桜の記憶、最後のリート
「言ったはずよ、魔王アオレオーレ。獣王を処断するのは、この私の役目だと……」
「フン。わかったよ翼人。あとはお前の好きにしろ。それにしても獣王は、つくづく良い臣下を持ったものだな……!」
黒曜石の短刀を右手に握り、表情を失った貌で獣王に歩み寄るリート。
アオレオーレは嘲るような貌で、翼の少女にそう答えた。
大接界の混乱に乗じて、アオレオーレが人間世界に放った小飛竜の間者たちは、既にバルグルがマガツに敗れ、その力の大半を失っていることを白竜の上主に伝えていた。
美貌の魔王は、目障りな獣王を滅ぼす千載一遇の機会を逃すつもりは無かった。
無力となったバルグルを、だが自らの手で確実に滅ぼすために人間世界へ出向こうと、彼が黒獅子城から去ろうとしたその間際のことだった。
かつてのバルグルの臣下、獣の谷の番兵リートは、獣のまるでアオレオーレの心を見透かしたように、彼の前に立ち、ある申し出をした。
獣の谷の王の始末は、獣の谷の戦士がつける。自分をバルグルの元まで導いてくれと。
興が乗った美貌の魔王は、リートにそれを許した。
「リート……何故お前が、それを持っている……!?」
地に伏し動けぬバルグルは、苦渋の形相でリートを睨みあげていた。
少女が握りしめているのは『マーデの短刀』。
隠の洞の黒曜石を鍛え上げ、貫いた者の魔気と命をすする邪刀。
牙蜘蛛マガツの振るう『フリーゲの槍』と素材を同じくする、おぞましい牙蜘蛛の武器だった。
あの夜、獣王の居城『黒獅子城』の中庭で、王妃キルシエの命を奪った忌むべき剣。
戦火に紛れて、何処かに失われたと思われていたその短刀が今、青い瞳を冷たく輝かせた翼の少女の手の中にあったのだ。
「流れ者バルグル。王の務めを捨て獣の谷を去った裏切者。もう谷にも……私の元にも戻らぬというのなら、いっそこの刃で……キルシエ様と同じように……!」
譫言のように何かをブツブツ呟きながら、リートは右手の剣を構える。
「まさか……! まさか……! リート、お前が……!?」
獣王は愕然として、灰色の目を見開いた。
彼の脳裏を、恐ろしい想像が駆け巡っていた。
あの夜、黒獅子城の中庭で王妃を刺したのは、魔王マガツではなかったのではないか。
城の造りを知り尽くし、谷に攻め込んだ牙蜘蛛の長をあの場所まで導き、そしてキルシエの命を奪ったのは……もっと誰か、別の者だったのではないか!?
「ぐ、あ、あ、う! 何故だ、リート!」
リートを見上げる獣王の口から、絶望の呻きが漏れた、その時だ。
「ウゴゴ……リートの姐さん!」
「……ザック!?」
ドスドスと大きな足音が地面を揺らした。
霧の中から、巨大な影が駆け出して、リートとバルグルの間を隔てた。
リートが戸惑いの声を上げる。
現れたのは、黒獅子城で留守を任せてきたはずの、トロールのザックだった。
「姐さん……俺、馬鹿だから難しい事はわかんねえ。でも、こんなの駄目です! 姐さんが自分の王様を手にかけるなんて……」
「どきなさいザック。ここは危険よ。牙蜘蛛や、恐ろしい人間がたくさんいる……城に帰って、待っていなさい……」
黒犬たちやアオレオーレをビクビクしながら見回しながら、それでもトロールは精一杯声を張ってリートを止めようとしていた。
「いや、どかねえ。帰らねえ。姐さんは……もう帰らないつもりだ!」
ザックが、リートをまっすぐ見つめていた。トロールは両手を上げて、バルグルをリートの視界から遮った。
「姐さんは……俺やガングの旦那のことを、最後まで気にしてくれていた。俺たちの命を助けようと……心を砕いてくれた。その姐さんがこんなことするなんて……間違ってる!」
「黙りなさい。あなたに何がわかる!」
ザックの言葉に、リートが苛立たし気に首を振り、声を荒げた、その時だった。
「させんぞ、リート!」
「うあ!」
「姐さん!」
一瞬のことだった。路面に横たわっていた黒犬兄弟の一頭、動けぬはず長兄のファングがリート向かって跳びかかった。
最後の力を振り絞った黒犬が、リートに牙を立て、彼女の喉元を咬み切ろうとしていた。
「グ……ギ……」
地面で犬ともつれあうリートの口元から、軋む様な異様な呻きが漏れて、次の瞬間!
「ギャオオオオオオオオ!」
「うわあああああ!」
空気を切り裂くような、凄まじい声が辺りを渡った。
地獄の悪鬼のような咆哮に全身を叩かれて、黒犬ファングが地面に転がる。
黒犬兄弟も、トロールのザックも、咆哮に耐え切れず昏倒して意識を失っていた。
声は、リートの口から放たれたものだった。
「リート……! その声……!」
バルグルがいたましげに、リートから顔を背けた。
黒犬を振り払ったリートが、再びバルグルの方を向いた。
リートの纏った白銀の鎖鎧は、その喉元から胸元までを、黒犬の牙に咬み裂かれていた。
そして、リートの喉元は……
無残に、抉り取られていた。
黒犬の牙によるものではない。古傷だった。
「知っていたでしょうバルグル様? これが私の本当の声。いつもはこの『調和の虫鈴』で隠していたけれど……」
まるで劇物か何かに侵されて、溶接された鉄の繋ぎ目のような喉の傷を撫でながら、リートは凄絶な貌で笑った。
鈴を振るようだった澄みきった彼女の声が、今はまるでしわがれた老婆のそれに変わっている。
黒犬との格闘で、彼女の輝くような金髪を飾っていた花飾りの鈴、リートの本当の声を隠していた『調和の虫鈴』が、犬の爪に引きちぎられて地面に転がっていた。
「フン……。獣の谷の番兵。翼人のリートか……。獣王への忠誠も偽りなら、その声まで偽りとは。心根同様、醜い声だ……!」
アオレオーレは形の良い眉を潜めて、小さくそう呟いていた。
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リートが自身の美声と翼人の歌を失ったのは、獣王のもと谷の平定のために身を投じた戦が原因だった。
谷の奥地に巣食った蛮族『石鰐の一族』を駆逐する戦いの最中、鰐の蛇使いの放った毒蛇『ムルデの黒蛇』の一匹が彼女の喉元に喰らいついたのだ。
喉は焼かれ毒は全身を巡った。リートは何日も生死の境を彷徨った。
翼人の薬師たちの治療と、彼女自身の生命力によって幸いにも一命をとりとめたリートだったが、彼女の声と、聴くもの全てを魅了して眠りに誘う翼人の歌は、永久に失われた。
歌声は翼人の命であり、リートは一族を追われた。
そして自らの命を賭してまでリートが慕い、忠誠を尽くした獣王バルグルは……
王妃の死後ほどなく、谷から姿を消した。
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「バルグル様。私のこの声はあなたへの忠誠の証。あなたへの愛の証。なのにあなたは……!」
リートは虚ろな目でバルグルを見据た。
バルグルの前に立った翼の少女が、彼の銀色の蓬髪をつかみ上げ、その逞しい上体を自身の目の前に引きずり起こした。
「ぐっ! ここまでか……!」
バルグルが無念の声を上げる。
先ほどのアオレオーレとの闘いと被ったダメージで。バルグルの力は尽き果てていた。
もう蓬髪を操ることも、刃を放つことも出来ない。
獣王は少女の、されるがままだった。
「もう、私の元に戻らぬというならば……せめて!」
リートが、右手の刃を構えた。
そして、ズブリ。
むき出しになった獣王の逞しい胸板に、リートの刃が、突き立てられた。
「グアアアアア!」
獣王の叫びが、辺りの空気を震わせた。
「やれやれ獣王。国を捨てた挙句が臣下の刃に倒れるなんて、なんとも虚しくて情けない幕切れだな……」
アオレオーレがリートに貫かれたバルグルに目を遣りながら、ため息をついた。
だが、その時だった。
「ん……? なんだアレは!」
美貌の魔王は琥珀色の瞳を見開いた、何か、様子がおかしかった。
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「なんだ……リート? 何をしている……!?」
リートの振るった『マーデの短刀』に刺し貫かれながら、獣王は戸惑いの声を上げていた。
短刀は彼の魔気も、命も奪わなかった。
いや、その逆だった。バルグルに突き立てられた刃から放たれる凄まじい量の魔気が、彼の身の内を……力強く満たしてゆく!
「馬鹿な……この魔気は……!」
獣王の瞳が驚愕に見開かれた。
今獣王に満ちてゆく魔気の波動に、彼は覚えがあった。
「そうです。その力は、王妃キルシエ様のモノ……」
青い瞳でバルグルを見据えながら、リートは静かな声でバルグルにそう答えた。
「バルグル様。もう谷に戻らぬなら、私の元に戻らぬならば……せめて、あなただけでも無事でいて。あなたの望むことを成して……!」
リートの声の内に、耐え難い悲痛と、固い決意の色があった。
リートは思い出していた。
黒獅子城の夜、突如中庭に降り立ちバルグルの無事を彼女に告げた吸血鬼リーリエの言葉を。
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――獣王バルグルは生きています。
――ですが彼は傷つき、力を失っている。今ならまだ、あなたの手で助けられる……!
――そう、この剣に奪われた、王妃キルシエの魔気を彼に注げば……!
リーリエの血の香で意識を失う直前、彼女がリートの耳元で囁いた言葉。
彼女がリートに手渡したのは一振りの刃。『マーデの短刀』だった。
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「そして、その刃にはもう一つ……」
ビルの屋上の縁に腰かけて、人形の様な貌をした少女が、灰色の空を仰いでポツリ。
#
「キルシエ……! キルシエ……!」
バルグルの内を、キルシエの魔気が満たしてゆく。
魔気に込められた、王妃の記憶の断片がバルグルの心を駆けてゆく。
忌の際のキルシエの痛みが。
惜別の悲しみが。
バルグルとの思い出が。
刹那、獣王の視界がキルシエの忌のそれと重なった。
胸を貫く焼け付く炎のような痛みに王妃は思わず声を上げた。
彼女は振り向いた。彼女の背後に立つ者の姿を認めた。
火の粉の混じった熱風に長い黒髪が靡いている。
白魚のような指先が、王妃の胸から伝う血で赤く濡れている。
朱をさしたような形の良い唇が、微かに震えている。
キルシエは、見ていたのだ。
黒獅子城に入り込んできたマガツと対峙した彼女の胸を、背後から牙蜘蛛の刃『マーデの短刀』で刺し貫いた者の正体を。
呆然とした表情で、キルシエの血に染まった自身の両手を見つめている、人形の様な貌をした緋衣の少女の姿を!
#
「グアアアアウ! なぜだ! リーリエ!」
獣王は絶叫していた。
今こそ彼の運命を狂わせた、すべての元凶の正体が、獣王にもはっきりと分かったのだ。
獣王は怨嗟の声を上げた。怒りの咆哮をたてた。
自身の愚かしさと王妃への哀惜が、引き裂かれそうな無念が獣王を苛んだ。
その時だった。
#
夜が来た 風が吹いてる
冷たい風
モミの樹の 森を吹き抜けて
ひび割れた 木肌を叩く
冷たい風
フルートみたいな 悲鳴を哮てて
湿った土を 撫でてゆく
冷たい風
凍えたその手に カラカラと
朽ちた葉を 携えながら
土の中から 夜の森に
躍り出た 子鬼たちと
楽しげな ワルツを踊っている
私には それが見えるの
なぜだろう 悲しさに心のすさぶ
遠い日の語りぐさ 胸からいつも離れない
風が雪を運んでくる 大きな森が黒くざわめく……
どうしてか 心がざわつく
思い出が 心を吹き抜く……
なぜだろう 悲しさに心のすさぶ
遠い日の語りぐさ 胸からいつも離れない
風が雪を運んでくる 大きな森が黒くざわめく……
#
「…………!」
獣王は我に返った。
怒りに震える彼の銀色の蓬髪を撫でながら、掠れた声で彼に歌いかける者がいた。
翼の少女リートだった。
「リート……? 何を……している!?」
目の前の少女のただならぬ様子に気づき、獣王は狼狽の声を上げた。
#
なぜだろう 悲しさに心のすさぶ
遠い日の語りぐさ 胸からいつも離れない
風が雪を運んでくる 大きな森が黒くざわめく……
どうしてか 心がざわつく
思い出が 心を吹き抜く……
なぜだろう 悲しさに心のすさぶ
遠い日の語りぐさ 胸からいつも離れない
風が雪を運んでくる 大きな森が黒くざわめく……
リートの歌が風に乗って空を渡る。
「さようなら、バルグル……。今日こそが、本当の訣別……!」
微かな歌声を耳にしながら、ビルの縁から立ち上がった緋衣の少女が、ポツリとそう呟いた。
空を仰いだ人形の様な少女の貌からは、いかなる表情も読み取れなかった。




