死色の蒼白へと変じていく。
「さようなら。私の王様……」
「リートおおおおおおお!」
既に立つ力を失い、自身の胸に倒れこむリート。獣王は絶叫した。
力を取り戻した獣王の左手が、自身に突き立てられた黒曜石の短刀を無理やりに引き抜いた。
獣王の右腕が、リートの身体を抱きすくめた。
ゴオオオオ! 引き裂かれた獣王の身体から、蒼黒い炎が噴き上がった。
#
「馬鹿な……何をした翼人!?」
バルグルとリートに起こった異変に、美貌の魔王アオレオーレは狼狽の声を上げていた。
獣王に止めを刺すはずだった翼の少女の短刀が、逆に獣王へと力を注いでいた。
バルグルの引き裂かれた肉体の内が、凄まじい魔気で満たされてゆくのだ。
「獣王を復活させるために、自らの命を……!?」
自身に取り入ってバルグルの命を奪おうとしたリートの、それが本来の目的だったというのだ。
「まずい!」
予期せぬ方向から狂ってゆく自身の計画に、アオレオーレの美貌が歪んだ。
白竜の魔王の掌底が、蒼黒く噴き上がった獣王の炎へ向けられた。
ドン! ドン! ドン!
アオレオーレの放った『ブリントの衝壁』がたて続けに獣王を直撃し、辺りの瓦礫を薙ぎ払った。だが……
「グッ……!」
アオレオーレは呻いた。
吹き散らされた獣王の炎、飛び散る礫、立ち上った土煙の間から、ゆっくりと立ち上がった者の姿があった。
注がれた魔気によって再生した両足が、力強く大地を踏みしめていた。
輝くような銀色の蓬髪が、ザワザワと波うち逆巻いていた。
見開かれた灰色の瞳が、激しい怒りと哀切の光で輝いていた。
白竜の魔王は見たのだ。
一糸も纏わぬ逞しい裸身。
翼の少女リートの身体を抱え上げた、獣王バルグルの姿を!
「リート……。すまねえ……!」
獣王はやるせない顔で、自身の腕の中で変わり果てた姿となったリートを見下ろした。
「ウ……ゴ……? 姐さん、リートの姐さん?」
「目を覚ましたか、トロール……」
リートの絶叫に当てられて昏倒していたトロールのザックが、頭を振りながら路上から立ち上がる。
バルグルが悲痛な顔で、ザックの方を向いた。
「ザック……だったよな? 頼む。こいつの身体を預かっていてくれ……」
「ウゴゴ……そんな、姐さんが!?」
バルグルの元に駆け寄ったザックが、獣王が抱き上げているリートの異変に気付いて呻く。
ザックの図太い両腕に、リートの身体を預けると、獣王はアオレオーレを向いた。
「アオレオーレ……!」
「ハ……ハハ……復活したのかバルグル。これは丁度いい余興だ。無力なままの君をいたぶって殺しても、私自身の胸に後味の悪いものが残……」
アオレオーレ向かって一直線に歩いてくるバルグルから、美貌の魔王は唇の片端をヒクつかせながらジリジリと後ずさる。
再び辺りに立ち込めてゆく白い霧が、アオレオーレの全身を覆い隠してゆく。霧に紛れて、美貌の魔王が獣王の視界から姿を消す……かに見えた、その時だ。
「ぬうん!」
突然、獣王は自身の背後を振り返った。
獣王の振るった丸太のような腕。
ズドン。バルグルの拳は、彼の背後に立ち上った白い霧の向こうの何者かを殴りぬいていた。
「ドバァアアーーーーー!!!」
次の瞬間、情けない悲鳴を上げながら紛れた霧の内から転がり出てきたのは、鼻血を吹き上げたアオレオーレだった。
「お前の考え付く事など、どうせこんなものだろう。言ったはずだアオレオーレ。殺気は隠せないと……!」
「う……ぐ、ぐ、ぐ……! バルグル、よくも私の貌を……!」
地面に転がり呻くアオレオーレを見下ろして、バルグルは冷たくそう言い放った。
バルグルが殴りつけていたのは、自身の能力『虚空の霧』に紛れて、獣王の背後から『ブリントの衝壁』を放とうとしていた、アオレオーレの顔面だったのだ。
アオレオーレの美しい貌が獣王の拳の一撃で拉げ、その鼻先は砕かれていた。
「許さない、絶対に許さないぞバルグル!」
地面から立ち上がったアオレオーレが怒りに貌を歪ませてバルグルを睨んだ。
純白のローブに包まれた少年の全身からパチパチと銀色の稲妻が瞬き、少年の周囲に再び濃厚な白い霧が立ち込めてゆく。
「来るか、アオレオーレ!」
獣王の顔が険しさを増した。
「ウ……ゴ……? なんだアレは」
両腕にリートを抱え上げながら、トロールのザックも頭上に聳えてゆく巨大な霧の塊に驚愕の声を上げた。
そして、バサアアッ! 何かが羽ばたくような音とともに、上空から叩きつける強風。
風に吹き散らされた霧の向こうから姿を現したのは、蝙蝠のような形の乳白色の翼手。
二股に割れたしなやかな尾。まるで色素欠乏症のヤモリのような真っ白な全身。
頭部から伸びあがった、水晶柱のような6本の角。獣王を睨み下ろす、琥珀色の巨大な両目。
霧の向こうから現れたのは、翼長20メートルは超えていそうな、純白の巨大な飛龍だった!
「なるほど……『その姿』か……!」
姿を変えたアオレオーレを見上げて、獣王は忌々しげに鼻を鳴らした。
「アオレオーレ。全くお前は臆病者のくせに、どこまで相手を舐めているんだ……? その」
「う、うるさいバルグル! 今のお前ごとき、私だけで十分だ!」
巨大な白竜を仰いで、呆れたような声を上げるバルグルの言葉を、怒りに燃えるアオレオーレの声が遮った。
バサリ。巨大な翼の羽ばたきと共に、竜の身体が宙を舞った。
白竜の頭部の6本角から、パチパチと銀色の稲妻が瞬く。
「くらえ! 『白竜の断罪』!」
「くっ!」
「ウゴアアアア!」
アオレオーレの怒号と共に、水晶柱のような角から放たれた幾本もの銀色の光線。
乱射された光線が地上の車やビルの壁面、拉げた街灯やアスファルトの路面を次々に抉ってゆく!
自身の身体を狙って放たれた光線かわしながら、バルグルは飛び退る。
リートを抱えたザックが、慌ててビルの物陰にその身を隠した。
「ハッ! いいざまだな獣王。『オルカンの破城斧』を失ったお前が、この私に勝てるとでも?」
獣王に向かって再び狙いを定めながら、空中の白竜が嗤う。
アオレオーレの頭部の6本角が、再び銀色の稲妻を瞬かせはじめた。
「リート……」
地上の獣王が、再び小さくリートの名を呼んでいた。
獣王の右手には、自身の胸から引き抜いた『マーデの短刀』が握られていた。
ザワザワザワ……。
本来の目的と異なる使い方にひび割れ、砕けかけた黒曜石の刀身を、銀色にうごめくバルグルの蓬髪が覆ってゆく。
蓬髪が刃に変じてゆく。
短刀だった刀身が見る間にその丈を伸ばしてゆき、漆黒だったその色は、獣王の髪と同様、輝くような銀色に……
「剣……だと!?」
空中のアオレオーレが戸惑いの声を上げる。
「そうだ。こいつは……『リートの剣』!」
白竜を仰いでバルグルは叫んだ。
今獣王の手の中に在るのは、その刀身の内から白い光を放つ、一振りの銀色の長剣だった。
バサリ。獣王の背にもまた、巨大な翼が生じた。
かつて銀色だったその翼が、今は翼人のそれと同様の純白へと変じていた。
獣王が剣をかざした。
「くっ! 何をしても無駄だ……」
アオレオーレの角がその輝きを増してゆく。
角から放たれた幾本もの光線『白竜の断罪』が、地上の獣王めがけて走ってゆく。
だがその時だ。
「なんだこれは!?」
白竜の琥珀色の両目が驚愕に見開かれた。
彼の放った『白竜の断罪』が、乱射された光線が、獣王のかざした剣に引き寄せられてゆくのだ。
幾筋もの銀色の光線をその刀身に集中させながら、バルグルの剣がその輝きを増してゆく!
「私の力を、吸収している!?」
アオレオーレがその声に狼狽の色をにじませた、まさにその時、
「ずうああ!」
裂帛の気合と同時に、地上の獣王が自身の剣を振った。
「ギエエエエ!」
空中のアオレオーレの絶叫が周囲の空気を震わせた。
獣王の振った刀身の先端からアオレオーレの翼手の片方を、その基部から斬りとばしていたのだ。
「ううう翼! 私の翼!」
苦悶の声を上げながら地上に墜落してゆくアオレオーレ。
残された片翼を撓わせながら、どうにか体勢いを立てなおして着陸しようとする白竜だったが。
バサリ。
そのアオレオーレの視界を、自身のものとは異なる翼の羽ばたきが掠めていた。
「バ……バルグル……!」
地上から飛翔し自身の頭部に銀色の刃を振り上げた者の姿を認めて、アオレオーレは絶望の呻きを漏らした。
「去れ……! 魔王アオレオーレ!」
灰色の瞳を怒りに煌かせたバルグルが、白光を放った『リートの剣』を、白竜めがけて振り下ろした。
途端、ビュン。
刀身から同時に放たれた銀色の光の刃が、白竜の全身を貫いてゆく!
「ギャアアアアアアア!」
凄まじい断末魔とともに、白竜の体が内側から膨れ上がると、次の瞬間……
アオレオーレの全身が、空中で爆発四散した!
蒼黒い炎に包まれながら、空中で燃え尽き消滅してゆく白竜の残骸。
「ウゴゴ……すごい! あれが、魔王の戦い!」
「バルグル様……?」「勝ったのか!」」「アオレオーレに!?」
地上では、リートを抱えたトロールのザックが驚愕の声を上げていた。
ようやく昏倒から目を覚ました黒犬の三兄弟も、戦いの行方を見定めて歓喜の声を上げた。
#
「バルグル様……! あの魔王アオレオーレをついに!」
「斃した! 天空城の白竜の上主を……」
純白の翼を撓わせながら地上に降り立ったバルグルに、黒犬兄弟が昂った様子で駆け寄っってくる。
「いや……。あいつを滅ぼしたわけではない……」
犬たちの言葉に答えて、獣王は苦々しげに首を振った。
「あいつの……アオレオーレの本来の姿は三つ首の巨竜。三位一体の魔王だ。さっき斃したのはその分身の一体に過ぎない。とはいえ……」
バルグルは大きく息をつきながら空を仰いだ。
「三つある頭の一つを失ったんだ。あの性悪も当分、自分の『天空城』から動くことは出来ねえはずだ。そんなことより兄弟……」
バルグルは黒犬兄弟を見回しながら、神妙な顔でそう声を上げた。
「この俺の、最後の頼みを聞いちゃあくれないか……?」
「頼み?」「バルグル様の?」
獣王の言葉に、犬たちは不思議そうに互いの顔を見合わせる。
再び顔を上げた獣王の視線の先には、トロールのザックと彼の腕の中のリートがいた。
「ウゴゴ……! 姐さん、リートの姐さん。お願いです、目を開けてください……!」
自身の命の恩人の変わり果てた姿を見下ろしながら、トロールは泣いていた。
リートの黄金の髪は、いまや燃え尽きた灰の色。
表情を失ったその貌は、死者の白蝋。
そしてその身体は、氷のように冷たかった。
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「お別れだゲブリュル兄弟。お前たちは、あのトロールとリートを、牙蜘蛛たちから守ってくれ。そしてこの場所からなるべく離れて、安全な場所まであいつらを……」
「そんな! バルグル様!」「俺たちはバルグル様と、最後まで戦います!」
そしてバルグルの発した言葉に、犬たちは次々と戸惑いの声を上げた。
「頼む兄弟! あいつを故郷まで……獣の谷に還してやってくれ。それに俺は……」
黒犬兄弟に頭を下げながら、バルグルの声が悲痛に軋んでいた。
「お前らのために、リートのために、キルシエのために、俺は俺のケジメを新宿で着けなきゃならねえ。なあそうだろう? リーリエ……!」
バルグルは空を仰いで静かにそう呟いた。獣王の灰色の瞳の奥には、凄まじい悔恨と、憤怒の炎が燃え上がっていた。




